第341話 『 大人としての責務と子どもの脆さ 』


「適当に買ったけど、どっち飲む?」

「……お茶で」


 選んだ方を渡せば、冬真は弱々しい声で「ありがとうございます」と言った。


 見るまでもなく悄然とする冬真の隣に座りながら、晴は残ったカフェオレを飲むと、


「自分のせいで、なんて思ってない?」

「……っ」


 奥歯を噛みしめる冬真を見て、晴はやはりかと吐息。


「キミはまだ学生で、子どもだ。そこまで重く感じる必要はないよ」


 誰に責任を問うべきかと言われれば、それは体調管理を怠ったミケだろう。あれほど休めと言っても聞かずに倒れるまで絵を描き続けたのだから、今度ばかりは擁護のしようがない自滅ぶりだ。


 けれど、冬真はそう思ってないようで。


「でも、僕は、ミケ先生の傍にいたんです。誰よりもっ……近くで、見てきたのにっ」


 傍にいながら彼女の体調の変化に気付かなかったこと。それに冬真自身が強く憤りを覚えていた。


 強く拳を握り、涙を堪えようと奥歯を噛む冬真。無力さに打ちひしがれる冬真に晴は空を見上げながら言った。


「ミケさんが倒れるまで絵を描いてたのは、たぶんキミが傍にいたからだと思う」

「――ぇ」


 晴の言葉に顔を上げた冬真が、どういう意味かと目を丸くする。

 晴は、悪い意味じゃなくてね、と微笑を浮かべて続けた。


「キミを雇う前までは、しっかり一人で生きられるようにってご飯の事とか考えてたと思うんだ。ほら、一人暮らしって家事もご飯も全部自分でやらなきゃいけないでしょ?」

「……はい」

「お腹が空いても、食べるものは用意されてない。だから事前に作っておくか、コンビニに行って買いに行くしかない。着るものがなくなれば、洗濯するしかない。描くことを優先したいけど、それをやらないと死ぬから否応なく手を止めなきゃいけなくなる」


 人にとっては当たり前のこと。日常生活というものを、しかし晴とミケのようなバカがつくほど小説にのめり込んでしまう人間には苦行でしかなかった。


 でもね、と継ぐと、


「今まで嫌々でやってたそれを、ある日代わりにやってくれるキミが現れた。面倒だった部屋の掃除をやってくれて、お腹が空けばご飯が用意されている――それまでは手を止めるしかなかった時間が、そうしなくていいようになった」


 一分一秒が惜しいミケにとって、冬真の存在はまさに救世主だったはずだ。


 彼が、自分がやるべき家事や炊事を担ってくれたことで、ミケはその空いた時間の分、より絵に集中できるようになったのだ。


「ミケさん、新作のイラストのラフを見せてくれた時言ってたよ。冬真くんがいるから、新しいことに挑戦できたって」

「――っ!」

「ミケさんのファンなら知ってるでしょ。あの人、あんまり武器とかモンスター系描かないって」


 ミケのイラストは人物中心――それも現代風のイラストが多い。『微熱に浮かされるキミと』を担当して以来、少女や風景イラストの方に才能が伸びっていったのだ。しかし、晴が今やってる新作はその真逆で、ファンタジーの世界観と戦闘描写の多い作品だ。


 だからこそ担当はミケになるはずがなかったのだが、


「ミケさんは俺とコンビを続けたかったからじゃなくて、自分の可能性を広げたくてやらせてくれてってお願いしたと思うんだよね」

「――――」

「ミケさんは既に人気があるし、他のラノベのイラストレーターとして使いたいって思ってる会社は数多あまたほどあると思う。それでもミケさんが新しいことをやってみたいと思ったのは、きっと金城くんが傍にいたからだ」

「……どうして、そんなことが分かるんですか?」

「そりゃ分かるよ。だって俺もミケさんと同じだから」


 ミケに冬真がいるように。晴にも、支えてくれる大切な人がいる。

 だから、ミケの気持ちが分かるのだ。


「同じなんだよ、俺とミケさんは。支えてくれる人がいるって知ってるから、だから後先考えず突っ走っちゃうんだ。いや俺はしっかり考えた上で行動してるけどね。でも、美月がいると、あぁたぶん無茶しても大丈夫だ、って思えるんだ。だから、臆せずに挑戦できる」


 美月なら、無茶をすれば必ず止めてくれる。時々叱られることもあるけれど、けれど頑張ってと背中を見届けてくれるから――だから前へと進める。


 背中を見届けてくれる人がいる。それだけで、力と勇気が不思議と湧いてくるのだ。


「だから金城くんがそんな思い詰めた顔はしなくていいんだよ。むしろ、何やってんだミケ先生ぇぇ、くらいで会った方があの人にとっては気が楽になるかもしれないよ」


 ジョークを交えながら言えば、それまで思い詰めていた表情がわずかに和らいだ気がした。


「……ハル先生は、凄いですね」

「どうして?」


 小首を傾げれば、冬真は缶を握りながら答えた。


「ミケ先生が倒れた時、僕、すごく怖くなったんです。頭が混乱して、どうすればいいか分からなくなって。でも、ハル先生は落ち着いて僕にどうすればいいか言ってくれた。今も、こうして励ましてくれてる」

「人が突然目の前で倒れたらパニックになるのは当然だよ。俺も去年病院に搬送されたけど、その時の美月と慎の顔は今でもよく覚えてる」


 二人とも、いつになく怖い顔をしていて、涙まで流していた。特に美月は救急車を呼ぶことすらも頭から忘れて晴に「死なないで」と叫ぶのに必死だった。だから、ミケが倒れて即座に救急車を呼んだ冬真の方がずっと冷静だった。


 逼迫した状況で、恐怖と戦い抜いた冬真に、晴は言ってあげたかった。


「――目の前で大切な人が倒れたのに、よく一人で全部できたね。偉いよ」

「――っ」


 ミケが目の前で倒れて、どれほど混乱しただろう。


 大切な人が死ぬかもしれないと思う最中で、どれほど怖く、苦しい思いをしただろう。


 それを耐えて救急車を呼び、晴に教えてくれた冬真に送るべきは――賞賛以外の何もない。


 優しい笑みを浮かべながら誉めれば――それまで堪えていたものが決壊したように、冬真は目尻から大きな、大きな涙を流し始めた。


「ひぐっ……ううっ……本当にっ……怖かったですッ……ミケ先生が死んだらどうしようって……ッ……もう、会えなかったらどうしようって……っ」

「気が済むまで泣いていい。怖くて当たり前なんだから」


 ぽたぽた、と涙をこぼす冬真の顔を、晴は胸に寄せて隠す。


 男だって、大切な人が死ぬかもしれないと思ったら泣くのだ。泣いていいのだ。晴だって美月が死ぬかもしれないと思ったら絶対泣く。


 それに冬真はまだ、子どもだ。


 ならば子どもの不安を受け止めるのは、大人としての務めだろう。


 晴もまだ立派な大人とは言えないけれど、それでも子どもの泣き顔くらいは隠せるから。


「俺の前では気が済むまで泣いていい。それで、ミケさんに会ったら笑顔をみせてあげて」

「はいっ……はいっ……はいっ」


 泣きじゃくる子どもを、晴は泣き止むまで付き添うのだった。


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