第318話 『 天ぷらと言えば海老でしょう? 』


 ――大晦日。


「「いただきます」」


 テーブルに夕飯が並び終わり、美月も着席したことで夫婦は揃って手を合わせる。


 今日は大晦日。ということで夕飯は年越しそばだ。しかし、ただの年越しそばと侮るなかれ。


「なんて美味そうな海老天だ」

「スーパーでいい海老があったので。天ぷらといえば海老でしょう?」

「年越しそばの定番だよな」


 ふふん、とドヤ顔する美月。しかし、彼女の手腕は当然海老の天ぷらだけで留まることはない。


 そばに乗ってあるのは海老の天ぷらだけだが、別皿には他の天ぷらも揚げられていた。


 とり天にいか天、ナスとまいたけの天ぷらと選り取り見取り。その中で最も晴の目を引いたのは、


「これ卵の天ぷらか」


 丸い物体を凝視しながら問えば、美月ははい、と頷いた。


「本当になんでも作れるんだな。感心するわ」

「大袈裟ですよ。天ぷらなんてころもを纏わせて油で揚げるだけですから」


 たしかに過程はそれだけだが、特筆すべきはこれだけの品目を作ろうという気概だ。


 手間を省かない、というより手間を惜しまない姿勢の美月には唯々敬服させられた。


「ありがとな」

「ふふ。それが私の務めですから」


 その気持ちも嬉しく思っていると、美月は「麺が伸びてしまわないうちに食べましょう」と促してくる。


 その通りだと晴も顎を引けば、ごくりと生唾を飲み込んだ。


「そばの前に、まずはつゆだな」


 瑠璃色に輝くめんつゆに惹かれるように、晴は茶碗を両手で持つとそのまま唇につけた。


 ずずっ、と飲み込めば、口内に醤油のまろやかさと花かつおの風味が一気に広がった。


「どうですか、お手製のつゆのお味は?」

「美味である」

「キャラが変わってますよ」


 ぷはぁ、と心底美味そうに吐息をこぼす晴を見て、美月が苦笑。


 まだ口の中に残るつゆの味が晴の食欲を更に刺激してきて、急かすように箸を進めさせた。


「麺もうまし」

「手打ちそばのものですから。麦の風味とコシは市販品と違うと思いますよ」


 たしかに美月の言う通り、噛めば押し返すような弾力がある。それでいて柔らかく、麦の風味を感じる。


 うまうま、と箸を止めない晴を、美月は微笑みながら見つめていた。


「それだけ美味しそうに食べてもらえると、妻冥利に尽きますね」

「こんな美味い年越しそば初めて食べる」

「大袈裟では?」

「嘘ついてないぞ。天ぷらもサクサクで箸が止まらん」


 つゆも海老天の油が効いて、より深みが増している。麺とつゆを交互に食べながら時折天ぷらを挟めば、そばと天ぷらの無限ループに嵌ってしまった。


 そうして食べ進めていれば、ふと昔を思い出す。


「……こうして年越しそばを食べるのも久々だな」

「毎年どうしていたんですか?」


 ぽつりと呟けば、美月の眉がぴくりと動いた。


「気になるか?」

「とても」


 そんなに食いつくことではないと思うがな、とは思いながら、晴は箸を止めて答えた。


「執筆してたら年越してたことが殆どだったからな。だからコンビニで弁当買って済ませてた。大晦日なんてコンビニくらいしか店やってないしな」

「相変らずというか、それでよく今まで生きてこられましたね」

「それ以外興味なかったからな。書かないと体がムズムズしてくるし、書いてた方が余計なこと考えずにいられたから」


 クリスマスなんて外に出ればカップルや仲睦まじそうなカップルばかりで、何故か虚しさと不快さが湧いてしまうのだ。


 年末年始もゆっくりしようとは思っても〝書かなければ〟という衝動に駆られて、書いてしまって、気付けば正月が過ぎていた。


「今思えば、なんで俺はあそこまで必死になって書こうとしていたんだろうな」


 自分で言うのもあれだが、作品は売れているし人気もあった。それでも満足していなかったから書いていたのだろうか。


 ――否。答えはもう分かっている。


 晴はずっと、怖かったのだ。


 独りで生きることに。独りでしか生きられないと理解していたから、小説に縋っていた。


 縋ることで得た安寧は、けれど晴を無意識に苦しめていたのに。


 自分の心を蝕んでいく感覚はたしかにあった。段々と息苦しくなっていく感覚も。時折見る悪夢も。それに気付いていながら知らぬふりをして、やがて現実世界に興味と関心がなくなってしまった。


 そんな色褪せた世界を生きていた晴に、再びその世界に色付かせてくれたのは、今目の前にいる美月で。


「なぁ、美月」

「なんですか」


 止めていた箸を再び動かしながら、晴は妻の名を呼ぶ。


「今年……いやもう来年か。正月はゆっくりしようと思う」


 そばを啜りながらそんな宣言をすれば、美月は数秒だけ目を瞬かせる。


 それから桜色の唇が三日月を描くと、


「ゆっくりしていいと思いますよ。貴方はいつも頑張ってるんですから」

「ん。ありがとな」


 もう独りではないということを、妻のそんな言葉が実感させてくれた。

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