第74話 『 私も、もっと晴さんの熱を知りたいです 』



「今日、サトルさんに会いました」

「サトル……あぁ、サトルか」

「今誰だっけみたいに言いましたね」


 まだお互いに体をくっつけ合ったまま、美月はジロリと晴を睨んだ。


「あんまり会ってないから」

「だとしても、中学からの友達を忘れるのは看過できません」

「お前の口からサトルなんて名前が挙がっても分からんわ」

「普通気付くべきでは?」

「分かるか」


 一年くらい会ってないし、名前は同じでも別人かもと思ってしまった。

 まだ不服げな美月に晴はコツン、とおでこをぶつけると、


「サトル、元気だったか?」

「はい。晴さんにも末永く幸せにと伝えてくれって言われました」

「そうか。アイツらしい」


 他人の幸せを、自分のように祝ってくれるのがサトルだ。

 過酷だった高校時代。それを支えてくれたのは、サトルだったのかもしれない。

 久しぶりに、サトルに会いたくなった。


「今度、連絡取ってみる」

「それがいいです。きっとサトルさんも喜びますよ」


 次会ったら、美月との出会いやどこに惚れたとか根掘り葉掘り聞かされそうだ。


「サトルに会った、つうことは聞いたのか」

「……はい」


 主語がない問いかけに、しかし美月は肯定した。

 先程、美月は晴を〝受け入れる〟と言った。

 その時点で、晴の過去を誰かから聞いたのだろうとは勘付いていた。

 美月はサトルから、きっと晴の過去と家族の事を聞いたのだろう。


「幻滅したか?」

「する訳ありません。だからいま、貴方の隣にいるんですから」


 弱々しく窺えば、美月はゆるゆると首を横に振った。

 それから、美月は微笑みをうかべる。


「晴さん、高校生の時からすごく頑張ってたんですね」

「まぁ、頑張りたかったし、それが俺のやるべきことだと思ってたからな」

「偉いです。まぁ、赤点ギリギリはどうかと思いますけど」

「それも聞いたのか……赤点取ってないならいいだろ」

「どうせ赤点取ると執筆する時間が減るからでしょう」

「仰る通りで」

「本当に貴方という人は」

「赤点回避する努力をした点を認めてくれ」


 苦笑すれば、美月はやれやれとため息をこぼす。

 それから、美月は柔和な表情を硬くすると、声音を落とした。


「晴さんの家族のことも、聞きました」

「……そうか」


 両親が敷いた道に叛いた晴に失望し、興味を失くして無下に扱った家族のこと。それをサトルから聞いたらしい。


「俺から言うべきだったよな」

「いいですよ。言いたくない気持ちは、充分に理解してますから」


 視線を落とせば、美月はそんな晴を労わるように頭を撫でた。


「晴さんは、家族は嫌いですか?」

「あぁ。嫌いだ」


 慎重に問い掛けた美月に、晴は躊躇うことなく肯定した。

 自分の選ぼうとした道を、彼らは認めなかった。親が決めた道を踏み外した代償は迫害。

 両親はおろか、兄妹すらも晴と関わらないようにと距離を置いた連中を、どうやって好きになればいい。


「アイツらは未だに、俺が反抗期だとでも思ってるんだろうな」


 高校卒業とともに家を出て行って、このマンションに住み始めた。保証人は晴の前担当編集者だから、当然家族は晴の居場所を知らない。出版社にも連絡を断るように頼んでいるし、晴自身も家族の連絡先も消したので、繋がりは一方的に絶っている。

 晴は、もう二度と家族と関わる気はない。


「好きなことをやろうとするのを、否定されるのはどこの家庭でもあることだって飲み込んでた。だから我慢もしてた。……けど、アイツらは俺の作品を見もせず床に捨てて、見下して、ごっこ遊びをするのは辞めろと言ってきた。――アイツらを、きっと俺は永遠に許さない」


 小説家にとって、作品は我が子だ。手塩にかけた作品が、注目を浴びようとなかろうと、思い入れなく捨てる小説家など存在しない。


 他人に、つまらないと罵倒されるのは辛いが耐えられた。


 締め切りに切羽詰まった時、原稿のデータが飛んだ時。もう死んでしまった方が楽だとも思ったが踏ん張って書き続けた。

 そんな命を賭して書き続けた作品に対する最大の罵倒を、よりによって家族がしたのだ。


 あの時、晴の全てが瓦解して、崩壊した。


 家族に対する執着も、自分が幸福になることも、他人を羨ましいと思うことも――全てがどうでもよくなった。小説さえ書ければ、それ以外には何もいらないと。


「家族に捨てられて、家族を捨てて、俺は独りで生きていくと思ってた」


 そんな、深海の奥底で独りでいたのに。


「小説さえ書ければ、それ以外は求めなかった俺を……」


 誰かを愛することなんて、ありえないと思っていたのに。


「そんな俺を、お前が変えた」

「――――」

「お前と出会ってから、忘れた感情を思い出すようになった」


 楽しいと思うこと。人と関わって、良かったと思うこと。

 失われていった感情。それが再び色が描かれていくように、一つ一つ、晴の感情を取り戻させていった。

 それだけじゃない。


「お前に触れて、初めて知った感情もあった。お前と手を握って、キスをして、こうして抱きしめ合って、好きになるってこういうことなんだと知れた」

「……晴さん」

「ただ書くだけじゃ味わえなかった。想像するだけじゃ知れなかった。全部、お前とじゃなきゃ、思い出すことも知ることもなかった」


 美月が晴に教えてくれた。

 いじけた女の子の機嫌を取る方法。手を握ると握り返してくれるその温もり。重ねた唇の離れがたさ。抱きしめて、ぽかぽかと胸が満たされていく感覚。

 その全部は、もう小説で書いてしまったけれど、現実では味わったことがなかったものだ。胸が、苦しくなるほどに感じられる幸せだった。


「お前に出会えて、心の底から良かったと思える」

「――――」


 小説を書き続けて、良かったと思えた。

 小説家で在ることを辞めて、家族が敷いた道に進んでしまえば、きっと美月には出会うことはなかった。


 慎にも、詩織にも、文佳にも、ミケにも、個性豊かな面々と繋がり持つことはなかったと思う。


 晴が小説を書けることは、ずっと代償を支払い続けて得られる対価だと思っていた。

 でもそうじゃない。

 小説の為に、一度は全てを失ったけれど、でも今、その失った全てが返ってきたような気がした。


「お前は、家族を憎む俺が嫌いか?」

「いいえ。その程度で晴さんを嫌いにはなりません。私だって、晴さんの作品を蔑ろにした晴さんの家族に怒っています」


 頬を膨らませて、憤りをみせる美月に晴は思わず苦笑してしまう。

 それからまた、問いかける。


「お前は、全部捨てて小説を書く道を選んだ俺が嫌いか?」

「執筆のことしか頭にないのは、もうずっと前から知ってますよ。仕方がないと納得してます」

「そうか」


 呆れながらも納得してくれる美月に、晴は申し訳なくなる。

 そんな苦笑は、三度弱々しい問いかけに変わった。


「お前は――これからも俺を支え続けてくれるか?」

「当たり前です。貴方が小説家で在るまで支え続けます」


 ふふ、と美月は微笑みながら頷いてくれた。


「それじゃあ、死ぬまで俺を支えてくれ」

「えぇ。死ぬまで書くつもりですか?」

「あぁ。だって、まだまだ書き足りないからな」


 まだ、晴には書きたい作品が無限にある。十や二十では収まらない。晴が小説家ハルで在る限り、作品は生まれ続けていく。

 そんな自分を、妻には生涯支えて続けてもらいたい。

 懇願すれば、美月はやれやれと吐息して、


「仕方がありませんね。貴方が満足するまで、私が傍にいてあげます」


 呆れながら約束してくれた。


「でも、時々でいいのでちゃんと私にも構ってくださいね」

「当たり前だ。旦那だし、それに……」


 ふ、と口許が緩めば、晴はおもむろに美月の唇を奪う。

 大きく揺れる紫紺の瞳に向かって、晴は告げる。


「俺はお前を愛してる。だからこれからは、もっとお前と一緒にいたい」

「――っ‼」


 こんなにも誰かを愛したいと思ったのは、美月が初めてだ。そして、その感情は美月だけでいい。

 もう、美月から離れるつもりはない。


「美月」


 名前を呼んで、懇願する。


「お前ともっと触れたい」

「――――」


 大人としての立場とか、相手が未成年だとか、そんなことはどうでもよくなるくらい、晴は美月にもっと深く触れたかった。

 美月は、晴の妻だから。


「お前の熱を、俺にも教えてくれないか?」


 しばらく、晴の問いかけに美月は顔を伏せたまま沈黙した。

 数秒続いた沈黙。

 ようやく顔を上げた美月は、その紫紺の瞳に溢れんばかりの慈愛を宿していて。


「はい。私も、もっと晴さんの熱を知りたいです」


 強く。強く手を握り合って、美月は晴と繋がり合うことを望んだ――。


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