第71話 『 対価の代償 』


 憎しみ。それを宿したような静かな声音に、美月と慎は頬を硬くした。


「晴の性格が変わったのは、高三の秋ごろだった」


 晴の処女作【微熱に浮かされるキミと】が出版社からオファーされて書籍化が決まり、ネット小説でランキング一位を獲っていたそれは書籍化と共にさらに人気が集まった。


「晴が小説家だって事実を、俺たちクラスの皆は知ってた。俺が言いふらしちゃったんだけど……それで他の生徒からも絡まれることはあったけど、でも皆晴を応援してた。晴も、色んな人の期待を背負ってるからって張り切ってた」

「それは今と変わらないんだな」


 初めは朗らかだった慎の声音も、サトルの表情が張りつめていくと共に真剣になっていく。


「背負った期待に、晴は応える努力もしてたからね。でも当然、全員が晴を応援してくれる訳じゃない」

「アンチだね」

「そう」


 人気がつけば――否そうでなくとも、作品を否定する存在は現れる。純粋な否定もあれば、悪意に満ちた否定も。


 けれどそれだけでは晴は止まらないはずだ。


 美月の思惟を肯定するように、サトルは言った。


「その程度で晴は落ち込まなかったよ。「俺の作品を好きな人も嫌いな人もいる。だから好きな人にはもっと好きになってもらって、嫌いな人たちにも認めてもらえるように努力する」って笑いながら言ってた」

「晴さんがそんなことを……」

「小説家の鑑だね」


 驚嘆する美月に、慎も脱帽したように呟く。

 そして、そこだけはサトルも強く共感してくれた。


「俺はそんな晴がカッコいいと思った。すぐ身近にプロがいて、努力することを止めずに研鑽を続ける。本当に同年代かと疑った」

「そんな奴が傍に居たら、俺は嫉妬するかも」

「はは。慎くんも同じ作家だからね」

「そうだけど、俺は晴のように真っ直ぐじゃない。読者を楽しませようとは思っても、一番楽しみたいのは俺だから」

「それは晴も同じだと思うよ」


 張りつめていた空気は一瞬だけ弛緩する。しかし、間もなく糸は張りつめる。


「プロになって、活躍する晴を嫉む者は少なからずいた。それには動じなかった晴だけど、そんな晴を否定したのは家族だった」

「「――っ⁉」」


 家族、という単語にたまらず美月と慎は息を飲んだ。


「サトルさん、家族って……」

「晴の家族は、晴が小説家として活躍するのを認めなかった」

「……そういえば、晴から家族の話聞いたことないな」


 美月もだ。

 そんな慎の小声を、サトルは「当然だよ」と顎を引いて、


「慎くんは、自分を見捨てた家族の話をしたい人かい?」

「――っ‼ ……無理だと思う」

「晴はそれだ」


 顔をしかめる慎に、サトルは瞳を伏せて告げた。

 ゆったりと、その瞳が美月に移ると、サトルは問いかけてくる。


「キミは、晴から家族のことを聞いたことはある?」

「ありません」


 サトルの問いかけに、美月はゆるゆると首を横に振る。


「結婚の挨拶に行ったほうがいいかと訊ねた時、晴さん「俺のほうは行かなくていい」って。なんだか踏み込んではいけない気がして、言及はしなかったんです」


 賢明な判断だ、とサトルは美月のあの時の判断を肯定した。


 晴が華への結婚挨拶を済ませた後、美月は晴に八雲家への挨拶をするべきだと日取りを決めようとした。しかし、晴は『行かなくていい』の一点張りだった。


 ずっと疑問に思っていたが、サトルの話を聞いて留飲が下がった。


 晴は、家族と不仲だった。否、美月の想像以上に溝が深いのかもしれない。


「晴はおそらく、家族にキミと結婚したことも報告してないだろうね」

「……はい。そうだと思います」


 こくりと頷けば、サトルは呆れることなく「したくないだろうな」と晴の判断を是としていた。


「あの、サトルさんは晴さんの家族を知ってるんですか?」

「少しだけね」

「教えてください」


 懇願すれば、サトルは快く教えてくれた。


「晴は三人兄妹の五人家族だった。晴は末っ子で、兄と姉が一人ずつ。父親は銀行員で、母親は高校の教師」

「それだけ聞くと、結構裕福な家だし厳しそうな家庭っぽいイメージなんだけど」

「その認識で正しいよ。晴のお兄さんとお姉さんは大学に進んでるし、それが当然のように大企業に勤めてるよ」


 答えたサトルに、慎は不快そうに顔をしかめた。


「……なんとなく、話の流れが見えてきた」

「さすがは慎くん」

「私も分かった気がします」

「キミも中々の推察力だ……と思ったけど、この流れだと誰でも連想できるかな」


核心に迫りつつある美月と慎にサトルは苦笑した。

その笑みが消えると、サトルは虚しそうな声音で吐露した。


「晴の家庭は厳しくてね。晴が小説家になることを許さなかった。高校のレベルを下げた時も父親にぶん殴られたらしいし、小説を書き始めた頃も部屋から出ないで書き続けてたらしい。出ても家族全員に睨まれるからって。ご飯も、その時からあんまり食べなくなったそう。ていうか、食卓に晴の分のご飯が出なかった時もあるらしい」

「――っ⁉」

「なんだそれ……っ」


 唖然とする慎。そして美月は、声にもならない悲鳴を上げた。


 家族で共に過ごす食卓。そこに晴のご飯がなければ、そんなのはもう晴の存在を否定しているようなものではないか。


「(――っ。もしかして、晴さんが人のご飯を食べられない理由って……)」


 サトルの話を聞いて、晴が人の手料理を食べられない原因を突き止めた気がした。


 家族からの虐げ。それがトラウマとなって、晴の胃は他人の手料理を受け付けなくなったのではないか。それならば説明もつくし納得がいく。


 隣をちらりと覗けば、慎も美月と同じ思考を辿っていた。


「本人は笑い飛ばしてたけど、相当キツかっただろうな」

「そんなの、当然だろ」


 晴の境遇に、慎が奥歯を噛みしめた。

 戦慄する美月は言葉が出ず、慎は非情さに打ちひしがれている。


「家族との関係が悪化しても、晴は応援してくれる読者の為にもって歯を食いしばって書き続けてた。そんな晴を見てたら、俺だって応援するに決まってる」

「……すごいな、アイツ」

「あぁ。晴は挫けなかった」


 家族から邪険に扱われた晴の心の支えは、読者だったそう。

 けれど、晴には心の支え以上の逆境に遭っていた。


「誹謗中傷に家族からの虐げ。加えて原稿の締め切りというプレッシャー。多忙と心休まらない日々を過ごしてたのに、晴に安寧はどこにもなかった。心なんていつ壊れてもおかしくなったけど、晴は強かった。友達と遊ぶこともせず、休日も執筆を優先。夏休みも課題そっちのけで執筆。修学旅行の時も、楽しむより小説のことばかり考えてた」

「その頃から、晴は晴だったてことか」

「褒めるべきものではないよ」


 険のある声音に、慎は「分かってる」と顔をしかめる。


 晴が小説の事ばかり考えるようになったのは、高校生の時からだった。


 数時間前なら『晴らしい』と美月は笑えたかもしれない。でも、サトルの話を聞けば、笑う余裕なんてない。――いったい、どれほどの犠牲を伴って、晴は小説を書き続けたのか。


「バレーを辞めて、高校生活の全部を捨てて、それが結果として書籍化と、人気作家の道に繋がった」

「そんなの安いものでしょ」

「あぁ。安いものだね」


 書籍化の対価に要求されたのは、晴の高校生活の全て。


「晴は、書籍化が決まった時どんな顔してた」

「めちゃくちゃ喜んでたよ。「俺の小説が本になる⁉」って。俺もその時嬉しかった」


 晴が努力した時間を傍で見ていたのはサトルだ。


 今の晴の人格が形成されるまでの時間を長く見てきた友人は、なおも沈んだ声音で言う。


「本が発売して、サインとか考えたりしてて、もっといっぱい書きたい作品があるって、クソみたいな環境でも笑いながら晴は小説を書き続けてた」

「――――」


 胸が苦しい。


「目の下に隈ができて、遅刻しても赤点ギリギリで先生に呆れられても、晴は書き続けた。俺の作品は面白いからって」

「――っ」


 目頭が熱くなっていく。


「家族から呆れられても、友達と遊べなくても、一人、小説と向き合い続けてた」


 強く在ろうした、強く在った晴。

 そんな晴は――


「けど、高三の夏休み、晴は壊れた」

「……続けてください」


 聞かなければならない。そんな責任感に駆られるままに促せば、サトルは顎を引いた。


「夏休みの終盤だった。さすがに家に引きこもりっぱなしの晴を外に連れ出そうとして、家に行ったんだ。階段を上がって、晴の部屋に行く最中だった。悲鳴が聞こえた」

「悲鳴?」


 怪訝に声を低くする慎。サトルは一瞥して続けた。


「慌てて晴の部屋を開けた時、真っ暗な部屋で晴が蹲ってたんだ」

「……どうして」

「それは分からなかった。ただ、泣いた痕が見えて、何かに疲れたような、絶望したような顔をしたのは鮮明に覚えてる」


 まるで死人だった、とサトルは言った。


「どうしたって聞いても無言のまま。ただ、立った晴はまた小説を書き始めた。それまでは楽しそうに書いてたけど、あの時から晴は笑わなくなった。小説を書く時も、書いてない時も」

「――――」

「夏休み明けて晴に会った時、皆驚いてたよ。晴に何かあったのかって。心配で聞きいてたけど、何もないの一点張り。友達ともあまり話さなくなって、毎日がつまらなそうな顔してた」


 段々と、現在の晴と輪郭が重なっていく。


「人と関わるのもめんどくさそうになって。家族のこともどうでもいいって興味を示さなくなった。食事がなければ自分で作るか買うか。洗濯されてなければ自分でやればいい。家に居場所がなくても、小説さえ書ければ公園だろうがネカフェだろうがでもどこでもいいって言うようになった」


 それこそ本当に、何もかもに絶望したようだった。

 それこそ本当に、書くことに囚われてしまったように。

 それこそ本当に――小説以外はどうでもよくなってしまったように。


 抗うことに疲れてしまって、手放したくないもの以外は捨ててもいいと短絡的な思考に陥ってしまったような、そんな今の晴が形成された。


「何も言わなくなった親と兄妹。そんな家族と訣別するように、晴は高校卒業と同時に一人暮らしを始めた」


 どうやら、ほぼ天涯孤独の状態となった晴に救いの手を差し伸べたのは出版社だったそうだ。以前の晴の担当編集者が保証人となって、そうして現在のマンションに住むようになったらしい。


「晴が優遇されたのは人気だったからだね」

「あぁ。出版社も晴を失うのは痛いって思ったんだろう。晴の才能を買ってたからね。だから晴に力添えした。あの家にいるよりはマシだとは思うけど、でももっと他にやりようはあったはずだ」

「書き続けることを願ったのは晴だと思うよ。正当な休載理由があれば出版社だって強要したりしない」

「分かってる。でも、少しでも晴の事情を気遣えばもっと別の対応くらいはできるだろ」


 やり場のない怒りの矛先を慎に向ければ、サトルは「ごめん」と頭を下げた。


「熱くなり過ぎた」

「いいよ。サトルの気持ちも理解できるから」


 晴が書く小説が嫌い。そう言っていたサトルの気持ちがようやく理解できた。


 晴から笑顔を奪い、書くことが運命なのだと定められたように、彼は書き続けた。


 人々からの期待を背負い続けて、それに応え続けた晴。


 多くの羨望に応える為に、それ以外の努力と興味を失った晴。


 彼が他者から向けられる期待に応える為の代償は、家族との絶縁と自らの存在の崩壊。


「(そんな壮絶な過去を、あの人は私に何も教えてくれなかった)」


 言えるはずがない。だって本人はもう、それを受け入れてしまったのだから。

 悲しむこと。傷つくこと。泣くこと。絶望すること。


 ――〝一人〟で在ることを、〝独り〟で肯定してしまったのだから。


 晴の人生という物語に、登場人物は誰一人として描かれていなかったのだから――。

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