第73話 『 一緒にいたい。そう思うから、貴方を愛してるんです 』


 いつからだろうか。晴がこうして、美月が眠るまで傍にいるようになったのは。


 晩御飯の後はいつも仕事部屋に籠っていた晴は、気が付けば美月の傍にいることを優先していた。


「今日はもう小説、書かないんですか?」

「ん? お前が寝たら書くかもしれない」


 ぶっきらぼうに言って、晴はまた視線を小説に戻した。


「手を握りたいです」

「そしたら本読めないだろ」

「でも、握りたいです」

「強情だな」

「ワガママと言ってください。それだと可愛げがありません」


 めんどくせぇ、と顔を顰めるが、それでも結局、晴は美月のお願いに応じた。


 本を閉じて手を握れば、ゆっくりと、晴の指先の感触を確かめるように絡めてくる。


「むずむずする」

「あら、もう慣れたと思ったのに」

「お前が変な握りかたしてくるからだ」

「むぅ。変じゃありません。じっくり絡めているだけです」

「それがむずむずするって言ってんだろ」

「我慢してください」


 背筋を震わせる晴を、美月は愉しそうに口許を緩めながら見ていた。

 それでも徐々に美月の指に慣れていけば、晴はふぅ、とひと心地着く。


「本当に慣れましたねぇ」

「頻繁に手を繋いでるからな」

「その全部が私からだって知ってました?」

「知ってる」


 くすくすと笑いながら問いかける美月に、晴は相変わらず淡泊に応える。


「たまには晴さんから繋いでくれてもいいんですよ?」

「機会がない」

「機会なんて必要ありません。握りたいと思えば、いつでも握ってくれていいんです」


 いまの私みたいに、と美月は手をぎゅっ、と強く握りしめた。


 ――何かが、違う気がした。


 こうして、美月が晴に甘えてくる時は最近ではよくあることだ。

 でも今日の美月の甘え方は、いつものそれと違和感があった。

 柔和な微笑みも、何か、別の感情を向けていられる気がして。

 眉間に皺を寄せれば、美月は微笑みを絶やさずに催促した。


「キスしましょ」

「唐突にどうしたんだ」

「晴さんとキスがしたいです」


 ムードなんてなければ突拍子もなさ過ぎて晴は戸惑う。


 まるで晴の思惟を肯定してくるかのような、少し大胆に甘えてくる美月は、点いていたテレビを消すと顔を近づけてきた。


「ほら、早く」

「それは俺からするのか」

「じゃあ私からしましょうか?」


 片方の目だけを開けて、挑発的に問い掛けてくる美月。


 理由は分からないが、たぶん今日は甘えん坊モードなのだろう。そう勝手に解釈すれば、晴は妻のご要望通りに顔を近づけていく。


 晴を待つ美月の頬を撫でて、淡い桜色の唇を奪う。


「「――ん」」


 吐息が重なり、唇が重なる。


 刹那の感触。唇を離せば、甘い香りと彼女の熱が儚く消えていく。そしてゆっくりと顔を離していけば、美月もゆったりと紫紺の瞳を開けた。


「キスも慣れましたね」

「なんだ。今日は何かの試験か?」

「ふふ。言い得て妙ですね。試験……そうですね。そうしましょう」


 晴の言葉にくすくすと笑う美月。


「じゃあ晴くん、次の問題です」

「俺で遊ぶな」

「あてっ」


 一度晴を揶揄いだすと中々止まらないのが美月なので、早々に出鼻を挫く。

 前髪越しにデコピンを食らわせれば、美月は両手で額を抑えた。


「調子に乗りました」

「分かればいい」


 しゅん、と反省をみせる美月に晴はぽん、と頭に手を置いて撫でた。


「女心分かってます」

「撫でてるだけだろ」

「片方で手を繋いで、空いた手で私の頭を撫でるのは高等テクニックです」

「……こうしたいと、思っただけだ」


 百点です、と花丸をくれた美月。晴は、自分の行動に戸惑っていた。


「女慣れしましたね」

「ちょっとやな言い方するな」

「いったい誰が晴さんをこんな風に女誑しにしたんでしょうか」

「お前以外いないだろ」


 晴は恋愛経験ゼロ=人生の男だったので、初めて交際した相手は美月しかしない。正確にいえば交際もせずに同棲して結婚したが。


 そんな晴の答えに、美月はご満悦そうに口許を緩ませる。


「そうですね。晴さんの初めての女は私でしたね」

「お前で色々勉強させられた」

「喜んでください」

「それに関してはそうだな。お前で良かった」

「うっ。直球で褒められると照れます」

「もっと褒めてやろうか?」

「や、やめてください。骨抜きにされてしまいます」


 頬を朱に染めて、晴の視線から逃げようとする美月。

 それが可愛いと思えて、無性に抱きしめたくなってしまった。

 そんな、突然芽生えた感情に戸惑う晴は、


「わっふ……は、晴さん」

「悪い。でも、こうさせてくれ」


 気が付けば、体は勝手に美月を抱きしめていた。

 いきなり抱きしめられて困惑する美月に、晴は謝りながらそう懇願した。

 ふふ、と耳元で笑い声が聞こえた。


「満足するまで、私を抱きしめてていいですよ」

「すまん」

「謝らないでください。晴さんから求められるのは嬉しいです」


 美月は晴の欲求を肯定してくれた。


 優しく、美月の体温を感じるように体を抱き寄せれば、なんとも表現し難い感情が膨らんでいく。


「(俺もどうかしてるのか)」


 急に美月を抱きしめたくなった自分に、晴は終始戸惑っていた。

 何が晴を動かしているのか、理解しようとしても解答は出ない。

 もやもやする頭に、甘い声が問いかけてくる。


「私の抱き心地はいかがですか?」

「よく分からない」

「そこは気持ちいいと言ってくれないとダメです」


 耳元で不服そうに声をうならせる美月。けれど、晴は本当に混乱していた。


「気持ちいいのはたしか、だと思う。でも、なんだろうな。それ以外にもある気がして」


 うまく適切な表現がうまく出てこない。小説家だというのに、情けないばかりだ。


 逡巡する晴に、美月は「困りましたねぇ」と何やら楽しそうに呟いていた。


「困惑する晴さん、なんだか無性に可愛いです」

「なんだそれ。つーか、なんでそんな嬉しそうなんだ」

「さて、どうしてでしょうか」


 こっちは困っているのに、美月はずっと楽しそうだ。


「お前は知ってるのか?」

「はい。知ってますよ。だって、私も晴さんも、たぶん同じ感情ですから」


 握り合っている手。そして空いていた片方の手を、美月は晴の背中に回した。

 それはまるで、子どもあやすように、優しく背中を撫でてくる。


「教えて欲しいですか?」

「あぁ。教えて欲しい」

「いいですよ。教えてあげます」


 縋るように、嘆願するように求めれば、美月は柔和な声で肯定してくれた。

 晴さん、と名前を呼んでから美月は教えてくれた。


「それはですね――幸せです」

「――――っ」


 美月の言葉に、ドクン、と心臓が跳ねる。

 幸せ、という言葉。それに晴は大いに戸惑う。


「(俺が? それを感じてるのか……)」


 もう二度と味わうことはないと思って、そして忘れてしまった感情。

 いつかあった感情。その芽生えの兆しに、晴の手が震え出した。

 愕然とする晴に、美月は凪のような声音で言う。


「分からないのも無理はないと思います。晴さん、ずっと小説ばかり書いてましたし。分からないというより忘れてしまった、というほうが近いでしょうか」

「…………」


 鼓膜を震わせる、銀鈴の声音。それはひどく穏やかで優しかった。けれどその声音は沈黙する晴の胸裏をことごとく暴いていく。


「誰かと触れ合うって、不思議と心が満たされるんですよね。まぁ、私は小さい頃きりで最近は味わってませんでしたが」

「他の、元カレとは感じなかったのか」

「はい。感じませんでした」


 いまだ戸惑いを孕ませる声音で聞けば、美月は肯定した。


「こうやって抱き合っても、何も感じませんでした。晴さん以上に触れ合っても、心は満たされませんでした」


 美月はすでに、晴よりも大人の階段を登っている。


 互いに好意があって付き合って、体と体を重ねて――けれど、そんな美月は満たされなかったという。


「なら、なんで俺の時はそう感じるんだ」

「貴方が好きだからです。心の底から」

「――っ」


 照れもなく、恥じらいもなく純粋に想いを吐露された。


 脳が理解しきれず、声がうまく出てこない。金魚のように口をぱくぱくすれば、激情に戦慄する晴の意識に優しい声音が溶け込んでくる。


「貴方が好き。小説のことしか考えてない貴方だけど、私より小説を優先してしまう執筆バカだけど、でも、好き」

「――――」

「さりげなく気遣ってくれたり、不意打ちで喜ばせてくれる貴方が好き。いざという時は身を挺して私を守ってくれる貴方が好き」

「――――」

「こうやって抱きしめて、一緒に幸せを感じてくれる貴方を――愛してます」

「――っ」


 美月は胸の内の全てを曝け出したように想いを告白した。

 愛している、とそんな風に言われたのは初めてだった。

 呆れてなお好意を向けてくれる人は、初めてだった。


「なんで、愛してるんなんて……言うんだ」


 そんな感情を、晴は美月に贈れた覚えがない。


 いつも不愛想で、ぶっきらぼうで仏頂面で、何もかも淡泊に返す男だ。


 そんな男を、なんで愛せることができる。


 不安。畏怖。戸惑い。逡巡――無理解を示す頭に、美月の声音は、それすらも肯定して答えた。


「一緒にいたい。そう思うから、私は貴方を愛してるんです」


「――っ」


 それは、晴も同じ気持ちだった。

 不安。畏怖。戸惑い。逡巡――無理解が、美月の言葉を理解して落ち着いていく。


 ――執筆バカの俺を、お前は呆れないで一緒にいたいって思ってくれるのか。


 安らぎが、心満たしていく。

 満たされた心を、美月はさらに安寧を与えるように、告げた。


「私は、貴方の全部を受け入れますよ。だって、貴方の妻なんですから」


 支えると、受け入れると――八雲晴を愛してくれたのは、美月が初めてだった。


 ――そうか。忘れてた。


 ぽかぽかと、胸が奥底から温まっていく感覚。何年かぶりにそれを思い出せば、晴は握っていた美月の手を離す。


 そして、両手で強く、強く美月を抱きしめた。


「思い出した。そっか……幸せ、ってこういうことなんだな」

「感じられましたか?」


 晴と同じように、美月も両手で晴を抱きしめてくれた。

 そして、美月の問いかけに、晴は微笑みを浮かべて、


「いま、すごく感じられてる」


 思い出させてくれた、愛すべき妻へ――


「思い出させてくれてありがとう。美月」


 万感の感謝を込めて名前を呼んだのだった。

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