結婚のプロトコル 2


 全てが、マリー・アントワネットが輿入れた時と同じように行われた。

 ブラスナウでオーストリアからフランス側に引き渡されたのも同じなら、そこで着てきた衣装を全て脱いで、フランス風の装いに着替えたのも同じだった。

 その先の行程も、町々の歓迎も、マリー・アントワネットの時と、全く同じだった。


 これは、ナポレオンの成り上がり根性だけではない。

 結婚の申込みの時、彼は腕木式信号を使い、オーストリア皇帝の不興を買っている。

 そのことを気にしていたのだ。


 ナポレオンは、舅に気に入られたかった。なぜなら、マリー・ルイーゼを妻に迎えることにより、オーストリアのハプスブルク家は、彼の身内となったのだから。

 コルシカ生まれで、一代でここまでのし上がってきたナポレオンにとって、身内は何より大切だった。

 兄弟姉妹、妻の連れ子、そして、妻の実家。

 全てが大切な家族だった。

 典礼プロトコルの遵守は、重要だった。





 国境の町、ブラスナウに着いた。

 ここで、花嫁は、オーストリアから、フランスへ引き渡される。

 オーストリアからついてきた従者たちは帰され、新たに、フランス人の従者たちがつく。

 着てきた服も、フランスの衣装に着替えさせられた。化粧も香水も、フランス製のものに変えられる。


 全ては、マリー・アントワネットの輿入れを踏襲していた。



 最後に、マリー・ルイーゼは、オーストリア側の従者たちと向き合った。

 従者たちは、順に、皇女の手にキスをした。彼らはみんな、泣いていた。

 マリー・ルイーゼの目にも、涙が光った。鼻を赤くし、彼女は、すすり泣いた。

 オーストリア側の欷歔に対して、迎え入れるフランス側は、無表情だった。

 ただ一人、特命大使のベルティエ元帥だけが、もらい泣きを通り越して、大泣きをしていた。



 マリー・ルイーゼが驚いたことに、ブラスナウには、ナポレオンの妹、カロリーヌが来ていた。

 彼女は嬉しそうに、マリー・ルイーゼを抱きしめた。

 着替えや化粧を手伝ってくれたのも、カロリーヌだ。ナポレオンの妹は、嬉々として、兄嫁の世話を焼いた。

 少しだけ、マリー・ルイーゼは、ほっとした。カロリーヌと一緒に着替えを手伝ってくれた女官が、無表情だったのが、気にかかった。





 不手際は、ミュンヘンで起きた。既に国境を越え、ここはフランスの支配地域である。


 マリー・ルイーゼは、一人だけ、オーストリア人の従者をフランスに連れて行くことを許されていた。彼女は、女官長のラザンスキ伯爵夫人を選んだ。母性的な伯爵夫人を、マリー・ルイーゼは、頼り切っていた。


 そのラザンスキ伯爵夫人の元へ、カロリーヌ・ナポリ王妃がやってきた。ナポレオンの妹である。

「やっぱり貴女には帰ってもらわないと」

やや、居丈高にカロリーヌは言った。

 女官長でもあるラザンスキ伯爵夫人の随行については、すでにブラスナワでの引き渡しの時に、フランス側から異議が出ていたのだ。


「ですが、ルイーゼ様は、身近にお世話をするわたくしの随行を許された筈です」

幼いころからマリー・ルイーゼの付き人だったラザンスキ伯爵夫人は、毅然として答えた。自分が帰ってしまったら、マリー・ルイーゼは、異国(というより、いっそ敵国)に、一人きりになってしまう!


「でも、決まりですから」

「そんな決まりはありません!」


 激しく反撃され、カロリーヌは怯んだ。困ったように、傍らの女官に目をやった。

 ブラスナワで、ラザンスキ伯爵夫人はオーストリアに帰るべきだと、執拗に主張した女官だ。

「お帰り下さい」

彼女は言った。フランスの濃い化粧のせいか、表情がまるでない。

「ですが……」

「お忘れですか。ここは、フランス領です。あなたの旅券はない」


 旅券無しで旅することは、許されない。

 ラザンスキ伯爵夫人は唇を噛んだ。





 ウィーンを出てすぐのエンスで、父フランツ帝は、娘の馬車を降りていた。

 ナポレオンが神経質なまでに典礼プロトコルを遵守しているのは、自分への敬意だということは、皇帝にも伝わっていた。

 その姿勢は、よしとしよう。

 だが、今回の全てが、叔母、マリー・アントワネットの婚儀をなぞっている、というのが、気に食わなかった。



 フランツ帝は、フランスへ嫁いだ叔母の顔を知らない。

 だから、見殺しにしたのだと、ヨーロッパのあちこちで囁かれた。


 だがそれは、違う。



 始め、フランスで起きた革命に対し、オーストリアとしては、それほど脅威を感じていなかった。むしろ、他国フランスの内政に干渉したくなかった。


 フランツ帝の父、レオポルド2世がプロイセンと共同で行った「ピルニッツ宣言」は、フランスへの警告と、アルトワ伯(※)への、やんわりとした協力拒否だけのはずだった。

(※ルイ16世の弟。1789年の革命後、すぐに亡命。後のシャルル10世)


 しかし、フランス国内は、そうは受け取らなかった。フランスはこれを、オーストリア・プロイセンの、明確な敵意とみなした。


 「祖国は危機にあり」。

 ジロンド派の非常事態宣言のもと、フランスはオーストリアに対し宣戦布告をした。すぐに政権は、過激なジャコバン派の手に移った。


 それから先は、混乱の極みだった。



 まず、国王ルイ16世が王位を剥奪され、処刑された。

 それから、革命政府へ反旗を翻す内乱が始まった。

 強制的な徴兵に端を発する大規模な農民の蜂起が、フランス西部で起きた。王党派貴族達も、蜂起に加わった。


 一方で、国外へ逃亡したフランス貴族たちは、コンデ公の元、貴族軍を結成した。

 彼らは、財産を没収されていた。その上、帰国すれば、即逮捕、死刑である。絶望的な状況の中で、彼らは、ブルボン家に忠誠を近い、オーストリアなど外国軍とともに、革命政府に戦いを挑んだ。


 ジャコバン派は、独裁を以って反乱を抑えた。逆らう人々を捕らえ、次々と断頭台へ送った。恐怖政治の始まりである。


 マリー・アントワネットが処刑されたのも、この頃だ。


 すでに、レオポルド2世は、その前の年に亡くなっていた。後を襲ったフランツ帝には、為す術もなかった。

 ハプスブルク家の女性の処刑、それもギロチンでの処刑は、フランツには、耐え難いものだった。それは、弟のカールも、ヨーハンも、同じことだった。兄弟たちは肩を寄せ合い、悲しみと屈辱に耐えた。



 打ち続く残虐な処刑に、さしものフランス民衆も食傷したのか。あるいは、革命政府に宗教を否定され、魂の拠り所をなくした不安感からか。アントワネット処刑の翌年、テルミドールのクーデターが起きた。翌日、ロベスピエールら、ジャコバン派の議員たちが、断頭台に送られた。


 フランツ帝は即座に、フランス人捕虜と引き換えに、従姉妹であるマリー・テレーズの身柄の受け容れに応じた。


 唯一生き残ったアントワネットの娘、マリー・テレーズとの再会した時のことは、今でもよく、覚えている。

 長い間タンプル塔に幽閉されていた彼女は、発声障害を起こしていた。それでも、傲然と頭を擡げ、勁い眼差しで、フランツ帝従兄を見つめた。


 後に皇帝は、マリー・テレーズに、弟カールの妻にしようと申し出た。大公妃は、皇妃に次ぐ高い身分と収入が保証される。だが、彼女はこれを断り、父方の従兄弟アングレーム公と結婚する為、オーストリアを出ていってしまった。


 弟カールの心中はわからない。彼はそれからずっと、独身だ。



 クーデターの後、フランスに新しく樹立された総裁政府は、アルプスを越え、イタリアへ軍を進めた。イタリア侵攻は、オーストリアを威嚇するため、また、壊滅状態の国庫を、イタリアからの物資調達で回復させるためだと言われている。いずれにしろ、カルノー総裁の提案した、イタリアと、ドイツ方面からの挟み撃ちは、実現しなかった。それほど、イタリア軍の侵攻は早かった。



 このイタリア遠征により、若き司令官、ナポレオン・ボナパルトの台頭を許してしまうのだ。ブリュメールのクーデターで、彼が、実質、政権を握るのは、3年後のことである。



 全ては、繋がっていた。



 叔母マリー・アントワネットが断頭台の露と消えてから、まだ、17年しか経っていない。

 叔母と同じ道を辿り、今、自分の娘がフランスへ嫁いでいく。

 型破りな、新興フランス皇帝の元へと。



 ……見捨てまい。

 フランツ帝は固く心に誓った。

 ……長女は国の犠牲になった。この先情勢がどう変わろうと、断じて自分は、彼女を見捨てることはすまい。


 どのような過酷な試練に会おうとも、頭を低くして生き延びる。敵が滅びるのをひたすら待つ。

 それもまた、ハプスブルクの生き方なのだ。

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