フランスには渡さない
その年(1830年)、11月9日。
ヴァーサ公は、バーデン大公女、アマーリエと結婚した。
*
呆れるほどの威勢の良さで、軍靴の足音が近づいてくる。
「ヴァーサ公!」
呼び止められた。
「君か、ライヒシュタット公」
振り返り、グスタフ・ヴァーサは言った。
「今日は何だ? 隊列と要塞については、既に、説明した。住民を避難させるタイミングについても。今日は、何が聞きたい?」
「いえ。軍務の話では、ありません。本日は、極めて個人的なことで……」
「個人的なこと?」
両足の踵を鳴らし、年若い青年は、敬礼した。
「ヴァーサ公! ご結婚、おめでとうございます!」
ヴァーサは、鼻を鳴らした。
「ふん。これで晴れて、君は、私の叔父になったわけだな?」
「姪を、よろしくお願い申し上げます!」
勢いよく、ライヒシュタット公は、頭を下げた。
新妻の母は、ナポレオンの養女だ。
そして、ライヒシュタット公は、ナポレオンの実子。
養女と実子の違いはある。だが、ヴァーサの新妻の母と、彼とは、姉弟である。そして、新妻と彼は、姪と叔父になる。二人は、同じ年齢であるのだけれど。
うっすらと、ヴァーサは笑った。冷めた微笑だった。
「さすがに、皇妃様の、姉上の縁者とあっては、この話、断れなかった。それにしても、ナポレオンに連なる妻を充てがわれるとは……全ては、君の差金か?」
「まさか!」
心底、意外そうだった。
「私に、そのような権限は、ありません。第一、私は、バーデン大公女が、自分の姪だとは、つい先ごろまで、知りませんでした」
「嘘をつけ!」
「嘘ではありません。皇帝も家庭教師も、何も、教えてはくれませんでした」
……それはそうだろう。
ナポレオンの息子が、情報を遮断されて育ったことは、有名だ。
「君は、頭がいいな」
皇帝の名を出されれば、ヴァーサもそれ以上は、突っ込めない。
ライヒシュタット公は、きょとんとした顔をしている。
「私は、そのう……、苦慮しております。敬愛するヴァーサ公を、わが姪に……それまで、顔も知らなかった姪ごときに、奪われて!」
思わず、ヴァーサは、吹き出した。
だが、ヴァーサは、見抜いていた。
これは、演技なのだ。
軍でのライヒシュタット公は、とても厳しい将校だ。軍の規律を何より、重んじる。
そして、その裏には、優しさがあった。
暖かさに裏打ちされた謹厳さにより、若い彼は、兵卒達を、見事に統率していた。
青く澄んだ瞳を、ヴァーサは、まっすぐに見据えた。
「ライヒシュタット公。君に、言っておく。ゾフィー大公妃は、素晴らしい女性だ。芯が強くて、しっかりしている。そのくせ、女性らしい善良さと優しさに満ち溢れている。あんな女性は、この世に、二人といない。私は、……私は、どうしても、彼女を諦めることができないのだよ」
白皙の顔が、美しいまま、凍りついた。
青年将校を置き去りにして、ヴァーサは、歩み去っていった。
*
カウベルの音が、澄んだ響きを立てた。
エオリアは、顔を上げた。その顔が、喜びに輝く。
「殿下! お待ちしてました! シャトーブリアンの御本、入荷しました!」
「うん。連絡、ありがとう。来るのが遅くなった」
少し、顔色が悪いように、エオリアには見受けられた。前に来店した時よりも、痩せたような気がする。だが、店内が暗いせいかもしれない。
フランソワは、本の対価を支払った。財布を隠しに収め、立ち去ろうとしている。
父のシャラメは、留守だった。書店組合の会合とかで、帰りは遅くなる。
エオリアは、もう少しだけ、かつてのローマ王と話をしたかった。
天気の話ではない、何か、もう少し、踏み込んだ……。
……フランスの芸術とか。芝居とか。最新流行のモードとか。
しかし残念なことに、エオリアは、そういった知識に疎かった。そもそも皇族と庶民に、共通する話題など、あろうはずがない。
たったひとつだけ、あった。共通の知人がいる。
「ヴァーラインは、どうしていますか?」
「ヴァーライン?」
「フランス料理の料理長の」
エオリアは、詳しいことは知らされていない。だが、父のシャラメが、フランスのユゴーやエミールの
シャラメから、(なぜかアシュラの知り合いだった)エステルハージ家の子息を通し、ヴァーラインは、ライヒシュタット公付きの料理長となった。
「そういえば、ヴァーラインは、フランス人だったな。彼も、フランス語の本を読むのだな」
つぶやくように、フランソワが口にした。
「いい人を、ありがとう。だが、彼は、お母様にお譲りした。お母様の宮廷の料理人は、フランス料理のセンスがないと、こぼされていたので」
それが、良いことなのか悪いことなのか、エオリアにはわからなかった。
言い終わるなり、彼は、ドアへ向かう。
彼女は、焦った。フランソワは、今にもいなくなってしまいそうだった。
「殿下」
とりあえず、彼女は、フランソワを呼び止めた。
フランソワが振り返る。
……私が呼び止めたんだわ。
思わず見惚れそうになり、彼の表情が不審そうであることに気づいた。
エオリアは慌てた。必死で、言葉の接ぎ穂を探す。
「ら、乱調落丁は、お申し出下さい。お取替え致しますから!」
「うん、ありがとう」
顔も見ずに礼を言い、ドアに向かって、歩いていく。
「殿下!」
悲鳴のような声を、エオリアは上げた。
……とにかく、喋り続けなくては。
「ボ、ボートに乗りませんか?」
「ボート?」
ろくに考えもせず、彼女は続けた。
「近くで、ボートを貸してくれる所があるんです。手漕ぎのボートですけど」
「……いいね」
思いがけず、フランソワがつぶやいた。
「は?」
「今度、軍で、渡河訓練がある。だが僕は、ボートを漕いだことがない。オールの扱い方が、わからないんだ」
「私、漕げます!」
食いつくように、エオリアは叫んだ。
「私、漕げますから! 得意なんです、そういうの!」
ボート漕ぎは、アシュラから教わった。
得意とはほど遠いが、川の真ん中に出て、ちゃぷちゃぷするくらいのことはできる。
この美しいプリンスを乗せて、どこまでも漕いでいけそうな気が、エオリアはした。
「教えてくれないか?」
見ると、プリンスは、顔を赤らめている。エオリアは、胸が、どきっ、とした。
恥ずかしそうに、彼が続ける。
「僕は、そのう……兵士達の前で……」
その時、カウベルが壊れそうな音で鳴り響いた。勢いよく、ドアが開く。
「間に合った。まだいらした」
まさに乱入としかいいようのない足取りで、画家のダッフィンガーが、突進してくる。
「さあ、殿下。私のアトリエへ参りましょう」
「アトリエ? ちょっと、ダッフィンガーさん!」
ほぼ怒声に近い声を、エオリアはあげた。
彼女がいることに、
「殿下に、肖像画のモデルになってもらうんだ」
そう言い置いて、フランソワに向き直った。猫なで声で続ける。
「約束しましたよね、殿下」
「ああ、した」
フランソワが頷いた。
「いつも、すぐにお帰りになってしまうから……。今日こそ、逃しませんよ!」
「だが、僕には、肖像画を贈るような相手は、いないのだが」
「そんなの!
「男でもいいのか?」
「は?」
「肖像画を贈る相手だ」
「誰だっていいんですよ!」
ダッフィンガーは、必死のようだ。
「つまりね。私はもう、記憶を頼りに描くのに、飽き飽きしてるんで。こんなに素晴らしい実物が、ここにいるというのに!」
「自分の記憶を頼りに? どういうことだ?」
「なんでもありません。私はね。貴方をもっとよく見て、細部まで精確に、描き写したいんだ! さあ! アトリエへ参りましょう!」
強引に手首を掴んだ。
……ローマ王の手を?
……絵の具で汚れた、あの手で!
あまりのことに、エオリアは、体が硬直してしまった。動こうとしても、動けない。
フランソワの手を握り、ダッフィンガーが、意気込んでいる。
「お世話になったあの方へ。貴方の肖像画は、素晴らしい贈り物になるでしょう。見るだけで心が癒やされます。だって、貴方がそういう方なんですから。もちろん、手元不如意になれば、大金で売れますよ! そしたら、その方への、恩返しになるじゃありませんか!」
意味不明のことを囁きながら、アトリエへ連れ込もうとしている。
「ちょっと、ダッフィンガーさん! プリンスが嫌がってるじゃないの!」
思わずエオリアは、大声で諌めた。
「嫌がってない」
微かなつぶやきが返した。プリンスの顔が、一層、赤く染まっている。
「そういうことなら、肖像画を、贈りたい人がいるんだ……」
「決まり!」
「さ、参りましょう、殿下」
フランソワは頷いた。
二人は、店の外へ出ていった。
太陽の光を浴びて、金色の髪が、眩しく輝いていた。
「もうっ、」
覚えず、口から罵りの声が出る。
「ダッフィンガー! この、ヘボ絵描き!」
「ナポレオン2世」
耳元で囁きが聞こえ、エオリアは飛び上がった。
傍らに、地味な身なりの、若い女性が立っていた。エオリアより、少し、年上のようだ。地味ではあるが、質の良い毛織物の外套を羽織っている。
「今の、ライヒシュタット公ね」
女性は言った。
エオリアは身構えた。
「あなたは、誰?」
「ユスティナ・パディーニ」
かすかに、ポーランドなまりがあることに、エオリアは気づいた。
「ポーランドの方?」
指摘すると、女性は笑いだした。
「鋭い人は、好き」
「答えなさい。こんなところで、何をしているの?」
「彼の後をつけてきたの」
「……」
エオリアは、ユスティナと名乗った女性を睨みつけた。
「あら、怖い。そんな目をしなくても大丈夫よ。……でもね」
ユスティナは、エオリアの目を見つめてきた。淡い緑色の瞳だ。肌の色も、白く、柔らかな金髪が、卵型の顔を、優しく縁取っている。
彼女が、大変な美人であることに、エオリアは気づいた。
「彼は、フランスには、渡さない」
ユスティナの声は、冷厳だった。
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