第131話 『 【しお☆りん】はバーサーカーの巻 』


 これは、コミケが始まる数日前のお話。


 浅川慎には付き合って二カ月ほど経つ恋人がいる。


 その女性の名前は星宮詩織。


 ライトブラウンのセミショートで、愛嬌のある顔つき。

 身長は慎より頭一つ分小さいが、スタイルは良い。


 趣味はアニメや漫画(最近は慎の影響でラノベも呼んでいる)とヲタク女子。ついでに言えばBL好きの腐女子でもある。


 そんなどこにでもいるようなプロフィールを持つ詩織は、職業も一般企業に勤めるOLと他と遜色ない成人女性だ。一部を覗いて。


 慎の恋人、詩織。彼女にはOL以外に、もう一つの顔があった。

 詩織のもう一つの顔――それは【しお☆りん】という有名コスプレイヤーだった!


「おぉぉぉぉぉい! 慎! 喉乾いた! なんか飲み物持ってこい!」

「は、はいっ! 今すぐお持ちします!」


 ガガガッ、と勢いよく鳴るミシンの音と怒号を受けて、慎は召使いの如く頭を低くしながら冷蔵庫へ向かった。


「(だから嫌だったんだよ! 詩織ちゃんの手伝いするの!)」


 目尻に涙を浮かべながらコップに麦茶を注いで、慎は胸中で泣き言をこぼす。

 先程、慎に怒号を浴びせたのがカノジョである詩織だ。

 普段は明るく温厚な詩織だが、仕事の納期や衣装づくりに切羽詰まると凶戦士状態バーサーカーと化すのだ。

 あの状態の詩織は常に苛立っており、口調も荒々しくなる。いつものぱっちりした目つきも鋭さを増し、睨まれる度に寿命が五年くらい縮む気がした。


「……ご、ご用意しました。お嬢」

「誰がお嬢だ。なんだ麦茶か……チッ、まあいい」

「理不尽」


 ボソッ、言えば、詩織は「あ?」と睨んできた。


「なんか言ったか?」

「いえ! 何も申しておりません!」


 差し出した麦茶を乱暴に取った詩織。舌打ちして、おっさんのように一気に飲み込む。


「可愛さが欠片もない」

「あ?」

「いえ何も」


 睨まれて委縮して、慎は視線を逸らした。

 ダンッ、とコップを乱暴に置いて、詩織はまた無言で作業に戻った。何が彼女の琴線に触れるか分からないので忍び足でテーブルに戻れば、慎は死地から脱した兵士のように安堵の息をこぼした。

 またいつお呼びが掛かるかは詩織の機嫌次第だが、慎にも小説という仕事があるので執筆を再開する。


「(全然心が休まらねえ!)」


 プールの時に安請け合いしてしまったと、後悔するも遅い。


「(今帰ったら確実に殺されるし、かといって外の空気吸いに行きたいって言えば舌打ちされるだろうし……どうしようもねえや⁉)」


 今、慎が置かれている状況を頭で整理すると、軽い監禁状態だった。


 現状、慎が外に出れる手段は〝買い出し〟しかない。ただし、これは切り札だ。コンビニに行くと言えば「五分で戻ってこい」と命令を出されるが、夕飯の買い出しの行くと言えば時間制限はない。昨日は「作り置きしとけや!」と激昂されたが。


「(いつもは可愛い詩織ちゃんだけど、ぶっちゃけこの状態はもう鬼嫁に近い。気軽に話すとぶっ飛ばされるし、時々発狂するから超怖い)」


 極限状態の人間の思考は本当に読めないから苦手だった。

 晴ほどではないが読心術に長けている自信がある慎も、それだけは読めない。詩織が今何を求めているのか、何をして欲しいのか――それが分らないからもどかしいし、機嫌をそこねてぶっ飛ばされる可能性があるから怖い。


「あ、あの、詩織さん」

「あ?」


 勇気を振り絞って詩織に声を掛ければ、低い声音にビクッと肩が震えた。

 怯えつつも、慎は続けた。


「大変恐縮ではありますが……」

「要件だけ言って」


 はいっ、と敬礼。


「あ、あの、本日の買い出しに行ってきても宜しいでしょうか?」

「…………」


 おずぞずと進言すれば、詩織からの返事はなかった。

 ミシンの音だけが数十秒間部屋に木霊して、そしてようやく、


「行っていいよ」

「ありがとうございます!」


 淡泊に許可した詩織に、慎は床に頭を擦りつけた。

 解放される! と笑みがこぼれそうになるのを必死に堪えながら、慎は尋ねる。


「本日の夕飯は何が宜しいでしょうか?」

「カレー。それだと明日買い出しに行かなくていいでしょ」

「ソウデスネー」


 さらっと処刑宣告された。

 明日は一歩も外に出れない事が確定しつつ、慎は頬を引きつらせながら続けた。


「ほ、他には?」

「あー……甘いもんが食いたい」

「ぐ、具体的には」

「なんでもいい。慎くんが決めて」

「(それ間違ったら殺されるやつじゃん⁉)」


 詩織のご所望するスイーツを買ってこなかったら確実に怒られる。最悪、殺されかける。

 ただの買い出しが己の生死を掛けたものだと悟った瞬間、買い出しに行きたいと言った数秒前の自分を殴ってやりたくなった。

 背中の冷や汗がだくだくと流れながら、慎はゆっくりと立ち上がると、


「そ、それでは行って参ります」

「ん。さっさと行ってこい」

「イエッサー!」


 敬礼して、慎は飛び出すように家を出た。


「音を立てたら殺されるからそっと閉じないと。前は「うるせえ!」と切れられたし」


 扉も音を立てないように慎重に閉じる。

 ようやく監禁から解放されると、慎は晴天に向かって両腕を伸ばして、


「俺は自由だ――――――――――ッ!」


 そう叫ばずにはいられなかった。

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