それを僕は献身と呼ぶ



 フランソワの部屋のドアが開いた。

 どかどかと、グスタフ・ナイペルクが入ってきた。

 片目の将軍、マリー・ルイーゼの亡くなった二人目の夫の、息子である。


「殿下。今日こそは、お付き合い頂きますよ! 劇場に行くんです!」

「やあ、グスタフ」


 気のない様子で、フランソワは応じた。

 フランソワと同じ年齢のグスタフは、遊び仲間だった。


「悪いけど、グスタフ。今日はもう、どこにも行きたくないんだ」

「ダメです。ここ数週間、僕は、劇場の看板女優に、花を贈り続けているんです。プリンス、あなたの名前でね! 今日こそは、あなたを楽屋に連れて行かないと、今までの努力が無駄になってしまう」

「いや。今から僕は、手紙を書かなくちゃならないから、」

「手紙? 誰に?」

「プロケシュ少佐」


「今帰ったばかりじゃないですか!」

奮然と、グスタフは叫んだ。

「全く、あの軍人ときたら、昨日も今日も……いったい、どれだけプリンスを独り占めしたら、気が済むのか!」

「プロケシュ少佐は、僕を独り占めなんか、してないよ。僕が、彼を独り占めしているのだ」


「殿下……」

グスタフは目を細めた。

「私は、不愉快です。まったくもって、不愉快だ」

「なんだ、グスタフ。藪から棒に」

「殿下。あなたが首からぶら下げている、それは、何です?」

「首から?」


反射的に、フランソワは、喉元へ手をやった。そこには、いつものとおり、固いカラーが巻きつけられていた。


「カラーだが」

「カラーの下です。肌着の下に、ずっと身につけているものが、あるでしょう!?」

「なぜお前が、僕の肌着の中まで知っているんだ、グスタフ?」

「とぼけないで下さい。殿下の着替え係が教えてくれました。プリンスは、アレクサンダー大王が浮き彫りになったコインを、決して離さず、身につけている、ってね」


 ぱっと、フランソワが顔を赤らめた。

 グスタフは、追及の手を緩めなかった。

「アレクサンダー……東方のコインだ。あの少佐がくれたんでしょ?」


「……」

フランソワは、答えられない。


「あのね。殿下。肌身離さず持ち歩くのは、ね。女から貰った物にすべきです。裏切り者の少佐から貰ったコインではなく」


「裏切り者?」

フランソワが、気色ばんだ。

「そんなことを言うとは、いくらお前でも許さないぞ、グスタフ」


「殿下……」

 グスタフは溜息をついた。

 真顔になった。

「あの男を、信用してはいけません。彼は、定期的に、メッテルニヒ宰相に会っています」

「それは、プロケシュ少佐が有能だからだ。彼は、中東外交における、我が国の、かなめなんだよ」



 事実だった。

 プロケシュ=オースティンは、かつて、レバントの海軍に所属していた。その後、在コンスタンティノープル・オーストリア大使となり、ゲンツの外交を支えた。

 大使は一人しかいなかったから、彼は、オスマン・トルコとの交渉を、一手に担っていたことになる。


 これが、ウィーンのメッテルニヒの目を引いた。

 秘書官長となったゲンツを通して、プロケシュは、宰相メッテルニヒの知己を得た。



「ああ、殿下。貴方は、人を疑うには、あまりにも、純粋すぎるんだ……」

 グスタフは嘆いた。

 フランソワの顔に、傷ついた色が浮かんだ。

「お前まで、僕が、世間知らずで、騙されやすいと言うのか?」

「違います!」

思わず、グスタフは、どんと、足を踏み鳴らした。


 むっとしたように、フランソワが言い返す。

「たった今、そう言ったぞ」

「違うったら、違う!」

 どん、どん、と、床に足を叩きつける。


 フランソワも、負けてはいなかった。

「確かに、僕は、世の中を知らない。それは、ディートリヒシュタイン先生が、ずっと前から指摘してきたことだ。その弱点を、プロケシュ少佐は、克服させてくれるんだよ! 彼は、僕を、世界に向けて、教え導いてくれるんだ!」


「ああ、殿下! 殿下が僕のことを、いまひとつ、頼もしく思っていらっしゃらないことは、よくわかっています。確かに僕は、軽はずみだし、ものごとを、しっかり考え通すことができない。父のように、有能ではありません」


グスタフは、一歩前に踏み出した。逃げようとする何かを捕まえるように、両手を前に差し出した。


「ですが、あなたに、心からの忠誠を捧げています。どうか、僕の言うことに、耳を傾けて下さい」

「お前の言うこと?」

「あの男に、御自分をさらけ出すのは、お止め下さい。お願いですから、あの男との付き合いには、慎重になって下さい」 


 グスタフに詰め寄られ、フランソワは後退った。

「どうして、そんな意地悪を言う? プロケシュ少佐は、僕に、真の友情を捧げてくれているんだ。もちろん、僕もだ。僕と彼との間には、価値のない疑いの入る余地など、これっぽっちもないんだよ」

「殿下……」


 グスタフは、顔を歪めた。彼は、今にも、泣き出しそうだった。




 「あれえ。取り込み中だったか?」

 間延びした声が聞こえた。

 モーリツ・エステルハージ……フランソワの、もう一人の遊び仲間……が、入ってきた。


「殿下。遊びに来ましたよ。というか、貴方を迎えに来ました。一緒に、劇場に出掛けましょう」

「あなたまで、モーリツ!」

フランソワが叫んだ。

「……」

となりで、グスタフが無言で、モーリツを睨んでいる。


 面白そうに、モーリツは笑った。

「ほう。すると、グスタフ、君も、彼女に目をつけたか?」

 きっと、グスタフは、眼を怒らせた。

「僕が先だ。僕が先に、ブルク劇場のテレーズ・ペシェに目をつけた」


「目をつけたも何も……彼女は今、ウィーンで一番、ホットな女だからね!」

「うん。リスのように愛らしい女優だ」


「彼女のオフェーリアは、絶品だよ。全く、いくら芝居でも、どうして、あの美しい女に、尼寺へ行け、なんて、言えるかなあ」

「同感だ。きっとハムレットは、誰かさんのような朴念仁だったに違いない」


 揃って、フランソワを見た。


 「ああっ、もうっ!」

フランソワは、髪を掻きむしった。

「ふたりとも、どうしてそう、女の話ばかりするんだ? 僕の前で!」


「殿下が、少しも、女遊びをなさらないからですよ。決まってるでしょ?」

全く悪びれず、モーリツが答えた。

「あ? もしかして、首の腫れ物を、気にしてらっしゃいます? 女と二人きりになったら、そりゃ、服を脱ぎますもんね!」


「! ……、……」


「でも、平気平気。暗くしてたら、見えやしませんって。そんなの気づかせないほど情熱的に、女を、こう、ぎゅっと抱きしめてやれば……」

両手でフランソワを抱きしめる真似をした。


「気になんか、してない!」

飛び退きざま、首に手をやり、フランソワが叫んだ。

「叔母上と叔父上にも、同じものがあるんだ。マルファッティがそう言った! これは、父上の子である証だ!」

「ほうほう。自信を持てて、何より。新任のヤブ医者マルファッティも、少しは、いい仕事をしますね」



 かつてマルファッティは、ナポレオンの妹エリザ・バチョッキや、弟ルイ・ボナパルトを、診察したことがあった。


 エリザはかつて、かつてトスカーナ(イタリア)の女王だった。ルイは、しばしば、エリザの元を訪れていた。

 マルファッティも、イタリア出身だ。その縁で、二人の診察をしたのだった。


 マルファッティは、プリンスの首筋にある腫れ物と同じものが、彼の叔母であるエリザ・バチョッキと、叔父ルイにもあったと告げた。

 そして、首の腫れ物は、前任の医師シュタウデンハイムの言うような瘰癧ではなく、父方の遺伝であろうと結論づけたのだ。



 さわやかな声でモーリツが誘う。

「自信が持てたところで、さあ、行きましょう! 暖かな女性の懐へ!」


 髪を逆立たせたまま、フランソワは、モーリツを睨み据えた。


「ダメだ。お祖父様皇帝が、結婚するまで純潔を保たなければならないとおっしゃったのだ」

「はいはい。その話は、もう、何度も聞いてます。要は、子どもを作らなければいいんですよ。国の財産を、私生児に渡すことは、できませんからね」


「違う。欲望に負けることは、罪悪だからだ! 道を踏み外した大公達の、哀れな末路を考えると……」

「だから、うまくやればいいだけの話ですって! そこは、僕たちがうまく、ご指導致します。それなのに殿下は、この頃、ちっとも、僕らと遊んで下さらない」


ちらりとグスタフに目をやった。

「それで、グスタフも、ダダをこねてるんです」


「ダダなんかこねてない!」

 グスタフが割り込んだ。

「僕はもっと大事な話を殿下としていたんだ。緊急で重大な……」


 言いかけたのを、フランソワが押しのけた。

「よし、わかった。今日は、君らに付き合おう」

ソファーに投げ出してあったフロックを羽織った。

「どこへでも連れていくがいいさ」


「やった!」

モーリツが踊り上がった。

「殿下が来ると、女の子たちの、食いつきが、違うんです」

「ふん」

 フランソワは、さっさと部屋から出ていってしまった。



 「おい」

後に続こうとするモーリツの前に、グスタフが立ちはだかった。

「今は、女どころじゃないんだ」

「ああ? だって、君も、殿下を誘いに来たんだろ? テレーズ・ペシェの話で、あんなに盛り上がっていたじゃないか」


「そりゃそうだけど……。モーリツ、あなたも知っているだろう? 殿下は、毎日のように、プロケシュと会っている。あの少佐に、ご自分の思いを、ぶちまけていらっしゃるんだ」

「それがなにか?」

「わからないのか!? このままでは、危険だ」

「危険?」

「プロケシュは、メッテルニヒの命令で、殿下の真意を探っているに違いない!」


「ふうん」

モーリツは言った。

「ふうん」


 グスタフは拳を握りしめ、歯を食いしばった。

「プロケシュは危険だと、なんとか、殿下にわからせなくちゃならないんだ!」


「君は馬鹿だな」

 モーリツは、鼻で笑った。

「ダメと言って、聞くような殿下じゃない。彼とは、長い付き合いなんだろ? それくらい、わかってるだろうに。恋と同じだよ。いや、恋よりもまだ、タチが悪い。何しろ殿下は、ずっと長いこと、友情に飢えてらしたからな」


「友情に飢えていた? それじゃ、俺らは、何だったんだ?」

「単なる遊び仲間さ」

「あなたはそうかもしれないけど……」

グスタフは、まだ、何かを言おうとした。


「いいか、グスタフ」

 にわかに、モーリツの瞳が、翳った。

「友情は、双方向とは限らない。それを僕は、献身と呼ぼう」


 グスタフは、あっけにとられたようだ。ぽかんと口を開けた。

 その彼に向かって、モーリツは、にやりと笑った。

「ペシェの件は、全面的に、君に譲る。頑張ってくれたまえ。それに、殿下のおかげで、僕らも、女の子のおこぼれに預かれるんだ。悪い話じゃなかろう?」


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