第26話 『 それじゃあ、その時は私にキスしてください 』
美月と同棲して、そろそろ一カ月が経過する。
「お前って俺とキスとかしたくなるの?」
「なんですか藪から棒に」
突拍子に質問すれば、美月は顔を赤くするよりも疑問のほうを強くみせた。
「いや、俺たちって一カ月近く同棲してる割には、そういう雰囲気になったことがないなと思って」
言われてみれば確かに、と美月は頷いた。
そもそも晴と美月の関係は特殊で、婚約者であれどそこに恋愛感情は全くない。ただ、それは晴が思っているだけで、美月の気持ちは確認していなかった。
「ずっと前から不思議でな。なんでお前、俺なんかの世話してくれるんだろうと思って」
晴の言葉に、美月は洗濯物を畳むのを再開しながら言った。
「世話、というのは語弊では? 婚約者なんですし、そういう約束で同棲してますから」
「それも疑問だ」
はて、と小首を傾げる美月に指を指した。
「お前は、約束したら好きでもない男の世話を見るのか?」
「――――」
晴の問いかけに、美月は目を瞬かせて沈黙した。
ふむ、とたっぷり数秒かけて思考すれば、美月はそうですね、と口を開いた。
「好きか好きじゃないか、で言えば、私は晴さんのこと好きですよ」
「こんな執筆バカをか?」
「自分で言って悲しくないんですか?」
「自覚してるから悲しくない」
「貴方ってそういう人ですよね」
もはや慣れたように美月が嘆息した。
「俺はお前の為になにかした覚えがないし、労ったこともない」
自分でいって薄情な人間だと呆れたが、美月は違った。
「最近はお皿洗ってくれてるじゃないですか」
「それだけだろ」
皿洗いから始まる恋なんて聞いたことがない。
けれど、美月はほんのり口の端を緩くすると、
「私は嬉しいですよ。執筆中心の貴方が、私のことを考えて洗いものしてくれるのは」
「お前の好感度は皿洗いで上がるのか」
「貴方だけです」
いったい晴のどこに、美月の好感度を皿洗いだけで上げられる要因があるのだろうか。
無理解に眉根を寄せていると、美月が「そんなに知りたいんですか?」と挑発的な笑みを浮かべてきた。
そんな美月に晴はこくりと頷くと、
「お前が俺に尽くしてくれる理由は知っておきたい」
「小説に使えるからですか?」
「いや。個人的に、だ」
「またなんで?」
「普通に不思議だろ。自分でいうのもあれだが、こんな禄でもない奴に付き合ってくれる奴がいるなんて」
慎然り、美月然り、彼らの思考は全く読めない。
自分がぶっきらぼうで淡泊な性格だと自覚している。そんな男のどこに好感を示しているのか、小説家ハルではなく八雲晴として興味があった。理解できない感情を知るのは嫌いではない。勿論、小説に使えるかと一考しているのは確かだが。
晴の縋るような目に、美月は服を畳むのを止めて真面目に考える。
「うーん。なんて言えばいいでしょうか」
数秒。思考を纏めた美月は晴の顔を見つめると、
「第一に、私は嫌々で貴方と一緒にいる訳ではありません」
「それはなんとなく分かる」
そうじゃないと一カ月も同棲なんてしていられないだろう。
それから美月は続けた。
「次に、私は私の思惑で晴さんと同棲していますが……端的に答えればこの生活が好きです」
「どこら辺がだ?」
この家の生活の何処に好きな箇所があるのだろうか。甚だ謎だった。
そうですね、と呟きながら美月はリビングを見渡し、
「本が沢山ありますし、勉強する場所が色々あって捗ります」
ダイニングテーブルにソファー前のテーブル。美月の部屋には勿論作業机がある。そして、晴も色んな場所で美月が勉強やら本を読んでいるのは見ていたので知っていた。
「ここは静かですし、風通りもいいです。キッチンは綺麗ですし、いつも貴方が美味しそうに食べてくれるので作り甲斐があります」
「お前の作るメシは美味いからな」
晴の素直な感想に美月が少し照れた。
美月はんんっ、と咳払いしてからほんのり朱くなった頬を誤魔化すように言った。
「掃除をしても特に文句言われませんし」
「掃除してもらってるのに文句言うやつがいるか」
「それができない夫婦はいますよ?」
「なら俺は言わない」
「約束できますか?」
「……自信はない」
目を逸らせば、美月が「貴方らしいです」と可笑しそうに微笑んだ。
「婚約者は小説の事しか考えてませんけど、それ以外は譲歩してくれるので私はこの家で自由に行動できてます。縛られたり、文句を言われたりしたら不満が出てくるかもしれませんけど、今のところ、貴方と一緒にいて不満はありません。貴方は私が甲斐甲斐しく世話を焼いている、と思っているようですが、それは全くの勘違いです」
一拍置けば、美月は淡い微笑みを浮かべて、
「貴方といる時間は、私好きです。なので、変な気遣いは無用です」
やりたいようにやらせてもらってますから、と美月は付け加えた。
その答えに、晴は唖然として目を見開く。
それからふ、と微笑が零れた。
「――そうか、ならいいわ」
美月が不満はない事が分れば、それだけで良かった。
疑問が拭え安堵が胸中に広がれば、今度は美月が質問してきた。
「むしろ、晴さんは私と一緒に生活して不満はないんですか?」
「なんでだ?」
眉根を寄せれば、美月は「ほら」と苦笑する。
「私、晴さんに小説書くな、とかもう少し休んでください、とか口五月蠅かったかなと思って」
「それはお前が俺を心配してくれたからだろ。……まぁ、若干小うるさいとは思ったが、結局、お前のいう事は正論だったからな。だからいう事を聞いたまでだ」
「そうですか、なら良かったです」
素直に吐露すれば、美月はほぅ、と胸を撫で下ろした。
「本当に、お前は優しい奴だな」
「意外とずる賢いですよ」
「なら俺と同じだ」
「法的に捕まらないために私に結婚してくれって言いう人ですもんね」
「それに同意したのは誰だ」
「私ですね」
お互い様だ、と苦笑を交わした。
「ま、お前が家事を文句言わずにやってくれる理由は分かったし、俺に好意を抱いているのは理解できたわ」
「それじゃあ、キスでもしますか?」
挑発的に言う美月に、晴は「いや」と首を横に振った。
「俺もお前に好意は抱いているが、やはりまだ恋愛感情は涌かない」
「そうですか」
きっぱりと拒否すれば、美月はわずかに声音を落とした。それは少しだけ、晴との関係を進められる気がして期待したからなのかもしれない。
瞳を伏せる美月に、晴は後頭部を掻くと、
「勘違いするな」
「――ぇ?」
「俺は、恋愛感情がないだけでお前としたいとは、思ってる……気がする」
「なんで疑問形なんですか?」
晴の苦悩が垣間見えた物言いに、美月は眉尻を下げる。
「分からないんだよ。言ったろ、俺は恋人いない歴=人生だって。童貞だしな」
そんな晴に、初めて出来た婚約者。いずれ夫婦になる相手なら、尚更、
「俺は、たぶんお前を大切にしたいのかもしれない。だから、待て」
「……何を待つんですか?」
「俺が、お前のことを好きになるまで、だ」
「――っ‼」
堂々と告げれば、美月は顔を上気させて、さらに紫紺の瞳を大きく揺らす。
大胆な告白に戸惑う美月は冷静さを取り戻す為にすぅ、と大きく息を吸って吐いてを繰り返して、時間を掛けて落ち着きを取り戻せば、
「……そういうの、自分で言って恥ずかしくならないんですか?」
「ラブコメ作家ってそういう感情疎くなるんだよな。作品で『好きだ』とか『愛してる』とか散々書いてるせいで」
「はぁ。その流れ弾が私に被弾していますよ」
辟易したように嘆息した美月に、晴は「仕方がないだろ」と口を尖らせる。
「俺は、たぶんお前が好きだ。だから結婚してくれとも言ったしな。でも、まだ恋愛感情には辿り着けない。俺がお前を好きになるまで、待ってほしい」
好き=恋愛感情ではないのだと、初めて知った。愛情というのはやはり複雑で難解だ。そんな感情を小説ではすんなり書けるのにどうして現実で理解できなのかは晴にとっても謎だが、美月といればそれも解き明かせるかもしれない。
そんな予感がするから、婚約者に懇願した。
晴の懇願に、美月はくすりと笑みを浮かべると、
「そうですね。それじゃあ、その時は私にキスしてください」
意趣返しのつもりか。あるいは、とっくに覚悟ができている表れか。美月は晴と同じように大胆な提案を申し出る。
それにわずかに目を見開けば、晴は思惟した。
「(こいつは本気で言ってるんだろうな)」
婚約者でいずれ夫婦になるのなら、美月の提案は当たり前なのかもしれない。
そう思ったから、晴は――
「分かった。その時が来たら、俺からお前にキスする」
「言質、取りましたからね。反論は受け付けません」
勝ち誇ったような笑みを浮かべる美月に、晴は不敵な笑みで返した。
「お前こそ覚悟しとけよ」
「いったいどんなことをするつもりですかっ」
挑発を買っただけだが、晴の言葉に美月がどんな妄想をしたのかは分からない。
ただ、可愛い顔がボンッ、と爆発したように赤くなった。
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