赤いラッパと魔女
「昔、
知らず、メッテルニヒは、昔語りを始めた。
「フランスから、言葉もわからぬまま、ウィーンへやってきました。彼女は、皇帝……あなたのお祖父様……の庇護の元、この国で、暮らし始めたのです」
「彼女……女性なのですね?」
「ええ。戦う女性でした。いえ、今でも戦っておられます。彼女は、今のフランス王、ルイ・フィリップを憎んでいます。なぜなら
「
ライヒシュタット公の口から、その名が出た。
マリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズの名が。
ライヒシュタット公が首を傾げた。
「今年、7月の革命で、シャルル10世は、フランスを捨て、亡命しました。
メッテルニヒは、直接には、彼の質問に答えなかった。
「従来、フランスの王子は、親の親友を家庭教師に迎えます。けれど、
青年は少し考えた。
「僕と同じですね」
メッテルニヒは笑いだした。
「貴方の受けた教育のほうが、ずっと格上です。しかも貴方は、そうした教育を、高等教育まで、途切れることなく、受け続けておられる」
「感謝しています。慈愛深い
「ほ、感謝!」
メッテルニヒの目が丸くなった。
「感謝。……まあ、いいでしょう」
彼は注意深く、青年の顔色を窺った。
聡明に整った顔には、何ら、批判の色は表れていなかった。
……この青年は、自分に心から感謝しているのではないか。
騙される者は、多かろう。
だが、ライヒシュタット公の受けてきた教育は、恣意的なものだった。彼は、
確かに、彼へ施された教育は、一流だ。だが、決定的に欠けているものがあった。
それは、愛だ。
教わる存在……よるべない子どもへの、無償の愛情。ひたすら彼の為を思い、その将来に捧げる、親身な助言。
ライヒシュタット公は、それらを欠いて育った。彼は、出自の誇りを奪われ、全く別の指針を、厳しく躾けられた。
だが、アンリへの教育には、それがあった。
「
ルイーズとアンリ姉弟の父、ベリー公は、アンリが生まれる前に、暗殺されている。母のマリー・カロリーヌは、奇矯な性格だった。
ルイーズとアンリ姉弟の教育は、彼らの伯母のマリー・テレーズが担った。
マリー・テレーズとアングレーム公の夫妻には、子ができなかった。それは、マリー・テレーズがタンプル塔に幽閉中に盛られた薬物のせいだとも、囁かれている。
だが、彼女は、幸せな子ども時代を覚えていた。
愛情深い父、ルイ16世と、厳しくも優しい母、マリー・アントワネットの膝下にあった頃の、幸せな思い出を。
マリー・テレーズが、幼い姪と甥に与えたものは、本物の愛情だった。彼女は、姪と甥に、真に為になる教育を模索した。
「シャルル10世一家は、今は、イギリスの片田舎に亡命しています。しかし、
メッテルニヒは言葉を切った。
青く澄んだ目を見つめ、続けた。
「その為には、ライヒシュタット公。貴方が、邪魔なのです」
瞳の色が、僅かに黒ずんだ。だが、それだけだった。落ち着き払った声で、微笑みさえ浮かべ、ライヒシュタット公は尋ねた。
「そこになぜ、僕が? フランスの今の王は、ルイ・フィリップでしょう?」
「そうですね。だが、
「これは異なことを。僕は、フランスの王座には、全く興味がありません」
……真っ赤な嘘を。
……なんと涼し気な瞳のままで。
……美しい顔で。このプリンスは!
ライヒシュタット公の本心は、プロケシュ少佐から聞き出している。
……「私の息子は、フランスのプリンスとして生まれたことを、忘れてはならない」
ナポレオンの遺言を、彼は、片時も、忘れてはいない。
「ですが、
彼に、刺客を送り込むほどに。
1827年、夏。バーデンでの夏の不快。今にまで続く、彼の咳と不調の、引き金となった不調。
「思春期特有の病」。
カール大公が、わざわざ、マリー・テレーズは無関係だと、
ブルボン家で、それだけの
それらは全て、一つの方向を指し示していた。
マリー・テレーズの、
「……」
メッテルニヒは、注意深く、相手の顔色を観察した。
期待していた驚愕はなかった。
いかなる驚きも、その表には、表れていない。
まるで、マリー・テレーズの、自分への強い殺意を、とうの昔に、察知していたかのように。
既に、誰かから、その可能性を聞き知っていたかのように。
だが、そんなことは、あるはずがなかった。
メッテルニヒは、舌を巻いた。
「貴方は、素晴らしい役者ですね」
思わずつぶやいた。
「役者?」
「美しく、人を離さない魅力があり、そして、……己を完璧に隠す」
ふっと、微かな吐息が、ふっくらとした赤い唇から漏れた。
「宰相。僕からも、話をしていいですか?」
「何でしょう」
……自分への監視を緩めよと言うつもりか。
……あるいは、プロケシュ少佐を副官に欲しいと?
メッテルニヒは、身構えた。
「僕には、くり返し見る夢が、あるのです」
「夢?」
……何を言い出すかと思えば。
メッテルニヒの緊張が緩んだ。
プリンスは微笑んだ。
「ええ。青白い顔をした、そのくせ、唇だけが真っ赤な、女性の夢です。彼女は、人ではありません。魔女なのです」
「魔女?」
……お伽話か?
プリンスは頷いた。
「彼女は、小さな子どもの僕と、遊んでくれています。赤いラッパや、玩具の兵隊で。でも、僕は、退屈で仕方がありませんでした。だって、その女性は、元気がなくて、ぐったりしていて……。僕は、もう帰ると言いました。すると、彼女は、僕にキスをするのです。そのう、……唇に」
「唇に!」
……清潔そのもののプリンスでも、そんな夢を見るのだな。
……そのように、淫靡な。
僅かに含羞を含みながら、プリンスは続けた。
「魔女は、泣いていました。そして、言うんです。このキスのせいで、僕は、死ぬのだと」
「それは、穏やかではありませんね」
はにかんだように、プリンスは微笑んだ。
「ええ。でも、それは、魔女の意思ではないのです。ただ、命じられたから……彼女の父親に」
「ほう。それで?」
「それだけです」
なんと言っていいかわからなかった。メッテルニヒは、思ったままを口にした。
「それは、つまり、
「そう言われるのが、恥ずかしかったのです。ですから、」
プリンスは、顔を赤らめた。彼は、じっと、メッテルニヒを見つめた。
「ですから、今まで、誰にも話したことはありません。貴方にだけです、宰相」
メッテルニヒは意外に思った。
「なぜ、私にだけ?」
「さあ。自分でもわかりません。ある種の信頼、でしょうか?」
「信頼……」
言葉通りに受け取るつもりはなかった。だが、メッテルニヒは、外交畑の人間だ。社交性だけは、十二分に備えていた。彼は、微笑んだ。
「貴方の家庭教師たちにお話しになったら、きっと、教会にお祈りに連れて行かれたでしょうね」
話は自然、ディートリヒシュタインら、身の回りの人の近況に、流れていった。
ライヒシュタット公は、再び言葉少なになった。
やがて、会見は、お開きになった。
二人は、一緒に、メッテルニヒの部屋を出た。
……青白い顔をした、そのくせ、唇だけが真っ赤な、女性の夢。
……彼女は、僕にキスをするのです。唇に。
……このキスのせいで、僕は、死ぬのだと。
メッテルニヒは、不意に立ち止まった。心臓が、早鐘のように打ち始める。
……「クレメンティン。かわいそうに」
苦しげな女の声が、耳元に甦った。
最初の妻、エレオノーレの声だ。結核で死にかけていた妻の、末期の言葉。
……「あの娘は、死人のような顔色を化粧で隠し、玩具や赤いラッパを用意して、プリンスを出迎えた。退屈する小さな男の子を飽きさせないように全力を尽くした」
……彼女は、小さな子どもの僕と、遊んでくれています。赤いラッパや、玩具の兵隊で。
メッテルニヒの体が硬直した。
……「クレメンティンは、尊敬する父親、大好きな貴方から、言われた通りにしたわ」
……でも、それは、魔女の意思ではないのです。彼女はただ、命じられたから。父親に。
メッテルニヒは、かっと目を見開いた。首が襟に擦れ、煙が出そうな勢いで、階段を見上げる。
上の回廊に、すでに、ライヒシュタット公の姿はなかった。
※
メッテルニヒの妻、エレオノーレの言葉は、5章「地獄で待っている」にございます。
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