第348話 『 互いの些細な変化が分かるくらいには相思相愛ってこと 』


 遅めの朝食を済ませた後は、いよいよ熱海を満喫する旅が始まった。

 バス一日乗車券を利用してまず初めに着いたのが、熱海サンビーチだ。


「シーズンではないから泳いでる人はいないな」

「当然でしょう。この時期に泳いだら凍死しますよ」


 呆れながらツッコミを入れる美月にそりゃそうだと同調しつつ、


「夏に来てたら泳いでたかもしれんな」

「えぇぇ、晴さん面倒だ、とか言って一緒に泳いでくれなそう」


 そんなことはない、と否定しきれずにたじろげば、美月はほらね、とくすくす笑う。


「お前は俺の性格熟知してるな」

「そりゃ貴方の妻ですから」


 自慢げに胸を張る美月に、晴は苦笑。


「どうしますか? もうちょっと波際まで近づきます?」

「ここから見る景色も捨てがたいが、そうだな。もうちょっと近づくか」


 頷き、それから波打ち際まで近づけば、ザーザー、と心地よい音が耳朶に届く。


「映画とかだと、ここで靴を脱いで恋人同士で追いかけっこしますよね」

「やりたいのか?」

「靴が濡れると嫌なので遠慮しておきます」


 憧れているのかと思ったがどうやらそうではないようで、ただ口にしてみただけらしい。


 コイツも何だかんだで合理的だよな、と思っていると、


「でも、ここで貴方と手を繋いで歩きたいです」

「いつも手を繋いで歩いているだろ」

「むぅ。この浜辺で歩いているのがロマンチックだと言ってるんです」


 顔を覗き込むように視線を下げてお願いしてくる美月に、晴は「分かった」と嘆息しながら手を繋いで歩く。


 二人で波打ち際を、靴が濡れないように歩く。


「夕方だともっと綺麗なんでしょうね」

「夜に来ればライトアップしてるらしいな」

「なら夜にまた来ますか?」

「そういえば、俺たちが泊る旅館とここ、意外と近いみたいだな」


 それならば、またここに来るのはありかもしれない。


「それじゃあ、夜は夜のお楽しみとして、今はこの景色を目に焼き付けましょうか」

「ふっ。だな」


 街と海を見ながら、ただ歩く。それだけなのに、不思議と胸が満たされていく。


 一人だったら絶対に味わうことはないであろうこの感覚はやはり、隣で一緒に歩いている美月がいるからなのだろう。


「なんですか、人の顔じっと見て」

「別に何も」

「えぇ、嘘だ。何思ってたんですか?」

「小説のこと考えてた」

「むぅ。せっかくの旅行なのにまた小説のこと考えてる……と言いたい所ですが、今回は許してあげましょう」


 誤魔化す為に言っただけなのだが、美月の言葉に意外だなと目を見開いた。


 そんな晴に、美月は紫紺の瞳を真っ直ぐに向けながら言った。


「私は小説書くのが大好きな小説家の妻ですから。だから晴さんの考えてることくらい分かりますよ」

「――――」

「今日の晴さん。いつになく楽しそうです」


 顔も声音は何一つ変わっていないはずなのに、どうして分かるのだろうと胸中で思っていれば、その疑問さえ見透かしたように美月が続けた。


「あの建築物作品に使えそうだなー、とか、この海だってどこかのシーンで使おうとか思ってるんでしょう?」

「なんで分かる」

「分かります。だって、晴さん。ずーっとニヤニヤしてましたよ」

「……そんな顔に出てたか?」

「他人には分からないと思います。でも、私は貴方の奥さんなので」


 だから、と美月は微笑むと――、


「貴方の些細な変化なんて、すぐに分かるんですからね」


 そう告げた美月は、まさしく晴の〝妻〟の顔をしていて。

 あまりに美して、魅入ってしまう。


「……お前、俺のこと大好きだな」

「貴方の思っている以上に大好きですよ」

「些細な変化も分かるくらいだもんな」

「晴さんだって、私のことよく見てくれるでしょう」

「当然だ。俺も、お前のこと愛してるからな」

「ふふ。知ってますよ」


 照れず、嬉しそうに笑う美月を見て、晴もつられて笑ってしまう。


 それからも砂浜に二人の足跡を刻みながら、晴はやっぱり妻には敵わないなと思い知る。


「まぁ、小説のことを考えるのも程々にお願いしますね。今日は私の事をたくさん思っていて欲しいです」

「分かってる。でも知ってるか。普段小説の事ばかり考えてると、無意識の内に構想とか設定を考えてしまうんだ。だから、俺にはもうどうしようもない」

「やれやれ。本当に貴方は呆れるほど執筆ばかですねぇ。ま、それも今更ですかね」

「あぁ、今更だ」

「開き直るのは違うと思います。はぁ、これは家に帰ったらまた治療が必要ですね」

「ほぉ、それはどんな治療か楽しみだな」


 わざとらしく言えば、美月は照れた風に頬を朱らめて、


「……知ってるくせに」


 恥じらう姿も可愛いなと、そう思わせるのだった。

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