プロケシュ少佐の使い方
「ほう。ベルギー王には、興味がないと?」
メッテルニヒは首を傾げた。
「興味がないのとは、違います。彼は、軍で名を上げたいのです。ライヒシュタットの名で、独立したいのです。皇帝の孫として扶持を貰い、安穏とした生活を送るのではなく」
プロケシュ=オースティンが答えた。
「立派なことだな」
メッテルニヒは言った。
揶揄するような口調になってしまった。
こっそりとプロケシュを窺った。プロケシュは、気づいていないようだ。
素知らぬふりで、メッテルニヒは尋ねた。
「だが、彼は、フランスの王座には、執着しているわけだろう?」
「執着とも違います。父親の遺書に書いてあったからです」
「ナポレオンの遺書! 彼はそれを読んだのか!」
遺書の掲載された書籍は、家庭教師たちに命じて、禁書になっていたはずだ。
「ええ。アントマルキの『回想録』に収録されていたものを」
思わず、メッテルニヒは舌打ちした。
アントマルキのことなら、知っていた。ナポレオンを看取った医者だ。
まさか、医者の本に、
「プリンスは、父親に対して、絶対の感情を抱いています。彼自身も、父の遺志に縛られていると、言っていました。今、彼の気持ちは、軍務に向いています。彼は、偉大な父親のように、軍から、身を興そうとしているのです」
もちろん、メッテルニヒは知っていた。
「……実は」
プロケシュの声に、戸惑いが滲んだ。
「なんだ? なんでも相談するといい」
頼もしい上司の顔を作り、メッテルニヒは促した。
プロケシュ=オースティン。
この男が有能なことは、よく知っている。
かつて、中東の外交を、一手に担っていた。プロケシュは、ゲンツの片腕として、オーストリアの対オスマン外交に携わっていた。
プロケシュは、長いこと、ウィーンを離れていた。
それくらいの付き合いを、メッテルニヒは、この少佐と保ってきた。
プロケシュが目を上げた。
「その前に、宰相。正直にお答え下さい。ライヒシュタット公は、貴方の、大きく開いた傷だというのは、本当ですか?」
出処は、わかっていた。
ゲンツだ。
かつてプロケシュの上司だったゲンツは、その鋭い言論で、メッテルニヒの懐刀として活躍した人物だ。今は、メッテルニヒの秘書長官になっている。
ただ、この頃、
ゲンツの右腕であるプロケシュを、是非、持ち駒にしたかった。
だから、ライヒシュタット公とのつきあいを黙認している。
あえて、メッテルニヒは、笑い声をあげた。
「次は、喉に刺さった骨かと、聞くのだろう? 口さがない連中には、言わせておくことだ」
「……」
無言でプロケシュは、次の言葉を待っている。メッテルニヒは続けた。
「だがな、少佐。長年に亘り、私は、ライヒシュタット公をお守りしてきたのだよ。ナポレオンの生存中は、過激なボナパルニストにさらわれないように。ブルボン王朝に対しては、暗殺の危険から。7月革命後は……つい、先日も、
……7月革命で、ブルボン王朝は崩壊した。ライヒシュタット公を、新しいフランス国王に招聘する。
パリからストラスブールまでの、全ての地区司令官の署名入りの書状が持ち込まれたこともあったと、メッテルニヒは語った。
プロケシュの目が輝いた。
「その話は、プリンスには?」
「してない」
……するわけが、ないではないか。
「なぜ!? 心無い外国メディアの報道のせいで、プリンスは、自信をなくされています。フランスに、ご自分を求めている声があると知ったら、さぞ、心強く思われるでしょうに!」
「賭けてもいいが、」
強い口調で、メッテルニヒは言った。
「フランスなどへ行ったら、半年もしないうちに、プリンスは、人々の裏切りと強欲により、決して這い上がれない深淵へ叩き落とされるだろう。民衆の熱狂が、彼を守れると、君は思うか?」
「……思いません」
「プリンスはまだ、若い。未熟な彼を、無責任な熱狂から護るのもまた、私の仕事なのだよ。不用意な情報は、彼を苦しめるだけだ」
「……」
メッテルニヒの言葉を、プロケシュは吟味し、咀嚼しているようだ。
用心深く観察し、メッテルニヒは、再び、口を開いた。
「プロケシュ少佐。君は、プリンスの信用を得たようだな」
プロケシュの顔が輝いた。
「はい。彼は、私に、友情を感じてくれています。初対面でいきなり手を握られ、初めは、随分戸惑ったものですが」
「手を?」
「ええ。深窓の皇族は、人との距離感が掴めないのですね。あの方は、純粋な方です」
首を傾げつつ、メッテルニヒは尋ねた。
「君が、私と会っていることを、プリンスには言ったのかね? このウィーンで、私は、何かと、評判が悪い」
「宰相とお会いしていることは、ライヒシュタット公は、ご存知でした。身の回りで、誰か、注進する者があったのでしょう。ですが、彼は、私の友情を、ほんの少しも、疑いませんでした」
「当たり前だ。私と君との会見に、疚しい所は、少しもないのだから」
すでに、この少佐から、メッテルニヒは、プリンスに関する多くの情報を得ている。
父ナポレオンに深く傾倒していること。
フランス王位か、それがかなわねば、オーストリア軍人として働きたいこと。
ただ、フランスに対しては、攻撃できないこと。
皇族メンバーに対する評価も聞いた。身近な親戚の人々に対する、忌憚のない意見。ヨーハン大公への親愛の情。
こんな赤裸々な感想を、用心深いプリンスは、決して、余人には漏らさないだろう。
プロケシュは、プリンスが、初めて胸襟を開いて接した相手だとわかる。メッテルニヒにとっては、貴重な情報源だ。
素知らぬ顔で、メッテルニヒは、先を促した。
「プロケシュ少佐。さっき、言いかけたことがあるだろう?」
水を向けられ、プロケシュは、すらすらと口にした。
「実は、プリンスから、彼の副官になってくれるよう、打診されました」
「……君は、どうしたいのかね?」
「そんなことは、考えてもみませんでした。けれど、彼の人柄に触れるにつれ、この人になら、ついていってもいいかと……」
「彼に、陥落したわけか」
……やっぱりナポレオンの息子だ。
……人たらしの
「は?」
「いや、なんでもない。軍の人事は、皇帝のお決めになることだ。私には、どうすることもできない。だが、」
メッテルニヒは、にっこりと笑った。
我ながら、引き攣ったような笑みだった。
「私から皇帝に、君たちの希望を話しておこう。皇帝はきっと、考慮して下さるだろう」
「ありがとうございます」
丁寧に、プロケシュは頭を下げた。
……
プロケシュが立ち去ると、憮然として、メッテルニヒは考えた。
彼が、ナポレオンの息子に、近づきたがっていたことは、メッテルニヒには、お見通しだった。
プロケシュは、軍務や外交の任にありながら、何冊もの本を出版している。書かねばいられない人種なのだ。あの、プロケシュという男は。
……だから、利用できると思ったのに。
メッテルニヒは、自分とライヒシュタット公の間には、何の葛藤もないのだと、公言したかった。
この夏、F・カール大公とゾフィー大公妃の間に、男の子が生まれた。無事に育てば、次世代の皇帝になる。そして、ゾフィー大公妃は、ライヒシュタット公と仲がいい。
国民の英雄、カール大公も、しきりと、彼を庇護下に置こうとしている。
また、ヨーハン大公……。アルプスの郵便局長の娘を妻に迎えたことで、彼の人気は高まる一方だ。そのヨーハンも、変に、ライヒシュタット公に、肩入れしている。皇帝の重臣ザウラウを、この国の宰相に差し向けるとは、いい度胸だ。
一方、ウィーン体制にこだわるメッテルニヒの評判は、下がる一方だ。敵も増えた。
……ライヒシュタット公は、
……メッテルニヒ政権の、大きく開いた傷。
こうした露骨な揶揄に、終止符を打つ必要があった。
もちろん、ライヒシュタット公の監視を緩めるつもりはない。彼を、ウィーンから出す気も、さらさらない。
それに加えて、メッテルニヒは、彼の手綱を握っている。
命の手綱を。
……明け方の咳と、枯れた声。
ライヒシュタット公の結核は、確実に、再発している。思い切った休養と、転地療法を取らせねば、命に関わる。
……初期感染。
……赤い黴。
自分の関与を疑わせてはならない。
絶対に。
プロケシュには、その為に、ひと働きしてもらうつもりだった。
ペンの力で。
彼は、ずっとウィーンの外にいた人間だ。何も知らない。まっさらな目で、
諸外国から、彼を保護し続けてきた、慈愛深い宰相の姿を。
だが、副官となると、話は別だった。
プロケシュは、あまりに有能すぎる。
ゲンツも、味方につくだろう。
今の所、皇帝は、プリンスを、プラハへやる気でいる。もちろん、メッテルニヒとしては、全力で阻止するつもりだ。
だが、最近、彼に内緒で、ことを行うことが多くなった皇帝だ。メッテルニヒの言うことになど、耳を貸さないかも知れない。
万が一、そんな遠くへ行かれたら……。
ナポレオンの息子は、何をしでかすかわからない。有能で実行力のある
結核が彼の命を奪う前に、どれだけのことが彼にできるか、それは、未知数だった。その上、プラハの乾いた空気が作用して、結核が治まってしまう可能性もある。
なんとか手を打たねばならぬと、メッテルニヒは考えた。
手遅れになる前に。
……それにしても、手を握りしめたとは。
……そういえば、エステルハージの息子がしきりに誘っても、決して女遊びをしないと聞いた。
あの、ナポレオンの息子が、と、メッテルニヒは意外に思ったものだ。
……ふむ。なにかひとつくらい、彼の希望を叶えてやってもよい。いずれ、彼の大事な「親友」は、取り上げる、その……、
……代償として。
メッテルニヒは、無気味に微笑んだ。
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