第190話 『 女に我慢を強いるなんて……悪い旦那さん 』


「ふーん。文化祭か」

「はい。それで結局、私たちのクラスは喫茶店をやることになってしまいました」


 夜。リビングで晴の中にすっぽり収まれる特等席で文化祭についての話をすると、彼はマグカップに口をつけながら生返事した。


「修学旅行の次は文化祭……高校生は多忙だな」

「そうですね。おかげで貴方と過ごせる時間が減ってしまいます」


 足りない分。こうして時間があればくっついているのももはや日課だ。晴が文句を言わないのをいいことに、美月は旦那からの温もりを享受し続ける。


「文化祭、来てくれますよね?」

「お前が来いというなら行く。小説の資料にもなるしな」

「動機がなんであれ、来てくれるならよしとしましょうか」


 執筆ばか、と内心で嘆息しながら美月は続ける。


「でも、一緒に校内を回れる時間はあまりないかもしれないです」

「喫茶店ということはお前の能力は重宝されるだろうな」


 美月が喫茶店でバイトをしているのは千鶴や可憐と数少ないが、料理の腕だけは全員に露呈してしまっている。おかげで、当日は美月に自由はなさそうだった。


「どうにか捻出しますからね」

「べつに無理しなくていいぞ。クラスはお前に期待してるんだ。たまには仲間の為に力を奮ってこい」


 やせ我慢ではなく事実だからこそ、美月としては不服だ。


「妻と一緒に文化祭回りたくないんですか? 貴重な文化祭デートなんですよ」

「高校生にとっては煌びやかだとしても、俺たちの実情としては犯罪臭がするな。……教員に補導されないか俺?」

「されませんよ。もしされてもしっかり私が説明しますから」

「どう言うんだ?」

「そ、それは……カレシだと」


 挑発的に聞いてくる晴にそう照れながら答えれば、晴は美月の顔を覗き込みながら、


「夫じゃないのか?」

「夫ですけど……私たちの関係はナイショですから」

「ふーん。そうか」

「……うぐ」


 わざとらしく寂しそうな顔がズルい。


 本当にそんな状況になってしまったら、晴のことを旦那だと言ってしまうかもしれない。それが周囲に露呈すれば、美月は堂々と小説家・ハルの妻だと名乗れる。代わりに、ハルの小説家としての人生に危険が及ぶかもしれないが。


 ――彼はどっちがいいのだろうか。


 心臓がどきどきと音を鳴らせば、そんな美月に晴はふ、と微笑をこぼして。


「冗談だよ。カレシでいい」

「もうっ。貴方のイジワル」


 悪い笑みを浮かべる晴に美月はフグのように頬を膨らませた。

 拗ねる美月に晴は苦笑をこぼすと、


「少し揶揄い過ぎたな」

「明日の晩御飯のおかず一つ減らしますからねっ」

「調子に乗ってすいませんでした」


 晴の弱点を突けば、即座に謝罪が返ってきた。

 やれやれ、と嘆息しつつ、


「……人の苦労も知らないでまったく」

「? 何か言ったか?」

「なんでも。ただ私を揶揄った罰として、頭を撫でることを所望します」


 そう催促すれば、晴は「へいへい」と相槌を打って美月の要求に応えた。


 優しく、それこそ愛玩動物を愛でるように触れる手の温もりを堪能しながら、美月は上目遣いで訊ねる。


「ふふっ。どうですか妻の頭を撫でる気分は?」

「気持ちいいぞ。お前の髪はさらさらしてるから、撫で甲斐がある」

「エクレアの毛並みとどっちがいいですか?」

「どっちもだな。エクレアもお前の髪も両方触り心地抜群だ」

「むぅ。そこは私と言って欲しいです」

「こうして撫でてやってるんだから我慢しろ」


 はーい、と子どもみたく返事する。


 晴の言葉に裏表はないのは分かっているし、こうして触り心地がいい、と褒めてくれるのは素直に嬉しかった。毎日髪を手入れしている甲斐があるというものだ。


「貴方の手は落ち着きますねぇ」

「そうか。俺としては好きなように撫でてるだけなんだがな」

「ふふっ。それじゃあこれは天賦の才ですね」

「そんな才能いらねぇ」

「必要ですよ。私を喜ばせられるんですから」


 そう言えば、晴は「そういうことにしとく」と苦笑した。


 伝わってくる晴の愛情。それを余すことなく身体に注いで、また明日頑張るために充電する。


「ね、晴さん。キスもして?」

「もう少しこの髪を堪能してからで」

「いいですけど……我慢できなくなったら私のほうからしちゃいますからね?」

「少しくらい我慢しろよ」

「女に我慢を強いるなんて……悪い旦那さん」


 くすくすと笑いながら言えば、晴は肩を落として。


「分かったよ。キスするから、目瞑れ」

「ふふ。ちょろい旦那さん――んっ」


 揶揄う美月の口を塞ぐように、晴は唇を重ねた。


 やっぱり疲れた身体に一番疲労回復の効果があるのは、晴との甘いスキンシップなのだと、愛しの人の唇の感触を味わいながら実感するのだった。


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