第231話 『 誰かを好きになっても、後悔だけはしないでね 』


 ――私じゃ、だめ?


 あれは、どういう意味だったのだろうか。


 あの時みせた千鶴の表情とその言葉がずっと頭から離れず、ぐるぐると回っている。


「冬真くんあぶない!」

「――ぇ」


 美月の怒声にハッと我に返り、冬真は持っている包丁が食材ではなく自分の手を切ろうとしていたことに気付いた。


 寸前のところで手が止まり、大惨事は回避できたが、


「包丁持ってる時によそ見ダメ! 絶対!」

「す、すいません!」


 顔を赤くしながら怒る美月に、冬真は青ざめた顔で頭を下げる。


 キッチンでの騒ぎを聞きつけたのか、執筆部屋から出て来た晴がひょこっと顔を覗かせてきた。


「どうかした?」

「いえ、なんでもないです。ごめんなさい、執筆の邪魔しちゃって」

「俺のことは気にしなくていい。でも、怪我のないようにな」

「うぅ、ずいばせん」


 同級生に、それこそ女子に怒られた経験が乏しい冬真は泣きながら頷く。


 それから、再び執筆部屋へと戻っていく(エクレアもついて)晴を見届けて、美月はやれやれと肩を落とす。


「なんか上の空みたいだったけど、何かあったの?」

「う、ううん……なんでもないよ」


 顔色を覗き込もうとしてくる紫紺の瞳からつい逃げれば、美月は「嘘だね」と呆れながら言った。


「今日、授業中に千鶴と何かやってたことと関係でもあるの?」

「うっ……やっぱり見られてた?」

「後ろの席なんだから当たり前でしょ。バッチリ可憐とお二人の楽しい光景を観させていただきました。まぁ、何をやってるかは流石に分からなかったけど」


 それでもあの時のやり取りを観られたいのは事実なので、冬真としては少しだけ恥ずかしかった。


 ただ、あのやり取りが楽しかったかといえばそうでもなくて。


「ねぇ、美月さんはどうしてハル先生と結婚したの?」

「どうしたの急に?」


 静かな声音で訊ねれば、美月は怪訝に眉を下げた。


 たしかにさっきの会話と今の話題に接点はない。美月としては脈絡がないと思えて当然だろう。


 けれど、冬真にとっては大事な質問だった。


 そして、それを察したように美月は語り始めてくれた。


「……私と晴さんと結婚しようと思ったのは、初めは利害関係が一致したからだよ」

「え?」


 美月の言葉に驚きを隠せずに声を上げれば、美月は苦笑を浮かべる。


「私と晴さんはお互いが好きだから結婚したんじゃないんだよ」

「そうだったんだ」


 冬真にとってそれは初めて知る事実だった。


 美月と晴は、てっきり惹かれ合って交際を初めて、そして結婚したのだと思っていた。


 けれどそれは、冬真の勝手な勘違いだったようで。


 未だに呆気取られている冬真に、美月は続けた。


「求婚してきたのは晴さんの方だったけどね。私を選んだ理由は、料理と家事ができるから。あ、あと黒髪が好印象だったらしいよ」


 にしし、と自分の黒髪を持ち上げてはにかむ美月。もし茶髪だったら晴と出会ってなかったのかもしれない、と冗談を言って空気を和ませた。


「それで、私が晴さんに求めたのは環境かな。家事と料理をやる代わりに毎月報酬をもらう……まぁ、結局出会って一カ月で結婚しちゃったから一回も貰ってないけど」

「ん⁉」


 何やら聞き捨てならないワードが聞こえた。


「え、待って待って、美月さん、今なんて言った?」

「出会って一カ月で結婚したって言いました」

「は、はは……冗談だよね?」

「あはは。何おかしなこと言ってるの冬真くん。冗談じゃないよ」


 互いに笑い合う。

 …………。


「マジ?」

「マジです」


 開いた口が塞がらなかった。


「なにそのラブコメみたいな結婚の仕方⁉」

「まぁ、晴さんラブコメ作家だから。ラブコメみたいな結婚がしたかったんじゃないかな」


 だとしても、だろう。


 出会って一カ月で結婚を決める二人にも驚くが、一番の驚愕ポイントは、あの八雲晴が美月が学生だということを知って結婚する度胸だ。そして、それに頷く方も度胸が凄い。


「……二人ってどんな風に出会ったのさ」

「それは内緒。でも、晴さんと出会えたのは奇跡だから」


 ふふ、とたおやかに笑う美月に冬真は苦笑もこぼれない。

 これからは美月のことをもっと尊敬しよう、なんて胸中で呟いていると、


「私はね、晴さんと過ごしていくうちに、この人を支えていきたいって思うようになったんだ」

「――――」


 柔らかく微笑みながら、美月は言った。


「始まりはお互いの利害が一致したから。そこに愛情なんてものはなかった」


 でもね、と美月は紫紺の瞳を揺らして、


「一緒に過ごしていく内に、少しずつ好きになっていった。この人じゃなきゃ嫌だって、晴さんを支えるのは私がいいって思った。そしたらもう、大人と子どもとか、周りの目なんてどうでもよくなっちゃって。気づいたら結婚してたんだよ」

「――――」


 その瞳に映す、晴に向ける信頼と愛情が少しだけ見えた気がした。


 美月は、晴に全幅の信頼と愛情を寄せている。それは二人と接した中で何度か垣間見てきたつもりだが、先の言葉で確信に変わった。


 きっと、晴も美月と同じなのだろう。


 二人の間にあるのは〝真の愛情〟それは時間や年数ではなく、思いやりによって培われるものだと知って。


「私は、晴さんと結婚したことに後悔はしてない。それどころか鬱屈としてた毎日が新鮮な日々に変わった。だから晴さんには、感謝してもしきれないくらい感謝してる」


 それは、冬真も同じだ。


 冬真もミケと出会ったから、止まっていた歯車が動き出した気がした。


 ミケに感謝している。


 それと同じくらい、彼女にも――


「冬真くん」

「なに、美月さん」


 真っ直ぐに見つめてくる紫紺の瞳に、吸い込まれるように見つめ返した。


「〝誰か〟を好きになっても、後悔だけはしないでね」

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