長く生きることの皮肉
皇帝は、執務室にいた。
メッテルニヒの姿を見ると、目だけで頷いた。
メッテルニヒは、皇帝の前に腰を下ろした。
「今日は、おめでたい縁組の話を持ってまいりました」
ひとしきり、報告が終わると、メッテルニヒは告げた。
「縁組? はて。誰の?」
「恐れ多くも、時期皇帝、フェルディナント大公の、縁組でございます」
「フェルディナントの!」
皇帝の顔に、驚愕が走った。
驚愕は、次第に非難の色に代わっていった。
「だが、フェルディナントは……」
体が弱い、フェルディナント。
宮廷の、誰からもかわいがられている、フェルディナント。
しかし、結婚は、彼の命にかかわるとまで、侍医に診断されてしまったフェルディナント。
「皇帝即位は、長男が鉄則」
力強い声で、メッテルニヒは上奏した。
「陛下の次は、フェルディナント大公が即位されねばなりませぬ」
「確かに、
皇帝は口ごもった。
F・カールは、その品のない言動により、宮廷での評判が、すこぶる悪い。彼自信も、帝位には全く興味がないと、公言していた。
「だが、彼と
「幼帝でございますか?」
「
その、ゾフィー大公妃が問題なのだ。
彼女は、頭が良すぎる。まだ若いので、それほどでもないが、時折、メッテルニヒを批判するようなことを口にする。そして、ナポレオンの息子と仲が良い……。
「いいえ。即位の原則は守られねばなりません。ここは、ぜひ、フェルディナント大公に、次の皇帝になって頂きましょう」
政治能力を持たないフェルディナントが皇帝なら、今上帝亡き後も、メッテルニヒは、自分の権力を保つことができる。
オーストリアの宰相として、ヨーロッパの御者として。メッテルニヒは、どうしても、能力に欠けるフェルディナントに、即位してもらわねばならなかった。
「しかし……」
「即位されるからには、妻帯は必須。妃候補を、探してまいりました。フェルディナント大公を、生涯に亘って支え、このオーストリアの国母となられる方を」
「そのような……フェルディナントの元に嫁いでくれるような姫が、おるのか?」
「サルディニア国王の王女はどうでしょう?」
サルディニアの国王は、熱烈なカトリック支持者だ。皇帝に、否やはないはずだ。
案の定、皇帝は頷いた。
「ああ、
「妹の方は、ルッカ公に嫁がれましたが、姉のマリア・アンナ王女は、未婚でいらっしゃいます。おとなしく、しとやかな姫です」
王女自身のことは、よく知らない。
だが、メッテルニヒは、サルディニアについては、考える所があった。
サルディニアは、ウィーン体制下、オーストリアに膝を折らなかった国だ。
そもそも
今、サルディニアは、「オーストリアの忠臣とならず、フランスには毅然と」を、外交政策にしている。
密かに得た情報によると、イタリアの
だが、皇帝の顔色は優れない。さらに、メッテルニヒは、説得を試みた。
「なにより、双子のご姉妹、お二人の名付け親は、皇帝の叔父君です。ご縁が繋がっていると、思いませんか?」
「だが、侍医は、結婚すれば、
皇帝は、親の顔になっていた。
……あんな息子でも、実の子は、かわいいか。
メッテルニヒは、腹の中で嘲った。
「恐れながら、それこそが、フェルディナント大公の聖なる義務ではないでしょうか。皇族と生まれたからには、ご自分で、ご自分の運命を決することは許されません。フェルディナント大公は、皇帝の長男としてお生まれあそばしました。大公には、高貴で貴い義務がおありです。その為には、命を賭すご覚悟も、必要なのです」
「……」
「先方は、乗り気です。このお話、進めさせていただきますが、よろしいでしょうか」
有無を言わさぬ口調だった。
「構わぬ」
苦渋に満ちた声が答えた。
「クレメンス」
退出しようとしているメッテルニヒを、皇帝が呼び止めた。
「この後、予定はあるか?」
「……墓に参ろうかと」
メッテルニヒの二番目の妻は、前年に、産褥で亡くなっていた。
また、前の妻、エレオノーレのとの間の間に生まれ、外交官になっていた長男も、同じ年に、亡くなっている。長男ヴィクトールは、結核で亡くなった。
更に続けて、浮気相手の貴婦人が産んだ娘も、亡くなったばかりだ。
メッテルニヒは、執務室に小さな礼拝堂を作り、時々、跪いて祈りを捧げていた。
この日は、墓所に詣でるつもりだった。
「儂も、一緒に行こう」
皇帝が、立ち上がった。
急な外出だったので、護衛は、ついてこれなかった。
皇帝と宰相は、人影のいない野道を通り、まだらな林を抜けた。
メッテルニヒ家の墓所は、森の入口にあった。
「男は、家庭が安定していなければ、よい仕事はできない。君の仕事には、重責を伴う。フェルディナントの心配ばかりしてないで、クレメンス、君も、再婚しなさい」
今の皇妃を入れて、生涯で、4人の妻を娶った皇帝が言った。
平凡で、頭の硬い、皇帝だ。時代に合わせた、柔軟な発想ができない。弟のカールやヨーハンに比べ、明らかに、能力は下回っている。
反面、実直で、思いやり深い皇帝だった。
そして、メッテルニヒの
彼が、ナポレオンの息子の、愛情深い祖父であるという巡り合わせは、メッテルニヒの味わう、人生の苦みだった。
だが、それは、メッテルニヒ自身が、積極的に進めた仕事だった。ナポレオンと
……あの時は、こうなるはずではなかった。
……オーストリアは、ナポレオンの息子を介して、フランスに領土を拡げるはずだった。
今、ナポレオンの遺児は、ヨーロッパの平和を脅かす火種になっている。ナポレオン2世の名の下に、民衆が、歯向ってこようとしている。
その先祖が、神から戴いた、王権に。
メッテルニヒが巻き戻した
長く生きることの皮肉を、メッテルニヒは思った。
墓前で頭を垂れる皇帝を、彼は、静かに見守った。
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