第48話 『 明日、絶対洗いざらい吐かされます 』
美月が学校でいない平日はなんとも平穏だ。
午前七時には起きるようになった体は初めこそ朝の陽射しに抵抗を感じていたものの、今ではすっかり思い通りに動くようになった。
美月を見送る前に皿洗いを済ませて、その後の一時間くらいは本を読んだりニュースを見たりダラダラとできる時間も作れた。
十分な休憩を取れば執筆に向かう足取りも軽いもので、よし執筆するか、と思えばすぐに動けた。以前は書く事が仕事、と思っていたので気怠さもあったが、朝に余裕が生まれた分、気分も楽に執筆作業に取り掛かれるようになった。まさに、朝は三文の徳、である。
これも美月と過ごすようになったから、という事はもはや言うまでもあるまい。
常々、美月には感謝させられる。
残りの午前と午後の時間を少し使って、ひとまず作業は中断。
お昼は適当に軽食で済ませて(あまり食べ過ぎると眠くなるし晩ご飯をたくさん食べたいから)少し休憩、そしてまた、原稿に取り掛かる。
なるべく今の原稿を進めておけば、次の仕事を受け入れやすくなるのだ。
晴は時々、出版社から雑誌の小説を書いて欲しいと依頼を受ける。
小説とは単に文庫本だけでなく、雑誌として掲載される媒体も存在している。最も分かりやすい例は、某出版社が出している週刊少年誌のジャ○プみたいなやつだ。そのライトノベル版として、月に一度発売されている。
そこで連載している作家もいるが、晴はその雑誌で読み切り版を稀に更新している。評判が良い作品は書籍化しているし、【微熱に浮かされるキミと】は定期的にスピンオフを上げている。
最近は新作を書いていなかったが、美月との生活のおかげで書きたい作品が増えてきたので一度、担当編集者である文佳とは相談してもいいかもしれない。
そんな事を考えつつも原稿を進めていき、ふとスマホの電源を点ければ時刻は既に十五時を過ぎていた。
「……カラか」
喉が渇いたから水分補給とペットボトルを掴めば、中身が空になっている事に気付く。
仕方ない、とストック分を冷蔵庫から持ってこようと仕事から出れば、
「雨、降ってたのか」
梅雨に入り、雨の日が続く。今朝は晴れだったがどうやら急に天候が崩れたようだ。
雨の日続きだったので美月が「洗濯物が全然干せません」と頬を膨らませていた事を思い出すと、連想ゲームのように晴は大事な存在を思い出した。
「やべ。洗濯物」
ベランダに干されている洋服の存在を思い出して、晴は小走りで向かっていく。
窓を開けて、洗濯物を取り込んでいく。中にしまう前に濡れ具合を確認すると、湿ってはいるが大惨事は免れていた。どうやら、つい先ほど雨が降り始めたらしい。
とりあえず洗濯物をリビングに避難させれば、晴はふぅ、と息を吐いた。
「あいつ、傘持って行ったかな」
何かと用意周到な美月の事だ。その心配は杞憂だろう。そう思いたい。
長傘は携帯していない可能性があるが折りたたみ傘なら持参しているだろう、と信じ、晴は執筆に戻るべく冷蔵庫からペットボトルを取りに行く。
「しまった」
が、開けた冷蔵庫には、あると思っていたストックが空だった。
べつにマグカップでも構わないが、やはりペットボトルの方が量があるし溢さない心配も相まって便利なのだ。キャップとは偉大である。
買いに行くか、と思ったものの外は雨が降っているし出たくない。ただ、じっとしているのもそれはそれで不毛なので、晴はしばらくの間逡巡した。
そして、葛藤の末に晴が取った行動は――。
▼△▼△▼
とある場所にて傘を差して佇んでいると、好奇の視線がちらちらと晴をさしてくる。
まぁ、当然といえば当然なので、視線は痛いがジッと待つ事にしていた。
ぽちぽちとスマホを弄っていると、
「……え⁉」
と驚愕した声音が聞こえてきた。雨が傘を打ちつけて鮮明に音が聴きとれないが、その声主が誰かはすぐに分かって。
「やっぱ傘持ってたのか」
顔を上げれば、晴が校門前にいることに驚いている美月がいた。
「な、何してるんですか晴さん⁉」
「何って……傘持ってるか分からなかったから持ってきた」
「折り畳み傘持ってるから心配しないでください……じゃなくて!」
美月は慌てて晴に駆け寄り、
「なんで学校に来るんですか⁉」
「傘持ってるか分からなかったから持ってきた」
「それさっきも聞きましたけど⁉ なんで来てしまったんですか⁉」
「傘持ってるか分からな……」
「同じこと何回も言わないでくださいっ」
理由はそれしかないのでずっと言い続けていれば、美月がこめかみを抑えながら途方に暮れていた。
「心配したから来てやったのに、なんでそんな困った顔してるんだよ」
バイトの迎えは喜ぶのに、と口を尖らせれば、美月はキッと晴を睨んだ。
「バイトと学校じゃ注目度が違うんです!」
「注目って、誰が俺たちを気にするんだよ」
と返せば、美月は無言のままくいっと顎で晴の視線を促した。
そして見れば、下校中の生徒たちが晴と美月をにやにやと見ていた。
なるほど。確かに女子高生の視線が先程より痛い。
「来ちゃまずかったか」
「やっと自覚してくれましたが」
晴の存在が美月の立場を物語っている事を理解すれば、美月は辟易と嘆息した。
二人揃ってその場で途方に暮れていると、女子高生の言取が「あの」と声を掛けて寄ってきた。
自分かと思って振り向けば、どうやらそれは己惚れだったらしく、女子高生の視線は美月に向けられていた。
「あの、瀬戸さん。その人、もしかして瀬戸さんのカレシさん?」
「なになに、瀬戸さんのカレシ⁉」
「え、美月さんカレシいたの⁉」
慣れ合い方からして、おそらく美月のクラスメイトだろう。
一人の女子が美月に興味を示して寄れば、その子と交流があるのかないのか分からない少女数人まで美月と晴に寄って来た。
好奇の視線に、晴は慌てて外面を出して、美月はというとどう返答するべきか戸惑っていた。
「……ええと」
「(ま、旦那とは言いづらいよな)」
美月が首元に掛けている結婚指輪を見ればすぐに晴が旦那だとは気づくだろうが、そんな推察力を眼前の女子たちがもっているとは思えないし、何よりもその結婚指輪は制服の中に隠れている。
それに、美月が結婚している事実を彼女たちは知らないはずだ。
この場で露呈するのも事態をややこしくしそうで、出来れば誤魔化したい。
「(この状況を作ったのは俺だし、責任くらいもつか)」
さてどう切り抜けるか、と数秒思案すれば、まだ逡巡していた美月に替わって晴が彼女たちの質問に答えた。
「初めまして、俺は美月の〝恋人〟です」
「っ⁉」
そう答えれば、美月が目を白黒させて女子たちは「きゃー⁉」と歓喜の悲鳴を上げた。
耳鳴りを覚えるほどの甲高い声に頬を引き攣らせつつも、晴は女子たちに応じた。
「皆は美月のクラスメイトかな?」
「はい!」「そうですーす」「はい」
やはりクラスメイトだった。
「いつも美月がお世話になってます」
「いえいえ! 私たちも瀬戸さんにはお世話になってます」
頭を下げれば、クラスメイトたちも律儀に頭を下げた。
女子の返答にちらちと美月の方を見れば、恥ずかしそうに視線を逸らしていた。どうやら、友達はちゃんといるようだ。
ほ、と安堵しつつ。晴は爽やかな笑みを浮かべると、
「もっと色々な事を聞きたいけど、こんな雨の日に立ち話をしてるとキミたちまで風邪を引きかねないし、今日はそろそろ帰ろうか」
女子たちの体調を気遣った風に帰宅を促させば、何故か女子たちは「紳士!」や「イケメンやぁ」とか「やば惚れそう」などと晴に好意的な視線を送っていた。ただ唯一、晴の素面を知っている美月だけは「なんですかそれ」と呆れていたが。
兎にも角にも、この場所から離れればいいのだ。
そんな晴の配慮が効いたのか、女子たちは名残惜しそうにしながらも美月に手を振った。
「そうだね。この話はまた明日じっくりしようか」
「ばいばい瀬戸さん。カレシさんと仲良くねー」
「いいなぁ。あんなイケメンカレシ。私も欲しいー」
一人だけ本音が零れているな、と苦笑しつつも、晴は「それじゃあ」と女子たちに笑みを送りながら、
「君たちも気を付けてね。それじゃあ……」
「――っ⁉」
美月の手を握って歩き始めた。
「行こうか。美月」
「じゃ、じゃあね。皆~」
頬を朱に染めながらも平常を装ったように、美月は振り向きながらクラスメイトたちに手を振った。
クラスメイトたちはその場で晴の話題で盛り上がっているようで、今のうちに距離を取っておく。
そして十分に学校から距離を取れば、
「ふぅ。なんとか切り抜けたな」
「自分で作った窮地なのになんでそんなやり切ったぜ、みたいな顔してるんですか」
安堵すれば、美月がため息を吐いた。
「明日、絶対洗いざらい吐かされます」
「どんまい」
「誰のせいですかっ」
「十中八九俺のせいだな」
すでに容疑は認めているので開き直れば、美月はもうっ、と頬を膨らませる。なんだかリスみたいで、無性に突きたくなる。
不機嫌になってしまった美月は、ご機嫌を取れと晴に要求してきた。
「罰として、今日はずっと手を繋いでください」
「濡れるからそろそろ離してくれ」
傘があるとはいえ、やはり距離感のせいで左腕が結構濡れる。それに、右手には美月の傘を合わせて二つ分の重さが掛かっているのでかなりキツイ。肘にでも掛けとくべきだったが、それは見栄えが悪いので避けていた。
ぷるぷると右手を震わせている晴を見かねてか、美月が嘆息すると握っていた手を離した。
「今はこれくらいで勘弁してあげます」
空いた左手で傘を持って下さい、と促されて、晴は申し訳なくも美月の厚意に甘えた。
楽になった右手と、美月の温もりに代わって握る傘の熱量は、比べるまでもなく熱を帯びていなかった。
彼女の手の温もりを名残惜しくも感じながら、晴は息を吐くと、
「今は、ってことはまだ許された訳ではないのか」
「当たり前です。家に帰ったら、今日は寝るまで手を握ってもらいますからね」
「家の中で手を握る意味とは」
「特に意味はありませんけど、晴さんのせいで私が明日面倒ごとに巻き込まれることへの罰です」
それは果たして罰なのだろうか。人によってはご褒美なのでは、と思ってしまう。
「それくらいでいいのか」
「ならもっと凄いことを要求しても?」
「べつにいいぞ」
「……晴さんのエッチ」
「今のやり取りでそういう思考になったお前の方が卑猥だ」
他意もなく答えたつもりなのに、美月が変な解釈をして頬を赤くする。完全な自爆なのに、ぺしっと腕を叩かれた。
「晴さんのバカ。大バカ。執筆バカ」
何度もバカ、と叱責しながら、美月は晴の袖を握ってくる。
「罰として、今日はこのまま帰ってください」
手を握れない代わりに美月が要求してきたのは、袖を握り続ける事だった。
なんだかんだ、晴と一緒に帰れて嬉しいのだと気付くと、素直じゃない美月が可愛く思えてしまって、
「お前は本当に素直じゃないな」
「うるさいです。晴さんのおバカ」
こんな風にむくれ顔の美月と帰る雨の日も悪くないな、と晴は密かに胸に思うのだった。
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