この手を振り放すことはできない


 「ベルギーが、独立宣言を表明しましたよ」

プリンスの部屋に駆け込み、プロケシュは叫んだ。

「イギリスのパーマストン卿の努力が実りました。ベルギーは、オランダから独立を果たしました!」


「……」


 フランソワは窓辺のデスクにいた。小さな読書用のテーブルには、開いた本が載せられている。読書をしていたようだ。


 興奮冷めやらぬまま、プロケシュは続けた。

「フランスの7月革命の影響が、ベルギーにまで及んだのです。フランス新ルイ・フィリップ政府も、ベルギーに味方しました」


 プリンスが振り向いた。

「敵に回ったのは、例によって、絶対的な君主国ですね。ロシアやプロイセン、そして、……我が国オーストリアのように」


 プリンスの声には、わずかに憂愁が感じられた。だが、プロケシュは、意に介さなかった。彼は、高揚していた。


「またひとつ、王座が空きました。同じように革命を戦った国として、ベルギーは、フランスに親近感を抱いています。国王には、プリンス、貴方の名もあがっているんですよ!」

「僕の名が!」


 プリンスは、目を丸くした。

 一呼吸おいて、彼は、笑いだした。

 プロケシュは、少し、気を悪くした。


「何を笑っているのですか?」

「だって、少佐、僕は、ベルギーとは、何の関係もないんですよ? 革命には、全く貢献していない。そんな僕に、なぜ?」


「前に、ヨーハン大公が言っていました。あなたも聞いたことがあるでしょう? 革命までは、なんとか、まとまることができます。けれど、自分たちの中から新しい王を出すとなると、人は、分裂してしまうものなのです。加えて、独立したばかりの国は、赤子のようなものだ。近隣諸国のちょっとした干渉で、すぐに潰れかねない。だから、有力な国のプリンスを、王として迎える必要があるのです」


「有力な国……オーストリアは、確かにそうだけど……僕は、王座に上がるつもりは、全くありません。僕は、軍務で、このオーストリアに貢献したいのです。第二のオイゲン公として、ね」


 その名は、何度も、プリンスの口から出ていた。前世紀、オーストリアに帰化したフランスの武将だ。

 きっぱりと、フランソワは言い切った。


「軍務こそ、僕の生きる道です」

「でも、フランスには、お気持ちを残しているのでしょう?」


 7月革命を経て、プリンスの気持ちが、大きくフランスへ傾いたのを、プロケシュは知っている。


 読んでいた本を、プリンスは、ぱたりと閉じた。表紙のタイトルが、プロケシュの目に止まった。

 アントマルキの『回想録』。



 アントマルキは、連合国から送り込まれた、ナポレオンの最後の侍医だ。セント・ヘレナ島で、かつての帝王ナポレオンを看取った。


 彼の『回想録』には、ナポレオンの遺書が収録されている。



「『私の息子は、フランスのプリンスとして生まれたことを、忘れてはならない』」

読み上げ、フランソワはため息を付いた。

「この一文が、僕の全人生を、支配しているのです」


 だから、彼は、決して、フランスに剣を向けることができない……。


 プリンスは続けた。

フランスの新政権ルイ・フィリップ王朝は長く続くと、プロケシュ少佐、あなたはおっしゃいました。ルイ・フィリップには、ブルジョワが味方についているから、これが強みとなる、と。その間に、僕は、……僕は、力をつけねばならない」


 がたりと音がした。

 フランソワが、椅子から立ち上がった。


 「お願いです、少佐」

彼は、プロケシュの手を握りしめた。

「あなたの視野は広い。あなたは、冷静に、理性に則って、ものごとを判断することができる。だから……お願いです。どうかこの僕を、教え導いて下さい。僕の、副官になって下さい」

「副官?」


「もうすぐ、僕は、独立します」

プリンスは声を潜めた。

祖父皇帝が保証してくれました。この秋にも、僕は、ライヒシュタットとして一家を構え、新たな赴任地へ赴きます。身の回りは軍属で固められ、ディートリヒシュタイン先生たちは、ついてくることはできません。その為の人選が、水面下で、すでに始まっているのです。ですが、……」


 プリンスは項垂れた。

 プロケシュは悟った。


「お気に召さないのですね? その者たちが」

「……そんなことを言う資格は、僕には、ありません。でも、せめて……せめて副官には、尊敬できる人を選びたいのです。だって僕は、まだ、あまりに未熟で……このままでは、悪意ある追従や民衆の熱狂に惑わされ、大義を見失ってしまうかもしれない……」


 それは、常日頃から、ディートリヒシュタインが指摘してきたことだった。

 家庭教師に反抗しながらも、フランソワは、受け容れるべきは、きちんと受け容れ、対策を考えていたのだ。


 プリンスの両手に、ぐっと力が籠もった。


「ですから、あなたに! 来たるべき独立の時は、プロケシュ少佐、是非、あなたに、僕と共に、任地へ赴いて頂きたいのです。どうか僕を、教え導いて下さい!」

 その手は熱く、頬は紅潮していた。


 ……凄い告白を聞いた気がする。

 プロケシュは思った。



 もともとは、そんなつもりは、全くなかった。

 マッテチェリ司令官の副官として、グラーツの城に赴いた時には、まさか、そんな……ナポレオンの息子の副官になる、などということは、考えてもみなかった。


 彼はただ、あの有名なナポレオン……自分の著書でも取り上げた……の息子を、間近で見てみたかっただけだ。


 プロケシュは、軍人であり、外交官でもあった。なにより、彼は、ジャーナリストだった。旅行記を何冊もものしている。彼は、記録することが、好きだった。

 プロケシュにとって、ナポレオンの息子は、取材対象であったはずだ。


 だが、ライヒシュタット公は、あまりに繊細だった。優美だった。そして、内気だった。


 その姿を見、はにかんだ若者らしさに触れ、オーストリアとフランスの間に揺れる姿を見るにつれ、プロケシュの心の中で、変化が生まれた。



 自分の手が、熱い手に握りられている。青く潤んだ瞳が、自分の目を覗き込んでいる。


 ……この手を振り放すことは、できない。

 プロケシュは悟った。








※ナポレオンの息子への遺書は、2章「息子へ」にございます。




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