家庭教師の願い



 フランス7月革命の報に接し、フランソワ以上に興奮したのは、家庭教師のディートリヒシュタインだった。

 心ひそかに、彼は、教え子フランソワを、フランス王位に就けたいと願っていた。

 ブルボン王朝が倒れ、今、その機会が巡ってきたのではないか。


 ……プリンスの教育は、もはや完璧だ。

 尽きることのない愚痴の陰で、教師はそう認定していた。


 彼が、フランソワを叱りつけるのは、そうしなければならないからだ。

 若者の増長を抑え、謙虚なプリンスでいてもらう為。


 ディートリヒシュタインとて、フランソワを褒めてやりたかった。フランソワは、彼の誇りだった。

 辛い役回りだった。

 でも、誰かがそれをやらねばならぬのだ。

 プリンスの為に。


 ディートリヒシュタインは、芯から、教え子を愛していた。

 ……プリンスは、フランス王にふさわしい。


 3日間の混乱の後、フランスには、ルイ・フィリップが即位してしまった。

 だが、そのブルジョワ政権は、未だ脆弱で、フランスは混乱しているという。

 祖父の皇帝からは、何の指示もない。もちろん、宰相メッテルニヒからも。


 ……ぐずぐずしていたら、機会を逃すのではないか。

 ディートリヒシュタインは、焦りに駆られた。

 悩み、思いあぐね、彼は、自分の兄、フランツ・ヨーゼフ・ディートリヒシュタイン侯に相談した。


 兄の侯爵は、その前の年、フランスに滞在していた。そして、モンソロン(※ナポレオンにセント・ヘレナまで従った。遺言執行人でもある)にも会っている。




 すぐに、兄は、フランソワの元へやってきた。

 だが、彼の意見は、否定的なものだった。


「フランスの民が求めているのは、自由と平等です。彼らはそれを、ナポレオン2世が与えてくれると思うでしょうか? しかも、そのナポレオン2世は、外国の宮廷で育っているんですよ?」

「……」

フランソワは、一言もなかった。


 さらに、ディートリヒシュタインの兄は続けた。

「今、フランスのあちこちで、ナポレオンの名が囁かれています。けれどそれは、ナポレオンの軍事的才能に対する回顧と称賛に過ぎません」

「軍……」

「そうです。軍需はフランスの経済を潤し、その勝利は、人々を高揚感に導きましたから。しかし……」


「わかってます。それは、一時的な勝利でした」

フランソワは項垂れた。


「スペイン戦争の泥沼化、そしてロシア戦役が、フランスを、没落へ追いやったのだ」

 弟のディートリヒシュタイン家庭教師が口を出す。


 兄が頷いた。

「正直に申しますと、ナポレオン2世が、今、フランスへ行けば、民衆の歓呼と熱狂に包まれるでしょう。けれど、実のところ、帝政の再建を望むものは、誰一人として、かの国にはいないのです。ブルボン政権下までは、あなたは、ナポレオン2世でした。しかし、新たな革命7月革命が終結した今、あなたは、ただ、ライヒシュタット公なのです」


 弟のディートリヒシュタイン家庭教師が何か口を出そうとした。

 兄は、それを制した。


 ……プリンスを、フランス王に。

 弟は、長年の自分の思いを口にすることができず、俯いてしまった。



 「プロケシュ少佐は、」

やがてプリンスが口を開いた。

「ブルジョワがついているから、今の政権ルイ・フィリップ政権は続くと予想しました。僕は、フランスの安定を、喜ばしく思います」


「プリンス……」

弟の家庭教師は、殆ど、泣きそうだった。

「あなたは、私たち家庭教師の厳しい教育に耐えて来られたというのに……」


「先生……」

 一瞬、プリンスの目の青さが、深みを増した。

 しかしすぐに、澄んだ輝きが取って代わった。


 師に向かい、プリンスは、微笑んだ。

 さっぱりとした笑顔だった。

「だから、先生。僕は、第二のオイゲン公として、ひたすら軍務に励みます」







 …… 私の息子は、フランスのプリンスとして生まれたことを、忘れてはならない。

 ナポレオンは、息子が自分の跡を継ぐことを願っていた。

 そして、父の遺言は、フランソワにとって、絶対だった。


 公平に見て、家庭教師の兄F・J・ディートリヒシュタイン侯爵は、間違いなく、ウィーンの最高の知性の一人だった。


 その彼の判断は、最終的に、プリンスの野心に蓋をした。


 ……フランス王に。

 それは、常にプリンスの身近にいた、家庭教師の願いでもあったのだが。

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