第264話 『 泣きたくなるほど綺麗な夜空 』
ミケの笑顔が脳裏に強く浮かんだ瞬間。冬真は気付いてしまった。
「ごめん。四季さん」
ずっと、これは〝そう〟ではないと必死に自分に言い聞かせていた。否、知らぬ間に、自分の気持ちに蓋をしていたのだろう。
あの声が、あの笑みが、あの人の絵に向かう真っ直ぐな瞳が、ずっと頭から離れない。
「僕は、四季さんとは付き合えません」
「――――」
目の前にある
守りたい、居場所があった。
顔を上げれば、千鶴は無言のまま、衝撃に打ちひしがれているような顔をしていた。
その顔に奥歯を噛みながらも、冬真は静かな声音で言った。
「四季さんが僕のことを好きなってくれたのは、すごく光栄なことだと思ってます。僕も四季さんと同じで、一緒にいられる時間は心地よかった」
修学旅行で妙な関係ができて、それが続いて席が隣同士になって、冬真と千鶴の距離は少しずつ埋まっていった。
その中で、千鶴を友達ではなく、一人の女性として見たこともある。
千鶴の無邪気な笑みに、冬真の心臓は何度もドキッとさせられた。
あの心臓の昂鳴りは嘘じゃない。
もしかしたら、なんて甘い妄想をしたこともあった。
それでも。
気づいてしまった。
「僕には、支えてあげたい人がいるんだ」
今すぐに手に入る〝青春〟を投げ捨てでまで、守りたい〝居場所〟が冬真にはできてしまった。
それを告げれば、千鶴は息を飲んだあと、小さな声音で言った。
「それって……ミケ先生のこと?」
「――うん」
千鶴の問いかけに、冬真は静かに肯定する。
冬真が支えたい相手は、絵ばかり書いてて、生活能力が皆無で、アシスタントを無邪気に振り回す人。男が同じ部屋にいるのに平気で下着を見せつけてきて、こちらの気も知らずに堂々と着替え始めようとするどうしようもない女性だ。
冬真がいないと死にそうな生活をしてるくせに、なのに冬真の幸せを誰よりも強く願ってくれている――冬真の大切な先生。
――あぁ、そっか僕。ミケ先生のことが。
「僕は、ミケ先生の傍にいたい。あの人にどれだけ拒絶されても、たとえアシスタントを下ろされて奴隷になっても構わない。僕は、大好きなミケ先生を支えたいんだ」
「大好きって……それってイラストレータとしてじゃなくて?」
千鶴の問いかけに、冬真は静かに首を横に振った。
「ううん。僕は――先生としても、一人の女性としても、ミケ先生のことが〝好き〟なんだ」
そう、強く断言してしまえば、もう後戻りはできない。
自覚してしまったから、誤魔化すことはできない。
「僕は、ミケ先生のことが好きになっちゃったんだ」
言葉にしてしまえば、不思議と納得はいった。
初めは憧れが強かった。
けれど、ミケと一緒に同じ部屋で過ごすうちに、冬真は惹かれていったのだ。
先生としても、一人の女性としても、冬真はミケに恋している。
「それって、禁断の恋じゃないの」
「そうかもしれない。でも、僕ももう、自分の気持ちに嘘を吐きたくないんだ」
だって、と一拍置けば、冬真は千鶴の目を真っ直ぐに見ながら言った。
「四季さんが、僕に気持ちを伝えてくれたから」
「――っ!」
「僕も、四季さんにちゃんと自分の気持ちを伝えるよ」
揺れる。真っ直ぐに見つめる瞳が、一際に大きく揺れる。
感情を押し殺すように唇がきゅっと結ばれたあと、深く、静かな吐息がこぼれた。
「やっぱり、冬真はミケ先生一筋かー」
「……うん。あの人の絵が一番好きで、あの人のことが女性として好きです」
「冬真。ずっとミケ先生しか見てなかったもんね」
「……ごめん」
「謝らないでよ。そうやって冬真に申し訳なさそうな顔されると、頑張って告白した意味がなくなるじゃん」
でも、こういう時どんな表情をすればいいのか分からない。
冬真にとって、千鶴は初めて自分を好きになってくれた人で、気持ちまで伝えてくれた相手だ。
そんな相手の告白を断ったのだ。どんな顔をすれば正解なのか、人と関わることが少なかった冬真には分からない。
「いいんだ。私もダメ元で告ったんだから」
「――――」
「文化祭で一気に距離縮めて、ミケ先生じゃなくて私も冬真を見てるよ、って気付いて欲しくて告白したんだから」
「うん。やっと気づいたよ」
「ホント、気付くの遅すぎ」
千鶴は苦笑した。それに震えが混じっていたのは、もはや言うまでもない。
けれど、彼女はそれを悟らせぬよう、必死に笑みを浮かべてみせた。
一つ、言葉を紡ぐ度に深く息を吸って。
「振られちゃったけどさ、私は冬真の恋を応援してる。いつか、ミケ先生が振り向いてくれればいいね」
「うん。僕、頑張るよ。超頑張って、振り向いてもらう」
その努力を、千鶴に教えてもらったから。
千鶴が冬真にしてくれたように。今度は、冬真がミケに振り向いてもらえるように、努力する番だ。
そうでなければ、千鶴の告白を断った意味がなくなってしまう気がするから。
「わ、私そろそろ戻るわっ。早く戻らないと、みっちゃんと可憐が心配しちゃう」
「……うん。僕は、もうちょっと外の景色を眺めてから行くよ」
「そっか。か、風邪引くなよ、冬真っ」
「四季さんこそ、風邪引かないで」
「ふ、振った女に優しくするなー」
気丈に振舞う千鶴に、冬真は押し寄せる奔流を必死に耐えながら取り繕った笑みを貼る。
どうしてか、涙がこぼれそうになる。
その理由が分からないまま、冬真は去っていく千鶴を見届ける。
「あぁ、そうだ。一つ言い忘れた」
教室に戻ろうとした千鶴が踵を返すと、彼女は冬真に最後の微笑みを見せながら告げた。
「私、冬真と仲良くなれてよかった。初めて好きになった人が、冬真でよかった」
「――っ」
「言いたいことは、それだけ。じゃあね」
「……うん。またね」
必死に。必死に。必死に涙を堪えたまま、冬真は千鶴に手を振った。
――今、それを言うのはズルいよ。四季さん。
去っていく千鶴が、屋上の扉を閉める。
それを見届けたあと、冬真は奥歯を噛みしめながら空を見上げた。
もうすぐ茜色の陽は沈み、外は真っ暗になる。
「あぁ、夜空が綺麗だなぁ」
今日の夜空は、泣きたくなるほどに美しく輝いて見えた。
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