第97話 『 熱にうなされるほどに熱いキスを 』
「わざわざお見送りまでしてくれてありがとね、晴くん」
「気にしないでください。見送りといっても駅までですから」
翌日。晴は帰宅する華を途中まで送っていた。
燦然と輝く太陽の熱に肌を焼かれつつも、時折流れてくる心地よい風に吐息がこぼれる。
「昨日も、何かと気を遣わせちゃって申し訳ないわ。聞いたわよ、晴くんから私と一緒に寝るようにって提案してくれたんでしょ」
「華さんが家に来た理由を鑑みれば、そのくらいの配慮は当然ですよ」
「本当に優しい人」
惚れちゃうわ、と華はいじらしく微笑む。
晴宅への訪問は、華が晴と美月の夫婦関係を探りにだけでなく、一人娘である美月が恋しくてやって来たのだ。
ならば、わずかでも家族の時間を過ごして欲しいと思った。
「貴方のおかげで、あの子と過ごせなかった時間が少しだけ埋まった気がするわ」
「それなら良かった」
華のその言葉を聞けただけで留飲が下る。
「これからもどんどん埋めてください。時間はいくらでもありますから」
「ふふ。そうなると私が頻繁に二人のお家にお邪魔しちゃうけどいいのかしら?」
「構いませんよ。美月も喜ぶでしょうし」
「あらやだ本当に住みたくなっちゃう……でもそうするとあの子に嫉妬されそうね」
母親と一緒に住むというのにどうして美月が嫉妬するのだろうか。
小首を傾げていると、華はふふ、とたおやかな笑みを向けた。
「素敵な提案だけど、遠慮しておくわ」
「そうですか。それは残念ですね」
「ふふ。今は夫婦の時間を大切にしないとダメよ。そうじゃないとあの子に愛想尽かされちゃうかもしれないわよ」
「鋭意努力していきます……」
イジワルに言う華に、晴は冗談だよなと頬を引きつらせた。
美月がいなくなった生活を想像して背筋を震わせる晴を見て、華はくすくすと笑った。
「安心しなさい。あの子はちゃんと、晴くんにぞっこんだわ」
「ぞっこんですかね……」
「えぇ。昨日垣間見ちゃったけど、主にヤバイ方向に進んでるわ。……注意してね晴くん」
「は、はぁ……」
なぜか華が真剣な顔で肩を掴んできて、晴は困惑しながらも首を縦に振った。
取りあえず華の忠告を念頭に入れておくと、華はふふ、と微笑を浮かべていた。
「美月から、たくさん貴方との結婚生活の話を聞いたわ」
凄く楽しそうに語ってくれた、と華は穏やかな声音で言った。
晴と、その友人たちとの出会い。そこで生まれた新しい日々のこと。
何もかもがかけがえのない日々だと、美月は華に語ったらしい。
「あの子があんな風に、自分の思い出話を私に聞かせてくれたのは初めてだったわ」
「そうなんですね」
意外だと目を丸くする。まぁ、イマドキの子はいちいち母親に今日あった出来事なんて語らないか。そう一人で納得していると、感慨深そうな吐息が耳朶に届いた。
「あの子は変わったわ」
「そうなんですか?」
えぇ、と華は肯定した。
「昔のあの子は、暗い……というより大人しくて消極的だった。主体性がなくて、いつも周囲に合せていた。それは私のせいでもあるんだけど」
無言のまま華の話を聞いていると、紫紺の瞳が嬉し気に細くなった。
「貴方と出会ってから――結婚してから、美月は明るくなったわ。前よりも表情が豊かになって、よく笑うようになった」
「――――」
「それに、ご飯もさらに美味しくなった」
嬉しそうに言った華に、晴もその通りだと深く頷く。
美月のご飯は美味しい。最近はまた一段と美味しくなったと思う。本人は何も変えてはいないというから不思議だ。
無意識に頭がその現象を紐解こうとしてたが、それは華の声に遮られる。
「昨日は、私の知らない娘の姿を見れて凄く嬉しかった。ちょっと見ないうちに、あの子は立派に成長していたわ」
体つきもね、と茶化すように言った華に苦笑。
そして、華は穏やかな笑みを浮かべながら晴を見つめた。
「貴方があの子を変えてくれた」
「そんな。俺は何もしてませんよ」
「晴くんはそうかもしれない。でも、私とあの子は貴方に感謝してるわ」
万感の感謝を伝えるように、華は晴の手を握ってきた。
本当に旦那として美月に何かをしてあげられた記憶はないけれど、それでも、真っ直ぐに見つめてくる紫紺の瞳は晴への感謝を宿していて。
その手の温もりと、その瞳に籠る親愛が、晴の疑念を払拭した。
「あの子と結婚してくれてありがとう、晴くん」
「――っ」
華から送られた、心の籠る感謝の言葉。
その感謝に、晴も同じ熱量を込めて返した。
「俺のほうこそ、美月と結婚させてくれてありがとうございます。――お義母さん」
「ふふ。初めて私をそう呼んでくれたわね。晴くん」
この人が自分のもう一人の母親なのだと、晴は感謝を吐露しながら自覚した。
△▼△▼△▼
「お帰りなさい、晴さん」
玄関の開く音を聞きつけた美月が出迎えて、晴は靴を脱ぎながら「ん」と淡泊に返した。
「見送りお疲れ様です。暑かったでしょう」
「死ぬかと思った」
「大袈裟ですよ」
もう、と肩を落とす美月。
べたっとした肌の感触を覚えながら、晴は痛感するように呟いた。
「やっぱ日中に外に出るもんじゃないな。家が一番だ」
「またそんな下らないことを……と言いたいところですけど、今回ばかりは納得ですね」
珍しく晴の意見を肯定されて眉根を吊り上げると、美月はふふ、と微笑をこぼして言った。
「こんなに暑いと熱中症になる心配がありますからね。貴方は特に心配です」
「俺だって最近は体力ついて来てるからな?」
密かに筋トレしている事実を隠しつつ口を尖らせれるも、美月は聞く耳を持たない。
「だとしてもです。貴方はなんというか、見ていて心配になります」
「どこがだ」
「生活がだらしないところとか執筆優先してよく無茶するところとか」
「……うぐ」
正論すぎて反論できなかった。代わりではないが、必死に言い訳する。
「生活は最近整ってきてるし、ちゃんと休みも入れてるだろ」
「それでも心配なことに変わりありません」
とにかく旦那が心配な妻は、やれやれと嘆息を吐く。
それから、美月はくすっと口許を緩めると、
「やっぱり貴方の生活は私が管理するということでいいですね」
「そうかい。お好きにどうぞ」
「はい。これからも好きにさせてもらいますよ」
晴も晴で美月がいないとまともな生活をできないと理解しているので、雑に相槌を打った。それを見届ける美月はなんとも愛しげ見えて。
「さて、それじゃあ私はお昼ご飯の用意でもしますかね」
「――――」
相違って美月はリビングに向かおうとする。
――『貴方があの子を変えてくれたわ』
華奢な、しかし逞しい後ろ姿を見つめると、不意に脳裏に華の言葉が蘇った。
「(俺だって、美月と出会って変わった)」
こんな風に、何気ない日常の中でも美月を愛しいと思えるようになった。
先の華との会話も、この心臓が彼女を求める理由の一つなのかもしれないけど。
無性に美月に愛を伝えたくなってしまった。
「美月」
「なんですか――きゃっ」
ぽつりと名前を呼べば、美月は黒髪を揺らして振り返った。
油断。というより晴が予備動作なしに美月を壁に押し付けたせいで小さな悲鳴が聞こえた。
「い、いきなりどうしたんですか晴さ……んっ」
「んっ」
慌てふためく美月。戸惑う顔に、晴は何も言わずに唇を奪った。
長く。熱く。甘いキス。
数十秒たっぷり美月の唇を堪能すれば、ゆっくりと顔を離していく。
「ぷはぁっ……なんでいきなりキスするんですか」
「怒ったか?」
顔を赤くする美月は、晴の言葉に視線を逸らす。
「怒ってる訳じゃありません。ただ、どうしていきなりしたのか分からなくて」
「理由なんてない。ただ、無性にお前とキスがしたかった」
「なんですかそれ。不覚にもトキめいてしまいましたよ⁉」
弾む鼓動を抑えるように胸を握り締める美月。
「本当にどうしたんですか? あ、もしかして暑さにやれましたか⁉」
「そうだな。熱に浮かされるという意味では、合ってるかもしれない」
「どういう意味ですか……あっ」
慌ててて、眉根を寄せて、息を飲む美月。華の言う通り、本当に表情が豊かになったと思う。以前の美月はもう少し凛としていた。
自分は相変わらず表情筋死んでるなと自覚させられながらも、晴は口許を緩ませた。
赤面したまま美月が動かないのは、晴が顎に手を置いたから。
「はぁっ……はっ……」
熱く荒い吐息が玄関に満ちる。
アゴくいと壁ドンのコンボに、美月は瞬きすらできない状態になっていた。
「女の子はこういうのが好きってのは本当らしいな」
「い、イジワルしないでください」
「お前の可愛い反応見ると、イジワルするのも悪くないと思える」
「悪魔ですか貴方は……」
余裕がない美月は、抵抗する余力すらない。ただジッと、紫紺の瞳が晴を見つめてくる。
「このままキスしたら、どうなるんだろうな」
「貴方がですか、それとも私が?」
「どっちもだ」
「……試して、みますか」
潤んだ紫紺の瞳が、晴を求めてくる。
「お昼から盛らないでくださいね」
「安心しろ。お前に愛情を注ぐのは夜だ」
「安心できないし、もう夜の予定が決定しましたね」
「約束したしな。今日はたっぷり甘やかしてやるって」
「殺し文句が過ぎます」
美月がどんな言葉で喜ぶのか、熟知とまではいかなくとも、こういう言葉が美月は好きなんだと学習した。
「夜をお楽しみにするとして、今からするのは軽めのスキンシップだな」
「うぅ~。私としては過激なんですけど」
「でも、俺からされると嬉しんだろ」
「――っ」
イジワルに言えば、美月は大きく目を見開いて、顔を赤くする。
それがもう答えだなと、晴はくすっと微笑を作ると、
「――ん」
「――んぅっ」
熱にうなされるほどに熱いキスを美月へと注いだ――。
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