第53話 『 約束、果たしてくれますか? 』
夜。
「美月」
「なんですか?」
美月の就寝前。晴はテレビを見ていた美月の傍まで近づくと、そのまま隣に座った。
美月がわずかに身構える。
「お前に言わないといけないことがある」
「な、なんですか改まって」
急に畏まった晴に、美月はたじろいだ。
すぅ、と小さく呼吸をしてから、晴は紫紺の瞳を見つめて。
「俺はお前が好きだ」
「……っ⁉」
晴は何の脈絡もなく、突然美月に想いを吐露した。
驚く美月が口をわなわなさせるのを見届けながら、晴は続けた。
「お前は、ずっと待ってくれたんだよな。俺からキスするの」
「それは……っ」
今度は視線を泳がした美月が、唇を噛む。
「忘れてた訳じゃないんだ。本当に。ただ、なんというか……迷ってたんだと思う」
「迷ってた?」
「あぁ。俺は、お前も既に知ってる通り恋愛経験ゼロだ。だからどういうタイミングですればいいとか全然分からなかった」
小説なら、自分の思うように書けばいいだけ。登場人物の感情に沿って、設定に沿って良いムードをかき上げればいい。
小説は、晴が望むキスシーンを書けるけども、現実は違う。
美月は美月だから。
「お前の気持ちとか、理想とか、どうしたら喜んでくれるとか考えてるうちにお前との約束をずるずると引きずってしまった」
「……そんなこと考えたんですね」
「悪いと思ってる」
正直に明かせば、美月は淡々とした声音で吐息した。
頭を下げれば、美月は「怒ってませんよ」と微笑して両頬を掴んできた。そして、晴の顔を見つめてくる。
「謝る必要なんてありません。いま、晴さんの気持ちを聞けて私は凄く嬉しいです」
「なんでだ?」
晴としては不甲斐ないばかりなのに、けれど美月は朗らかな笑みを魅せ続けてくれた。
だって、と美月は双眸を愛しげに細めると、
「貴方が私のことを考えてくれたから。私の気持ちに応えようとしてくれたから、それが凄く嬉しいんです」
「お前のことを考えるのは当然だ」
「ふふ。妻だからですか?」
「あぁ」
その肯定が嬉しいのだと、美月はより深く笑みを浮かべる。
「いつも小説のことしか頭にない晴さんの頭に、私っていう存在がいるのが嬉しんです」
「俺は小説のことばかり考えてる訳じゃないぞ」
「嘘ですね。晴さんの思考の九割は小説です」
「せいぜい七割だ」
「半分以上は小説じゃないですか」
美月は呆れて、むぅ、と頬を膨らませる。
「晴さんの頭の中に、今私はどれくらいいますか?」
「二割くらい?」
「明日の夕飯なしです」
「冗談だから。……四割だ」
「むぅ。まぁ、それなら妥協しましょう」
ご機嫌斜めになってしまった美月に慌てて機嫌を取り戻してもらおうとすれば、晴の必死さに免じて今回は見逃してもらった。やはり、女心は難しい。
それから美月はふふ、と微笑むと、
「小説が七割、私のことが四割だと、晴さんの頭はパンクしちゃいますね」
「既に埋め尽くされてるけど、でも、お前のことはそれくらい考えてる」
「ご飯と私なら?」
「…………お前」
「そこですぐぱっと答えが出せないのは減点ですねぇ」
「ご飯だってお前の作るものだから悩んなんだ。お前以外の料理とお前だったらすぐに答えられた」
今じゃコンビニ弁当では満足できない体に改造されてしまったのだ。美月の真心のこもった美味しいご飯のせいで。
口を尖らせれば、美月はくすくすと笑った。
「それじゃあ、晴さんの思考が私で四割ということは納得できますね。料理に洗濯に掃除……晴さんの生活は私が保っていますから」
指を折り数え、美月は晴への貢献度を伝えた。
全くもってその通りで、頭が上がらない。
「お前がいないと死ぬな、俺は」
「大丈夫。人はそう簡単に死にません。まぁ、晴さんは例外ですけど」
執筆病ですから、と美月は微笑みながらも凄みのある圧を放つ。
そしてすぐに美月は柔和な声音で言った。
「執筆病の貴方を支えるのは私ですし、そんな貴方を好きになったのは私です」
美月が、晴の指に自らの指を絡めてくる。晴は無抵抗のまま、それを受け入れた。
そして美月の想いに応じる。
「こんな執筆バカを好きになってくれたお前が好きだ」
「はい。さっき聞きました。この前も」
「だからちゃんと、約束を果たしたい」
「律儀ですね」
「じゃないと恰好がつかないだろ」
くす、と微笑む美月に、晴は口を尖らせた。
――やっぱ現実はラブコメみたいにはならない。
鼓動が早くなる描写は、晴にはなかった。
好きで頭がおかしくなる、なんて事はなかった。
ただ、これが甘い雰囲気だというのは分かって。
「約束、果たしてくれますか?」
「――あぁ」
晴との約束をずっと待ってくれた少女へ、晴は顔を近づけていく。
まだ、女心は全然分からない。小説では鮮明に描写ができても、やはり現実は違う。
だから少しずつ、それを知っていこう。
晴が知らない感情を、教えてくれる妻がいるから。
支え合うのではなく、支えてくれる存在へ――
「――ん」
「――ん」
晴は美月と唇を重ねた。
▼△▼△▼▼
翌朝。
「それじゃあ、今日も行ってきますね」
「ん。行ってこい」
いつものようにリビングで準備を整えた美月を見送ろうとすると、
「どうした?」
「…………」
なぜかその場で足を止めた美月に、晴は小首を傾げた。
とたとたと晴のすぐ傍まで近づいた美月は、指をもじもじさせていた。
何か言いたげな表情が数秒続いたあと、美月はぎゅっ、と閉じた瞼を開くと、
「晴さん」
「ん?」
「行ってらっしゃいのキスして欲しいです」
「急になに言い出すんだお前は」
いきなり要求されて戸惑えば、美月は頬を膨らませた。
「昨日は晴さんからしてくれたじゃないですか」
「それは約束したからだろ」
「いちいち約束しないと晴さんはキスしてくれないんですか?」
「そういう訳じゃないが……なんで朝からキスしなきゃならないんだ」
困った風に頭を掻けば、美月は「それは」と照れくさそうに頬を朱に染めて、
「朝からキスしてくれたら、私が一日頑張れるので」
だからして欲しいです、と美月は紫紺の瞳を潤ませて要求してくる。
「(まぁ、こいつにはいつもお世話されてるしな)」
仕方ない、と言わんばかりに嘆息すれば、美月の肩を掴んだ。
それが合図だと分かった美月は、ゆったりと瞼を閉じていく。
晴も目を閉じれば、間もなく美月の唇に己の唇を重ねた。
「これでやる気出たか?」
「――はい。物凄くやる気がでました」
瞼を開けた美月は、満足そうに微笑む。
「それじゃあ、行ってきますね」
「おう。行ってこい」
赤くなった頬のまま玄関へ去っていく美月に、晴は小さく手を振って見送った。
数分後に玄関が閉じる音が聞こえれば、晴は「はぁぁ」と深く吐息をこぼして、顔を隠した。
「可愛い顔しやがって」
朝ご飯のお代として美月にキスしたつもりが、晴の方がお釣りをもらってしまった。
美月のあの笑顔。それはなかなかの破壊力で、晴はしばらく美月の顔が頭から離れなかったのだった――。
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