第96話 『 お母さんに話したいことたくさんあるんだ 』


 母親の自宅訪問、と言えば問題になるのはやはり寝床だろう。


「は、晴さん」

「なんだ?」


 やや緊張した声音で晴の袖を引っ張ってくる美月に、スマホから視線を外した。

 今は華が入浴中だから、もしかしたらこのわずかな時間に甘えたいのでも思惟していると、美月はほんのりと頬を朱に染めて呟いた。


「あ、あのですね……今夜の寝床問題なんですけど」

「んあ。あぁ……」


 ちらちらと、視線を右往左往させる美月。

 朱に染まる頬に、晴はふ、と微笑をこぼすと、


「華さんと寝るよ」

「え⁉」

「あ間違えた。華さんと寝ろよ」


 一瞬、晴の言い間違いで顔面蒼白になる美月。慌てて訂正すれば、美月は「なんなんですかもうっ!」と頭突きしてきた。


「どうやったらそんな言い間違いができるんですか⁉」

「誰だって言い間違いくらいあんだろ」

「それはそうですけどっ……でも今一瞬、私の心臓止まりかけましたよ!」

「お前なんで華さんに対抗心向けてんの? 普通に俺たち揶揄ってるだけだろ」


 ジト目を向ければ、美月はぽこぽこと晴を叩いてくる。

 痛くもかゆくもないので放っておけば、美月は今日の出来事を振り返りながらお説教を始めた。


「貴方がずっとお母さんをその気にさせる発言をするのが悪いんですっ」

「いたって平常運転だったろうが」

「その平常運転がお母さんや他の女性を喜ばせることを学んでください」

「へいへい。分かりました。だからいい加減叩くの止めろ」


 目尻に涙を溜めながら振るう腕を捕まえれば、美月はたちまち狼狽する。


「……ぁ」

「悪い子にはお仕置きするぞ?」

「うぅ。そういうのもズルいです」


 揺れる紫紺の瞳を覗き込めば、美月は顔を赤くして目を逸らしてしまった。


「親愛度マックスの晴さん、イジワルです」

「お前の機嫌直すにはこれが手っ取り早いと学んだからな」


 美月は自分から誘惑するのは平気だが、逆に晴に攻められれると今みたく狼狽えることを最近学んだ。

 悪戯小僧のような笑みを浮かべれば、美月はむぅ、と頬を膨らませて、


「貴方がこんなに恐ろしい人とは思いませんでした」

「ラブコメ作家だからな。人よりそういうシーン見てるし書いてる分、歯の浮く台詞がすらっと出てしまうかもしれん」

「その被害者は私だって知ってました?」

「満更でもないくせに何言ってんだ」


 美月がうぐっ、とうめいた。


「晴さんは私を喜ばせるのが得意ですね」

「お前がちょろいだけだろ」

「ちょろくてすいませんね」


 いじけた美月がそっぽを向いてしまう。

 そんな美月の意表を突くように、晴は徐に頬に口づけした。


「――っ⁉」

「大丈夫。華さんはまだ風呂だから、絶対に気付かれない」


 突然ほっぺにキスされた美月は驚いて目を剥く。そんな妻の唇に、晴は自分の指を押し当てながら言った。


「俺とはいつでもこういうことができる。だから今日は、華さんと寝てあげてくれ」

「――――」


 穏やかな声音に、美月は真っ赤になっていた顔を少しずつ元の肌色へと変えていく。


 華の事を思えば、晴としては今夜だけは家族の時間を過ごさせてあげたかった。


 まだ十六で、何の責任も果たせない自分の娘が突然結婚して家を出て行ったのだ。


 強がってはいるがやはり寂しいのだろう。だからきっと、珍しく仕事を休んで美月に会いに来たのだ。


 華だって一人の女性で、たった一人の美月の母親なのだ。


「華さんに、今日までのことを沢山伝えてあげてくれ。華さんはお前に会いたくて、俺たちの家に遊びに来たんだから」

「――――」


 美月を揶揄うのはきっと、これまで一緒にいられなかった分の反動なのだろう。

 娘に甘えたい、彼女のそんな気持ちを晴は尊重したかった。

 華の後悔を取り除けるのは、きっと娘である美月だけだから。


「俺とはいつでも寝れる。だから今夜は華さんと寝ろ」

「――――」

「いいな?」


 押し当てた指を放せば、美月の頭にぽん、と優しく乗せる。


 美月は聞き分けが良くて、晴の意図もすぐに理解する妻だから、必ず頷いてくれる。


 数秒の沈黙。やがて美月はやれやれといった風に嘆息すると、


「分かりました。晴さんの要望通り、今夜はお母さんと一緒に寝ることにします」

「ん。それでいい」


 思惑通り美月は頷いてくれて、晴は微笑をこぼす。


 まだ少し、晴と共寝できなくて残念そうにしている美月に、晴はゆっくりと顔を近づけると、


「――華さんが帰ったら、明日は一緒に寝てやるからな」

「――っ⁉」


 耳元で甘く囁いた晴に、美月はまた顔を真っ赤にするのだった。


 △▼△▼△▼



「ごめんねぇ、美月。晴くんと一緒に寝れなくて」

「いいよ。そもそも、晴さんがお母さんと一緒に寝ろって言ってきたんだし」

「あらそういうこと」


 布団の中で揶揄おうとしてくる母に、美月は嘆息しながら言った。


「もっと残念がると思ったのに、お母さん損した気分だわ」

「思い通りの反応じゃなくて残念でした。私は晴さんと寝れなくても寂しくありませーん」


 先の会話を思い出せば、心残りよりも楽しさが勝る。

 明日は晴と共寝、それを念頭に置きつつも、美月は眼前の母親へと意識を向けると、


「なんだか、こうして一緒に寝るの随分と久しぶりに感じるね」

「ふふ。そうね……でも熱いわ」

「うん。それはそうなんだけど……」


 夏の夜だから二人で一台のベッドは少々……というより結構蒸し暑い。

 我慢して、と華にお願いすれば、はーい、と適当に返された。

 それから、華は口許を緩めると、


「アナタとこうして同じ布団で寝るのは、たしか小学二年生ぶりくらいかしら」

「えぇ? もっと早くから一人で寝てた気がするけど……」

「なに言ってるの。小さい頃のアナタは今より何倍も甘えん坊だったじゃない」

「そ、そうだっけ……」


 思わず視線を逸らせば、華は「そうよ」と指摘してくる。

 それから、華は感慨深そうに呟いた。


「――少し前まではあんなに小さかったアナタが、もうこんなに大きくなっちゃたのね」


 子どもの成長って本当に早い、と母は美月の頭を撫でてきた。

 自分と同じ、紫紺の瞳。そこに慈愛が籠る。


「どう? 晴くんとの結婚生活は楽し?」

「うん。すごく楽しいよ」


 優しい声音の問いかけに、美月も穏やかな声音で肯定する。


「小説家の人ってこんな風に過ごすんだとか、たまにリビングでお昼寝してるところを隠し撮ったりとか、時々初心な反応を見せるのが新鮮で、いつも飽きない毎日を過ごせてる」

「ふふ。アナタが楽しく過ごせてるなら、私も結婚を許可した甲斐があったわ」


 素直にありがとう、と小さくお礼を言うと、美月は「それにね」と続けた。


「前まで自堕落な生活を続いてた人の生活を整えるって意外と気分がいいの」

「んん?」

「晴さん、いつも私の作るご飯を美味しいって言ってくれてね、その度に思うんだ。あぁ、この人の体は私が作ったもので構成されてるんだって。それを実感するとね……うふふ……なんだか堪らなく愛しく見えちゃって」

「おおぅ。うちの娘がなんかヤバイ方向に成長してるわ……」

「何言ってるのお母さん」


 母がなんかヤバイものを見るような視線を向けてきた。

 実の娘になんて目を向けるんだと眉根を寄せれば、華は苦笑を浮かべながら言った。


「晴くんをちゃんと幸せにしなさいね」

「うん。私が晴さんを支えていくから。他の誰にも、晴さんは渡さないよ」

「……知らない間に娘がヤンデレみたいになってるわね」


 ぼそぼそと華が何かを呟くが、うまく聞き取れなかった。ただなんとなく、不本意なことを言われたのは理解できた。


「――お母さん。私を生んでくれてありがとう」

「あらやだ。どうしたの急に」


 突拍子もなく感謝を伝えれば、華は目を丸くした。

 驚く華に、美月は紫紺の双眸を細めて言う。


「お母さんが私を生んでくれたから、私は晴さんに出会えた」

「――――」


 自分が育った環境は、俯瞰しても恵まれているとは言えないだろう。

 母と父は最悪の形で離婚して、それから美月は家で独りぼっりで過ごす時間が多くなった。寂しかった時間と、多忙な母を少しでも始めた料理や家事。

 晴以外の男性と付き合っても、この心臓は弾むことは一度もなかったけれど。


「何の取柄もなかった私だけど、今はこうして大切な人の役に立ててる。寂しかった時間も、あの人と一緒に過ごしていると全部報われている気がするの」

「――アナタは、本当に晴くんを好きなのね」

「うん。あの人が、私を変えてくれたから」


 晴は自分を救ってくれてありがとうと感謝したけれど、美月だって晴に感謝している。


 晴と出会うまでは、人付き合いなんて最低限でいいと思えた。


 でも、晴を通して出会った人たちは、本当に個性豊かでユニークな人たちばかりだった。


 慎は明るくて優しくて表情豊かな人。

 詩織はやたら美月にコスプレをさせたがるけど、姉貴肌な人。

 金城は大人しいけれど、でも好きなことになると全身全霊で思いを伝えてくれる人。

 文佳とは面識は少ないけれど、美月と晴の関係を理解してくれた人。

 ミケは未だに嫉妬することもあるけれど、でも憎めない人。


「(小説家にコスプレイヤー、編集者にヲタク、神絵師……なんかごった煮みたい)」


 皆、晴と出会わなければ、出会うこともなかった人たち。

 そんな人たちと話す時間は、晴と過ごす時間と同じくらいで心地の良いもので。


「私ね、お母さんに話したいことたくさんあるんだ」

「ふふ」


 晴と結婚した二カ月の月日。そこで綴られた思い出を、美月は母に語りたかった。

 それはまるで、無邪気な子どものようで。

 そんな娘の思い出話を、母は慈愛を込めた瞳で受け入れる。


「いいわよ。お母さんも、アナタの結婚生活がもっと聞きたいわ」


 それから美月は、夜が明けるまで母に語り尽くした――。

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