第72話 『 私の人生の隣は、晴さんじゃなきゃダメなんです 』



「晴が満足してるから俺は止めなかった。……いや、何もできなかったに近いかな」


 ふ、と嘲笑するサトル。

 諦観。それを思わせる顔は、晴の壮絶な過去に清算がないことを如実に語っていた。


「美月ちゃんは、どうして晴と結婚しようと思ったの?」

「……私は」


 サトルの問いかけに、美月は逡巡した。

 小説家・ハルを、八雲晴を支えたくて、美月は結婚した。

 けれど、この過去を知れば自分が正しい事をしているのか分からなくなってしまった。


 ――小説が晴から全てを奪った。


 その言葉の意味が、美月に重くのしかかる。

 晴から全てを奪った小説を、サトルは憎んでいる。

 当然だろう。友達の人生を狂わせた挙句、人格すらも歪ませてしまったのだから。

 美月の知っている晴は、何かもが壊れた後の晴だ。

 そんな晴に、友人はどんな想いを馳せているのだろうか。

 サトルの答えは分からない。


「(でも、私の答えは変わらない)」


 嫌われてもいい。憎まれてもいい。

 晴へのこの恋慕は、何一つ変わらないから。


「私は、晴さんを支えたくて結婚しました」

「――――」


 逡巡を飲み込んで答えれば、サトルは沈黙した。


「俺は晴の人生に口出しはしない。壊れたアイツに何もできなかった俺が今更出しゃばったところで煙たがられるだけだから。でも、これ以上壊れていくのも看過はできない」


 そのために慎くんから晴の様子を聞いてるしね、とサトルは言った。


「キミがいるなら、俺も少しは安心できる。でも、キミは晴の何なのかな? ただのお嫁さん? それとも晴の財産目当ての女?」

「さと……」

「構いません、慎さん」


 慎がサトルの慈悲のない問いかけに反発したが、それを制したのは美月だった。


「私は、晴さんのストッパーです」


 ストッパーね、とサトルは双眸を細くする。


「晴さんが無茶しないように、いつも全力で執筆できるように支えるのが私の役目です」

「キミは、俺の話を聞いてなお、晴に小説を書いて欲しいと?」

「はい」


 凛然とした眦で肯定すれば、サトルは呆気に取られたように目を見開く。


「晴さんにそんな悲しい過去があるとは知りもしませんでした。教えてくれなかったのは、それは晴さんがまだ私に全幅の信頼を置いてくれていないからでしょう」

「それはないよッ」


 美月の言葉を否定する慎に、美月は「分かってます」と凛然とした目で制する。


「全幅の信頼は置かれてませんが、でも好意は持たれていると自覚しています。そして、少しずつ信頼も獲得できていると思っています」

「仮に信頼度がマックスになっても、晴は自分から過去を明かそうとはしないよ」

「えぇ。サトルさんからの話を聞けば否応なく納得できます」


 あんな話を聞けば、過去を吐露できないのも無理はない。だってトラウマになっているのだから。

 それに美月だって、晴に伝えられない過去が多くある。

 晴はそれに踏み込んではこない。それは美月に興味がないからなどではなく、慮ってくれているからだ。

 だから美月も晴の過去に無遠慮に踏み込む気はない。かさぶたを無理矢理に剝がしても、血が滲むだけで治りが遅くなるだけ。

 かさぶたはかさぶたのまま。時間が経って自然と剥けるまで待つのもの。


「私は晴さんから言ってくれるまで待ちます。どれだけ時間が掛かってもいい」

「キミに話して、晴は救われるかな?」

「分かりません」


 傷が癒えるかなんて、それは美月には分からない。

 それでも、美月は晴の嫁だから。

 晴を誰よりも支えていくたいと思ったのは美月自身だから。

 執筆バカで不愛想な彼に、自分が支えていくと誓ったから。


「私は、晴さんの過去を受け入れます」


 何よりも美月と晴は夫婦だから。

 ならばあの人の傷も、美月のものだ。

 その紫紺の瞳に宿るのは、慈愛そのもので。


「今の晴さんも受け入れます」


 美月が好きになったのは、仏頂面で愛想がない執筆バカの晴だ。

 全てを受け入れると豪語する美月に、サトルは懐疑的な目を向ける。


「キミは物好きなのかな?」

「そうかもしれません」


 美月は自嘲した。

 そんな美月をサトルは真っ直ぐに見つめて、


「キミが本当に晴を好きなのは分かった。未成年なのに結婚するくらいだからね。でも、その程度じゃ晴の過去は清算されない」

「はい」


 理解している。

 どれほどの幸福を積み重ねようとも、もう晴は元には戻らないかもしれない。

 壊れてしまった理由を、この中の誰も知らない。

 晴はどうして、小説以外全部を捨てる選択肢を手に取ったのか、美月は知らない。

 それでも、


「この世界には、〝今の〟晴さんを必要としてる人がたくさんいます」


 慎に、文佳に、華に、ミケさん。

 出版社や晴の関係者や――金城みたいなハルの大ファン。

 晴を必要としているのは、本人が思っている何百倍もいる。

 そして誰よりも晴を必要としているのは――


「私は晴さんが好きだから結婚しました。あの人に会えたから、色んな気持ちを知れました。私の人生の隣は、晴さんじゃなきゃダメなんです」

「「――――」」


 この世界で一番〝今の〟晴を必要としているのは、妻である美月だ。

 誰よりも、何よりも、晴が好きで心の底から支えていたいと思うのは、美月だ。

 否定はさせないし、認めてくれないのなら認めさせるまで。

 それが例え、訣別した晴の家族でも。


「私は晴さんの妻です。支えていくと約束しました」


 強く、拳を握る。


 ――あぁ。私が晴さんと結婚した意味が分かった気がする。


 どうして、あんな執筆バカに惚れたのか。

 どうして、あの淡泊な男のプロポーズを受け入れたのか。

 あの日、これまでの日々とは違う何かが始まる予感がしたから、美月は晴の手を取った。

 どうしてか彼の傍に居たいと思ったのは――それは、八雲晴を救う為だ。

 それなりに満足した鬱屈とした日々から外へ連れ出す為に、美月は晴と結婚したのだ。


「晴さんが小説を書くための代償として全部捨てたのなら、私が晴さんにあげていきます。教えてあげます。犠牲よりも代償よりも、それ以上の対価を私と一緒に享受してもらいます」


 どれほどの犠牲。

 どれほどの代償。

 どれほどの絶望が晴を襲って、その心を奪っていったのなら、今度はその分の幸福を晴が神様から教授されればいい。


 美月が与えてあげればいい。


 だって晴はもう、独りではないのだから。すぐ傍に、美月がいるから。


 ――一緒に歩んで行くのは、美月なのだから。


 夫婦として、沢山の幸せを手に取っていこう。

 夫婦だから、幸せを受け入れていこう。

 そんな覚悟を試すように、サトルは問う。


「キミはまだ子どもだろ。子どもがそんな重荷を背負って平気なの?」

「子どもですけど妻ですから。あの人の妻って凄く大変なんですよ。どちらかといえば晴さんの方が子どもっぽいです」


 呆れた風に答えれば、サトルが堪え切れずに吹いた。隣では慎も笑っている。

 おどけたせいで、緊張で糸が張っていた空気が弛緩してしまった。

 でも、晴と過ごす日常はいつもこんな空気だから、美月にとっては居心地がいい。

 思わず笑ってしまったサトル。そんな晴を慮る友達に美月も微笑みがこぼれる。


「責任は重大ですけど、私なりのペースなら問題ありません。それに、ちゃんと晴さんが小説以外にも目を向けられるように鋭意努力してます」


 どんな? と興味を寄せるサトルに、美月は愛し気に双眸を細めて答えた。


「今は難しいかもしれませんけど、いつか私で晴さんの頭をいっぱいにしたいって思ってるんです。あの執筆バカさんを振り向かせるのは大変ですけど」


 あはは、と苦笑。

 晴を振り向かせるのは大変だ。でも少しずつ、晴は美月に振り向いてくれている。

 手を繋いでくれて。

 キスもしてくれる。

 想像以上に好きだと好意も伝えてくれて。

 一歩ずつ前進している証拠があるから、美月は怖気づくことはなかった。

 それに、晴を振り向かせるのは楽しい。


「だからサトルさん。どうか私と晴さんを見守っていてください」


 これまで晴を見てくれていた晴の友人に、美月は深々と頭を下げた。

 これまで晴を見守ってくれた友人へ、晴に代わって感謝を込めれば、サトルは「ふふ」と笑った。

 そしてついには堪え切れずに、


「ふふ……はは。あはは!」


 と笑いだした。


「あ、あのサトルさん?」

「あはははっ!」

「慎さんまで⁉」


 サトルが笑いだしたと思ったら、慎まで笑い始めた。

 訳が分からないと困惑すれば、目尻に涙を溜めたサトルは深く吐息した後に言った。


「いやぁ、現実にこんな立派な人がいるとは思いもしなくて。ごめん。おかしくて笑っちゃった」

「ホント凄いね。晴はつくづく幸せものだよ」

「それな。もう勝ち組だねアイツは」

「あ、あの二人ともどうして笑ってるんですか?」


 うまく状況ができずにおろおろとすれば、そんな美月に慎とサトルは微笑みを向けた。


「晴が羨まし過ぎて嫉妬してるんだよ」

「そうそう。アイツのくせにこんな最高の嫁をもらって羨ましいんだよ、俺たちは」


 それが可笑しいから笑っているのだと、二人は言った。

 ひとしきり笑い終えたサトルは、目尻に堪った涙を拭うと、


「晴が出会ったのがキミでよかった」

「――っ」

「キミが晴の奥さんになってくれて、本当によかった」


 微笑み、そしてサトルは頭を下げた。


「どうか、晴の傍にこれからも居てあげてほしい」

「俺からもだね。――晴には、美月ちゃんが必要だ」


 慎も、深々と頭を下げてくる。

 それが、これまで晴を支えてくれた友人たちからのバトンということは、言葉にするまでもなく伝わって。


「はい。晴さんは私に任せてください」


 美月は力強く、そのバトンを握ったのだった。

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