第181話 『 私のことを疎かになんてしたら、即離婚ですよ? 』


「晴さん」


 昼食も済ませ一息ついていると、不意に美月が名前を呼んだ。

 何事かと振り返ってみれば、美月は己の腿を叩いていて。


「……まさかとは思うが、ここで膝枕する、なんてつもりじゃないよな?」

「そのまさかですよ」


 肯定する美月は悪戯な微笑みを浮かべていた。

 今日は休日だけあって親子が多い。それに日向ぼっこしているご老人たちもいる。

 人目がある中で流石にそれは、と逡巡していると、美月が頬を膨らませた。


「ほら早く」

「お前には羞恥心というものはないのか?」

「誰も私たちのことなんて見てませんよ」

「でもなぁ」


 躊躇う晴に痺れ気を切らしたのか、美月は両腕を伸ばすとそのまま頭を掴んできた。

 えい、と可愛らしい声に為す術なく、晴は美月に膝枕されてしまった。


「どうですか? 妻の膝枕は?」

「もの凄くむずむずする」

「あら。手を繋ぐ時はもうむずむずしなくなったのに?」

「手を繋ぐのと膝枕を同じ扱いにするな」


 手を繋ぐ、なんて行為はよく目にする風景だから誰も気にすることはないが、膝枕となれば話が変ってくる。


 それを物語るように、周囲は晴と美月をちらちらと見ていた。子どもからは『いちゃいちゃしてる!』なんて揶揄われてしまう始末。


「恥ずかしい」

「貴方にも羞恥心というものがあるんですねぇ」

「当たり前だろ。俺だって人間だぞ」

「人間の割に感情が表に出ないですよね」


 なんて失礼な、と頬を引きつらせながら返す。


「俺は感情を顔に出すのが苦手なだけだ」

「小説を書いてる時はよく笑ってるくせに」

「そうなのか?」


 無意識だから分からなかった。

 視線だけくれて尋ねれば、美月は「そうですよー」と少しだけ悔しそうに答えた。


「貴方は小説を書いてる時が一番活き活きとしてます」

「まぁ、それが生きがいだからな」


 肯定すれば、美月はむぅ、と頬を膨らませる。


「貴方の一番は私がいいのに」

「小説と同等だよ」

「えー。そこは「小説よりお前が一番だぞ」と言ってくれないと」


 晴の真似をしながら言う美月。不覚にもちょっと似ていて笑ってしまう。

 それからコホンッ、と咳払いしつつ、


「俺にとって小説も、お前も、エクレアも一番大事なものだ。それは譲らないし、変わることもない」


 きっとそれを、人は守るべきものというのだろう。

 美月はもう、晴にとってかけがえのない存在で、大切な家族だ。


「(あぁ。なんで書けないのか、分かった気がする)」


 今。その想いに触れて、理解した。

 晴はきっと――


「俺は、お前との時間を大切にしたいんだと思う」

「――ぇ」


 ぽつりと、呟いた言葉に美月は目を見開く。

 紫紺の瞳が揺れる様を見届けて、晴は続けた。


「お前はもう知ってるだろ。俺が人生=恋人ナシだったこと」

「はい。私が貴方の最初で最後の女ですからね」


 しれっと一生傍にいてくれると言う美月に苦笑しながら、


「だから、なんだろうな。初めて俺にできた大切な人を、その時間を優先したいと思ってしまっている」

「――――」


 反動。そう呼ぶのが相応しいのかは分からない。けれど、どうして小説を書く手が止まったのか、今は分かる。


 これまで小説ばかり書き続けてきた人生において、美月は晴にとって初めて傍にいてくれる人だ。


 その人との過ごす時間を大切にしたいと、きっと心が訴えているのだろう。


「新作が始まれば、こうして二人でいられる時間が減るかもしれない。二作同時だから、前よりも忙しくなると思う」


 晴は一度書き出したら止まらないから、もしかしたら美月のことを疎かにしてしまう時間が増えてしまうかもしれなかった。


 それが、晴にとっての危惧であり、懸念であり、不安だった。

 吐露してようやく、頭に詰まっていた泥のようなものが取れた気がした。


 それでも、胸の不安は収まらなくて。


「俺にとって小説は生き甲斐だ。でも、今はそれと同じくらい、お前との時間を大切にしたい」


 この離れがたい温もりが、自分のせいで離れてしまうと思うと不安でたまらなかった。


 美月には、ずっと隣にいてほしい。


 その懇願をずっと静かに聞き届けていた美月は――


「ふふ。あははっ」


 なぜか笑った。

 どうして笑うのか、その理由が分からなくて眉根を寄せる。


「何が可笑しいんだよ?」


 そう聞けば、美月は「だって」と微笑みながら、


「そんなことで小説を書くのに思い悩んでたんだなぁ、と思って」

「大事な問題だろ」


 最悪の場合、離婚の危機すらあるのだ。

 晴にとってこれは真剣に向かうべき問題。

 けれど、美月とってそれは何の問題でもなくて。


「貴方はこれまで通り、好きなだけ小説を書いてればいいんですよ」

「――」


 晴の頭を優しく撫でる美月が、穏やかな声音で言う。


「私との時間を大切に想ってくれるのは心底嬉しいです。でも、私はやっぱり小説を楽しそうに書いてる貴方が好きなんです」

「……でも、構う暇がなくなるかもしれないんだぞ?」

「それくらい我慢できますよ」


 意外と辛抱強い女なんですよ、と美月は自慢げに言う。


「そうは思えんがな」

「あはは。最近は貴方の優しさにべったり甘え続けてましてたからね」

「それが減るかもしれないんだぞ?」

「構いませんよ」


 やせ我慢ではないのだろうか、と思惟すれば、そんな胸裏を見透かしたように美月は言った。


「減らせなんかしません。しっかり貴方の体調を管理して、健康で居続けてもらって、お仕事頑張ってもらって――休みの時にはたっくさん甘えさせてもらいますから」

「――ふっ」


 弾む声音。そしてその破顔に――不安が一気に晴れた気がした。

 美月の言葉に、晴は思い出す。

 彼女は、晴に約束してくれた。


 ――美月は、妻として晴を支えてくれると誓ってくれたではないか。


 彼女はそれを、忘れることもなければずっと守り続けてくれていた。

 触れる手の温もり。その優しに包まれながら、晴は美月の言葉に意識を傾ける。


「私のことは気にしないで、好きなだけ小説を書いてください。小説と同じくらい私のことが大切なら、疎かになんてしないでしょう?」


 挑発的に問い掛ける美月。

 そんな小悪魔めいた笑みを浮かべる美月に、晴は思わず苦笑がこぼれてしまう。


「そうだな。小説も、お前のことも比べられないくらい大事だ。だから、絶対に疎かになんてしない」

「当然です。私のことを疎かになんてしたら、即離婚ですよ?」

「代償重いなぁ」

「ふふ。それくらい妻のことを大切に扱え、ということです」


 当然だ。とそう胸中で応える。

 自分を懸命に支えてくれる人に感謝しない訳がない。

 美月は、晴を全身全霊で支えてくれる。だから――


「お前が俺を支えてくれた分。俺もちゃんとお前の想いに応えることを約束する」

「はい。言質取りました。私も、貴方のことをずーっと支え続けますから」


 誓い合って、微笑みを交わす。

 その笑みが隣で咲き続けてくれる限り、晴は真っ直ぐに進めて行ける。


 だから、もう逡巡はない。

 それどころか、書きたい欲がどんどん溢れてきて。


「家に帰ったら早速、構成練り直してみるかな」

「ふふ。本当に貴方は、呆れるくらい執筆バカなんですから」


 いつも通りに戻った晴に、妻はやれやれと微笑を浮かべた――。

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