ヨハニスブルクの1割還付ワイン
ホーフブルク宮殿に戻り、皇帝を部屋まで送り届けた。
部屋を出ると、皇帝の間の前に、ライヒシュタット公がいた。
軍服でも、皇族としての正装でもなかった。白いシャツにフロックを羽織っただけの、簡素な服装だ。何かのついでに、
……なるほど。これは美しく成長したな。
しばし
ライヒシュタット公は、すぐに、メッテルニヒを認めた。
ウィーン宮廷から、決して出さないこと。
常に監視の目を緩めないこと。
外国から使者や手紙が届いても、一切、知らせない……。
だが、彼は、穏やかな笑みを浮かべただけだった。
優雅に佇み、
……この若者に、私は、手綱をつけた。
……時限装置は、いつ、発動するのだろうか。させるべきなのだろうか。
「私の部屋へ来ませんか」
気がつくと、メッテルニヒは口にしていた。
「あなたと、話がしたい」
「ワインを、いかがです?」
白ワインの入ったボトルを、メッテルニヒは揺すってみせた。
「ヨハニスブルクで作らせたものです」
「一割還付ワインですね」(※)
ライヒシュタット公は微笑んだ。
ヨハニスブルクは、ライン河岸にある。ウィーン会議でオーストリアが獲得した土地である。その功労により、皇帝は、メッテルニヒに、この地を授けた。その際、この地で生産されるワインは、その1割を、毎年、ハプスブルク家に納めることが、義務付けられた。
「せっかくですが、ワインは、遠慮しておきます」
「医者に止められているんでしたか」
メッテルニヒは、目を細めた。
ライヒシュタット公は、微笑んだまま、首を横に振った。
メッテルニヒは、笑い出した。
「ああ、これはこれは。失礼致しました。あなたを、ドイツのワインでもてなそうなどと……。では、ローヌの赤ワインはいかがです?」
返事を待たず、キャビネットに向かう。
「昔、我らが皇帝は、皇妃(亡くなった、2番めの皇妃。マリー・ルイーゼらの母)様の為に、上質なブルゴーニュワインを、常時、ストックさせていました。家庭的な方ですからね、貴方のお祖父様は。しかし、その酒倉庫は、壊滅させられてしまいました」
しゃべりながら、血のように赤いワインをグラスに注ぐ。ゆっくりと振り返った。
「ナポレオンの、二度の強奪のせいで」
ライヒシュタット公は、顔色ひとつ変えなかった。
「今では
朕は国家第一の下僕なり。
こう言ったのは、前世紀、プロイセンのフリードリヒ2世だ。オーストリアでは、
メッテルニヒは、ふたつのグラスを持ち上げた。キャビネットを離れ、ライヒシュタット公に向かって歩いていく。
「そこが、
「太陽王ですね。太陽……全てを遍く照らす存在……」
ライヒシュタット公は、言い澱んだ。
メッテルニヒは、グラスを差し出した。
「トカイ・ワインでなくて申し訳ない」
……「これぞ王のワイン。これぞワインの王」。
トカイ・ワインのことを、フランスの「太陽王」ルイ14世は、そう評したという。
「僕は、
優雅に微笑み、ライヒシュタット公は、赤い液体の満たされたグラスを受け取った。
……元気ではないか。
……咳も殆どしていない。
……声枯れは、少し、あるようだが。しかし、これが、地なのかもしれない。
メッテルニヒが、真っ先に注意を向けたのは、彼の健康状態だった。
結核は、罹患から10年で死ぬと、一般には言われていた。彼の体内に結核を埋め込んだのは、1820年。今年で、ちょうど、10年だ。
メッテルニヒの家族も、その6人が、結核で亡くなっている。期待をかけていた長男ヴィクトールも、昨年、結核で死んだ。罹患から10年というのは、メッテルニヒの経験からも、確実だと思われた。
……それなのになぜ、この青年は、無事でいるのか。
……ナポレオンの息子は、特別なのか。
そんなことは許しはしないと、メッテルニヒは思った。
ナポレオンは、特別などではない。
ゆっくりとワインを飲みながら、メッテルニヒは、ブルボン政権について、語った。
神から授けられた王権の、正当性。
それを打ち倒した革命の、愚かさ。
ライヒシュタット公は、終始、にこやかな笑みを崩さなかった。時折、穏やかに相槌を打つ。
一切、反論はなかった。メッテルニヒの話を、促しさえした。あたかも、彼自身、メッテルニヒと同じ意見であるかのように。
青い目が、熱心に、メッテルニヒを見つめている。白皙の、大変な美青年だ。
……まるで、王権神授を信奉しているようではないか。今のライヒシュタット公は、ブルボン王室を擁護する、王党派のようだ。
ワインの軽い酔いも手伝って、危うくメッテルニヒは、錯覚しそうになった。
……だが、そんな筈はないのだ。
……彼は、革命の親玉の、息子ではないか。
ライヒシュタット公は、父親に傾倒している。つい最近も、プロケシュから、聞いたばかりだ。
※
ヨハニスブルクの1割還付ワイン
現在でも、メッテルニヒ家からハプスブルク家へ、この一割還付は続けられているそうです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます