第111話 『 我儘を言ってごめんなさい 』

 

 コンコン、と扉をノックすれば、当然だが反応はなかった。

 もしかしたらこのノック音も気づかない可能性も脳裏に過ったが、それでも晴は深く息を吸うと「美月」と名前を呼んだ。


「……この間のことは、すまん」


 初めにきちんと謝罪をして、それから続ける。


「自分のことばかりでお前の気持ちを蔑ろにしてた……と思う」


 晴の事を慮ってくれたかは半信半疑だが、それでも美月の気持ちを無下にしたことには変わりない。

 花火大会に誘ってくれたことを面倒だと思ってしまったのは事実だった。


「放って置いたら機嫌治ると思ったけど、それも間違ってた。お前が怒った時にすぐに謝るべきだった。スマン」


 扉越しに頭を下げた。

 美月にはこの姿は見えていない。それでもこうして頭を下げるのは、少しでも自分の気持ちを言葉に乗せたかったからだ。

 それから、晴はこの二日間で感じたことを吐露した。


「お前の顔が見れなくて、正直少し不安だった。いつも食べてた美味いご飯がもしかたらずっと食べられなくなるんじゃないかって」


 応答はない。それでも構わず続ける。


「俺はこうやって誰かと喧嘩するのも初めてだから、本音を言うと、どうやったらお前の機嫌が直ってくれるのか全然分からない」


 ほんのわずか。声音に真剣さが増した。


「お前の顔が見たい。見て謝りたい」


 素直に胸中で思っている想いを吐露した。

 伝えたいことは全部言った。後は美月が姿を現わしてくれるかどうかだ。

 静寂の時間が流れて、晴はただその場でこの扉が開くのを待った。

 数十秒後。ようやく待ち望んだ扉が開く音がした。


「――美月」

「―――――」


 晴の想いが届いたのかは分からない。でも、やっと美月が顔を見せてくれた。

 二日ぶりに拝めた妻の顔に安堵が胸の中で広がれば、晴はその感情をすぐに振り払って謝まろうと頭を下げた――がしかし、その行動は美月によって遮られる。

 何事かと目を見開けば、唐突に美月が抱きついてきたのだ。

 よろめきながら抱きしめれば、美月は顔を見せないままぽつりと呟いた。


「私も、我儘を言ってごめんなさい」


 謝った美月に目を見開いて、晴もすぐに謝る。


「俺もごめんな。今年の夏はお前に付き合うとかほざいたくせに、小説優先しようとした」


 ようやく面と向かって謝罪する事ができた。

 ぎゅっ、と強く抱きしめる力を強くすれば、顔を上げた美月が不安そうな顔をして問いかけた。


「私のこと、嫌いになりましたか?」

「な訳あるか。むしろ改めてお前の大切さに気付かされた」

「ずっとコンビニ弁当でしたもんね」


 しれっと言及されて頬が引きつった。


「分かってたならせめてご飯くらい用意してくれよ」

「それだと喧嘩の意味がないでしょう」

「仰る通りで」


 正論に反論などない。

 仮に喧嘩したにも関わらずご飯が用意されていたら、きっと晴は美月に謝るのがあと数日遅れていたと思う。


「本当に思い知らされた。お前がいないとやっぱり俺はダメだ」

「私も思い知らされました」

「何に?」


 そう眉根を寄せれば、美月は無言のまま晴をジッと見つめてきた。

 その真っ直ぐに見つめる紫紺の瞳に吸い寄せられるように見つめ返せば、美月はそれまでの寂しさを伝えるように吐露した。


「もしかしたらこのまま離婚しちゃうんじゃないかって、凄く不安になったんです」

「そんな訳あるか。さっきも言ったろ。お前がいないと俺はダメだ。ダメ人間になる」


 悲しそうな声で言った美月に、晴は自嘲しながら返した。

 まだ寂し気に紫紺の瞳に影を落とす美月。そんな彼女の頬に手を添えると、晴は口許を緩ませて言った。


「安心してくれ。お前が「離婚する!」って言うまで、俺はお前から離れるつもりはない」

「本当ですか?」

「疑うな。俺は、嘘は吐かない。そしてお前が想像している以上にお前に惚れてる」

「――っ」


 こうやって喧嘩して、こうやって抱きしめ合って、実感させられた。

 離れがたい温もり。それを大切に抱きしめながら、


「もうしばらく、このままでいいか?」


 そう問いかければ、美月は柔和な笑みを浮かべながら頷いて。


「――はい。私も、もう少し晴さんとこのままでいたいです」


 仲直りの印として、二人は廊下で抱きしめ合い続けた。

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