第306話 『 黒猫の芽生えた感情 』


 千鶴と入れ替わるように冬真が部屋にやってきて、それから二時間が経った。


 お互い顔を合わせることのないまま、ミケは部屋でイラストを描いて、冬真は今夜の分のご飯を作って今は休憩していた。


 そのタイミングに合わせるようにミケも部屋から出れば、


「隣、座っていいっすか」

「えっ」


 冬真の許可を待たず、ミケは休んでいる冬真の隣に座った。

 わずかに驚く彼を横目に、ミケは距離を縮めていく。


 ぴたっ、と肩と肩が上がると、冬真はさらに動揺の色を濃くした。

 そんな彼に構うことなく、


「……冬真くん。千鶴ちゃんから告白されたんすね」

「――っ」


 息を呑む気配がした。

 少しの間沈黙が降りて、数秒後に冬真はこくりと頷いた。


「はい」

「どうして、あんな素敵な子からの告白を断っちゃったんすか?」


 頭の中で延々と続く疑問。不快感すら覚えるそれに答えが欲しくて問えば、冬真は落ち着いた声音で言った。


「理由は、今は言えないです」

「そうっすか」


 気になるけど、冬真は教えてくれなかった。


 千鶴の告白を断るからにはよほどの理由があるのだろうが、ミケにはそれが分からない。


「気になりますか?」

「すごく気になるっす」


 問われれば、素直に肯定する。


「千鶴ちゃんみたいないい子、この世の中でそうそう出くわさないっすよ。しかも、そんな女の子から告白されるなんて、私ならオッケーする以外の選択肢はないっす」

「あはは。そうですよね。僕も、何やってんだろうと思ってます」


 苦笑する冬真。けれど、その顔に後悔はしていないように見えた。

 それが余計に不思議で。


「でも、僕には四季さんは合わないと思います。こんな頼りがいのない男より、もっと頼りがいがある人の方が、四季さんに相応しいと思ってます」

「過小評価っすよ。キミは、ちゃんと頼りがいのある男の子っす」


 素直で、真面目で、芯の強い男の子だ。

 そんなキミは、あの子に相応しいはず。

 今からでも、遅くはないはずだ。


「キミは、どうして私の傍にいたがるんすか?」

「――――」


 こんな絵以外は何の取り柄のない自分に、まだ愛想を尽かさず笑顔でいてくれることが不思議で仕方がなかった。


 その理由を求めるように潤んだ黒瞳を向ければ、彼は微笑みを浮かべて――


「そんなの決まってます。アナタを尊敬しているから」

「――――」


 一点の曇りない言葉に、全身が震えた。


 真っ直ぐで、裏表のない言葉。それに、どうやって返せばいいのか分からなくなる。


「たぶん。ヲタクからすれば僕は世界一幸運なやつだって思われてると思います。好きなイラストレータさんのアシスタントになれるなんて、人生何周してもなれるか分からないですから」

「――――」

「カノジョを作るかミケ先生のアシスタントになれるか、そのどちらかを選ばないといけないとしたら、僕は迷いなくミケ先生のアシスタントになることを選びます」

「そんなの、絶対間違ってるっす」


 否定すれば、冬真は「間違ってません」と否定で返してくる。


「その選択に後悔はないです。カノジョを作ることは簡単かもしれないけど、アナタのアシスタントになる簡単じゃない。絵が描ける人ならまだしも、こんな何の取柄もない平凡な男子高校生が超有名イラストレータのアシスタントになれるなんて、奇跡以外の何もないんです」


 たしかに、冬真の言う通りかもしれない。


 もし、ミケが美月と出会うことなくアシスタントを募集していたら、冬真は間違いなくふるいにも掛からなかっただろう。


 彼にとってミケのアシスタントになったということは、文字通り〝奇跡〟でしかないのだろう。


 ならばそれに縋る気持ちも理解できて。


「なら、ならもしもっすよ。百億円くれる美女がいて、いますぐ私のアシスタント辞めて付き合って、って迫ったら、冬真くんはどうするっすか?」


 極端な例え話だ。0か100。そのどちらかを選ばないといけないとしたら、大抵の人間は100を選ぶ。


 けれど彼は――


「そんな考える必要なんてないですよ。僕はミケ先生のアシスタントを選びます」


 迷う素振りもなく。笑顔で答えてみせた。

 それがあまりにもあっさり過ぎて、


「にゃ、にゃはは。にゃははっ」


 思わず、笑ってしまった。


「キミって子は、本当に、変わってるっすね」

「? そうですかね? 僕にとってはそんな怪しい人よりも、ミケ先生のアシスタントを続けてる方が安全だし楽しいと思うんですけど」

「私のアシスタントしてて楽しいっすか?」

「はい!」


 純粋無垢な笑み。

 なんて清々しい笑みなんだと、ミケはまた笑ってしまう。


 ――あぁ。なんてキミは素直なんだろうか。


 その笑顔が嘘なんかじゃないと、見て分かるから。

 目尻に溜まった涙を拭えば、ミケは「冬真くん」と名前を呼んだ。


「いいっすよ」

「え?」


 下げていた顔を上げて、ミケは小首を傾げる冬真に微笑みを浮かべながら言った。


「クリスマス。アシスタントしに来ていいっすよ」


 ついに彼と、そして彼の友達の想いに降伏すれば、冬真は大きく目を開ける。


「――っ! ほ、本当ですか⁉」


 はいっす、とミケは頷いた。


 ここまで自分といることを望んでいるのに、それに応えなければ雇い主失格だと思うから。


 だから、もう迷いはしない。怖気づくこともない。


 ――黒猫のミケは、アシスタントの懇願に応える。


「その代わり、美味しいもの用意してくださいっす」

「はい、はいっ! ミケ先生に喜んでもらえるよう、たくさん用意しておきます!」

「ケーキが食べたいっす」

「買ってきます!」

「チキンも食べたいっす」

「ケンチャッキーのでいいですか⁉」

「それと、冬真くんの手料理の何か食べたいっすねぇ」

「ミケ先生に喜んでもらえるようものを、今から全力で考えておきます!」


 まるで従順な犬みたいに、ミケのリクエストに余すことなく応じる冬真。

 そんな彼が可愛く思えて仕方がなくて――


「それから、キミと、ゲームしたり、アニメ視たりしたいっす」

「――っ」

「一緒に、楽しんでくれるっすか?」


 止めようと思っても、ミケの心は冬真に触れたいと暴走する。

 勝手に伸びていく手が、冬真の頬に触れた。


 込み上げてくるこの衝動は、もう収まらない。今はただ、冬真に触れたいと心が願う。


 この衝動に、名前を付けるとしたら。きっとそれ以外はないのだろう。


「はいっ! ミケ先生の疲れが付き飛ぶくらい、最高のクリスマスにできるように全力で楽しませます!」

「にゃはは。ありがとう――冬真くん」


 黒猫は、まだ恋を知らない。


 けれど芽生えた感情を否定することは、もうなかった。

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