4 孤独な魂

地獄で待っている



 「これで気持ちが落ち着くわ」

もう何度目になるだろうか。

 メッテルニヒ夫人エレオノーレは言った。




 エレオノーレは、パリに住んでいた。夫は、ウィーンに。


 1820年、16歳だった娘、クレメンティンに先立たれてから、エレオノーレは、下の小さな娘たちと一緒に、パリに移り住んだ。

 夫、クレメンス・フォン・メッテルニヒがそうしろと命じたからだ。


 あの年は、悲惨な年だった。クレメンティンが亡くなってすぐ、エステルハージ家に嫁いでいた上の娘、レオポルディーネが、バーデンで療養中に亡くなった。

 ふたりとも、結核だった。


 「白いペスト」とも言われる結核は、不治の病だった。庶民だけではなく、ウィーン宮廷でも、この病で亡くなる者が多かった。

 それでメッテルニヒは、残った家族を、パリに移したのだ。


 だが、オーストリアの宰相でもある彼は、ウィーンを離れるわけにはいかない。

 こうして、一家は、ウィーンとパリに別れて住むことになった。


 しかし、結核は、パリでも猖獗しょうけつを極めていた。

 それともすでに、ウィーンで、この病に侵されていたのだろうか。


 去年(1824年)、エレオノーレは突然喀血した。そして年が明け、春も近づいた今、死の床に横たわっている。


 瀕死の状態であるという手紙は、何度もウィーンにいっていた。それなのに、夫は、なかなか姿を見せない。

 正直、もう、間に合わないと、誰もが思っていた。

 夫クレメンスが、妻の元を訪れたのは、彼女の死の、5日前だった。




 「間に合ったのね」

うっすらと彼女は笑った。

「これで気持ちが落ち着くわ」


「何を言うのだ。お前はまだ、死んではいけない。残される娘たちのことを考えろ」

「もういいのよ、あの子達のことは。私は、先に死んだ子どもたちのところへ行くわ」


 二人の間には、8人の子どもが生まれた。そのうちの半分が、この時点で既に、亡くなっている。


「エレオノーレ、弱気になってはいけない。気をしっかりもつんだ」

「19歳で初めて貴方と会ってから、私は、いつも貴方に尽くしてきました。国際政治の場でも、陰になり日向になり、貴方を支え……、あの頃は、楽しかったわね……」



 エレオノーレは、女帝マリア・テレジアの宰相だった、カウニッツの孫娘である。

 クレメンス・フォン・メッテルニヒは、ライン河畔の小さな町、コブレンツの貴族の息子である。彼が、ここまで出世できたのは、妻の内助によるところが大きい。


 元宰相一族という、彼女の属する家柄もさることながら、あたりの柔らかい、優しい物腰は、たやすく、人々の信頼を得ることができた。



 ふふふ、と、エレオノーレは笑った。

「本当に楽しかったわ。だから、許してあげる。バグラチオン公爵夫人と、彼女が産んだ……貴方との間に……小さいお嬢さんのことも」

また、ふっ、と笑った。

「それから、痩せて背が高い、サガン侯爵夫人。ナポレオンの妹……あなた、彼女の夫と決闘騒ぎまで起こして……。ああそうだ。イタリアの歌手とも、噂があったわね」


「カタラーニと会う時は、いつも夫が一緒だった」


「そう」

気のない口調で、エレオノーレは答えた。思い出したように続ける。

「ロシアの英国大使夫人との情事もあったわね」

「……」

「いいのよ、そんな顔をしなくても。だって、国際会議で、貴方の隣りにいたのは、いつもこの私だったから。私が、メッテルニヒ夫人だったの」


 エレオノーレは口をつぐんだ。

 ぜいぜいという胸の喘鳴だけが、静まりかえった部屋に響き渡る。眉間に皺を寄せて、彼女は苦しそうだ。重さに耐えかねたように、瞼を閉じた。


 ……眠ってしまったのだろうか。

 メッテルニヒが部屋を出ようとした時、その目が、ぱかっと開いた。


 「一番楽しかったのは、貴方が外相になったばかりの頃かしら。あの頃、私は、パリにいて……」

 今までの沈黙がなかったかのように、再び過去を振り返る。



 メッテルニヒがオーストリアの外相になったのは、1809年。ヴァグラムでの敗戦の直後である。カール大公の善戦も虚しく、オーストリアはフランスに、決定的な敗北を喫した。

 ナポレオンにウィーンを占拠されたのは、二度目だった。講和条約で、オーストリアは、領土の多くを失った。


 責任をとる形で、当時の外相は辞任した。

 後を襲ったのが、メッテルニヒである。オーストリア皇帝の、強力な支持を得てのことである。


 戦いに勝ったナポレオンは、跡継ぎを欲しがっていた。皇后ジョセフィーヌと離婚し、オーストリアの皇女を妻にと、打診してきた。



 青白い顔に、エレオノーレが微笑みを浮かべた。

「私、フランスの高官のパーティーに招かれたの。あなたはウィーンにいらして、一人で参加するのはいやだったけど、ぜひにと乞われて」



 パーティーの途中で、仮面をつけた男が、エレオノーレの前に現れた。彼は彼女の腕を取り、奥の部屋へ案内した。



「すぐにわかったわ。これは、ナポレオンだって」



 とりとめもない話を少しした後、仮面の男は言った。

 ……貴女の国の皇女様は、フランス皇帝が結婚を申し込んだら、お受け下さるだろうか。



「自信がなかったのね。戦勝国の皇帝なのに。おかしな人だわ」



 そんな質問には答えられないと、エレオノーレはつっぱねた。仮面の男は、さらに質問を重ねた。

 ……もし貴女が、オーストリア皇女だったら? ナポレオンの求婚をお受けになりますか?


 もちろん断る、と、エレオノーレは即答した。


 ……意地悪な方ですね。

 そう言って、仮面の男は笑った。



「ねえ、あなた。私、ナポレオンをふったのよ?」



 ナポレオンとの結婚に、マリー・ルイーゼは、激しい拒絶反応を起こした。父の皇帝も、なんとか回避したがった。皇妃マリア・ルドヴィカに至っては、人殺し、成り上がり者、簒奪者、などと、口を極めて、罵った。


 しぶる皇帝をなだめ、泣き崩れる皇女に因果を含め、この結婚を成就させたのは、他ならぬ外相、メッテルニヒだった。



「ナポレオンとマリー・ルイーゼ様の結婚は、あなたが取り持ったのではなくて? あなたが、皇女様を、ナポレオンに『売った』のだわ」

「国のためだった。戦争に負け、どん底のオーストリアを救うには、それしかなかった」


「覚えてる? パリでの婚礼晩餐会で、あなたは、『ローマ王に乾杯!』って、呼びかけたのよ。まだ生まれてもいない、形さえなかった赤ちゃんに、あなたは祝杯をあげたの……」



 「ローマ王」というのは、神聖ローマ帝国の、次の皇帝の呼称である。

 神聖ローマ帝国最後の王は、ナポレオンの岳父(妻の父)、フランツ2世だ。


 ナポレオンへの敗北を請け、フランツ2世は、自らの手で、神聖ローマ帝国を解体してしまった。今は、「世襲によるオーストリア皇帝」を名乗っている。


 ナポレオンとマリー・ルイーゼとの間の子どもは、彼の孫に当たる。つまり、失われた神聖ローマ帝国皇帝の、血を引くことになる。


 メッテルニヒは、ナポレオンの息子こそ、神聖ローマ帝国、失われた巨大帝国の栄光を引き継ぐにふさわしいと謳ったのである。

 各国王や大使らが臨席する、結婚披露の晩餐会で。



 乾いた咳が、こんこんと、溢れ出た。 メッテルニヒは、妻の痩せた胸の上に、喉元まで布団を引き上げてやった。

「たくさん話して、疲れたろう。少し、休むといい」


 仰向けのまま、エレオノーレは、両手を目の上に置いた。夫の声が聞こえなかったように、話し続ける。


「それなのにあなたは、ローマ王にむごいことをなさったわ。小さな、あの坊やに」

「何を言い出すのだ」

「あんなことは、するべきじゃなかった。いいえ、あなたはご自分の手を汚してはいない。実際に罪を引き受けたのは、クレメンティン……5年前に死んだ、私達の娘だったのよ。クレメンティン……かわいそうな私の、大事な愛しい……、」


 激しい咳が、エレオノーレを襲った。

 のたうちまわる妻をどうしていいかわからず、メッテルニヒは、後退あとじさった。

 ようやく咳が治まると、エレオノーレは、かすれた声で囁いた。


「ああ、あのは、神の御国に招かれたかしら。罪を許され、天国へ行けたのかしら……」


「我々の娘は、天国へ行ったよ」

 メッテルニヒは、腰を屈めた。病床の夫人の耳に口を寄せ、囁く。

「だって結核は、人にうつすことなんか、できないだろう? それを考えれば、お前の心は安らぐはずだ」



 当時、結核が、感染するという認識は、まだなかった。結核は、悪性の遺伝素質に基づく、不治の病だと思われていた。

 フランスのヴィユマンが、人為的に結核菌をウサギに感染させ、この病が、感染性のものであることを証明したのは、1865年、この時点から、40年ほど後のことである。



 エレオノーレの目が、かっと見開いた。

「それならあなた。今、私に、キスできる?」

 言い終わらないうちに、口元から大量の血が溢れ出た。

 口の端から、たらたらと流れ落ちる鮮血……。


 メッテルニヒはとびすさり、そのまま後退った。

 ごふっ、ごふっと、エレオノーレが咳をする。生臭い匂いが、部屋中に広がっていく。

 口から血を溢れさせ、エレオノーレは笑った。

「いいえ。『白い疫病』は、うつる病です。あなたはそれを、ご存知なのだわ。人から人にうつることを承知で、プリンスをこの家に招き……」


「黙りなさい!」

ぴしりとメッテルニヒは言った。


「……クレメンティン。かわいそうに。あのは、ひどい熱と咳で、とても人に会える状態じゃなかったのに、」

「黙るんだ!」

「……それなのにクレメンティンは、尊敬する父親、大好きな貴方から、言われた通りにしたわ。きれいな服に着替え、髪もきちんと結い上げて。死人のような顔色は化粧で隠し、玩具や赤いラッパを用意して、プリンスを出迎えた。退屈する小さな男の子を飽きさせないように全力を尽くした。何時間も、同じ部屋で過ごした」


「妻は、死の床にあり、混乱している」

 メッテルニヒは、辺りを見回した。

 幸い、付き人らは気を利かせ、夫婦を二人きりすべく、退出していた。


 エレオノーレはつぶやき続けている。

「……かわいそうなクレメンティン。あの娘には、自分のしたことが、わかっていたのよ。ちゃんと、わかっていたの。結核がうつらないなんて、大嘘だわ。あの娘は、罪の意識に怯え、それを懺悔することすら許されず、苦しみながら死んでいったのよ」


「もうよせ! 黙れ!」


「その上、その罪を隠そうと、貴方は、あのお医者様……フランク医師せんせいと、おかわいそうな家庭教師のコリン先生まで……」


「……肺をやられているからな。十分に呼吸ができなくて、混乱しているのだ」

自分に言い聞かせるように、メッテルニヒはつぶやいた。


 エレオノーレの声は、悲痛だった。

「私が、フランク医師に、お会いしたばっかりに! プリンスのお熱は、ただの風邪じゃないってお教えしたばっかりに……」


 結核に感染しても、それを肺に抑え込むことができれば、普通の生活を送ることができる。

 ただし、体に負担をかけず、無理をしないことが肝要だ。


 感染したのが子どもである場合、周囲の注意と、手厚い管理ケアが必要となってくる。

 母親が遠くにいるプリンスの場合、その役を果たせるのは、主治医しかいなかった。




 ……メッテルニヒ夫人。あなたは、メッテルニヒ侯の、最良のパートナーであるはずだ。家庭でも、そして、政治の上でも。そのあなたが、プリンスを……ナポレオンの息子を、謀略から守ろうとするなんて。ご主人を裏切るような真似を、なぜ、あなたは、なさるのですか?


 4年前。

 蒼白な顔をして尋ねてきたエレオノーレに、フランク医師は問うた。

 帰りかけていた彼女は、足を止めた。


 ……私も、母親です。

 背中を見せたまま、答えた。

 ……子どもが悲惨な目に遭うのは、耐えられません。たとえ、大陸を戦争の渦に叩き込んだ、憎い男の子であっても。それだけが、唯一、あの人と、意見が違うところです。


 家では、彼女の娘、クレメンティンが、瀕死の床で、母の帰りを待っていた……。




 「お気の毒なコリン先生は、何も知らなかったわ。あの方はただ、プリンス教え子を思う一心で……」




 あの家庭教師が、何も知らなかった訳がない、と、クレメンス夫メッテルニヒは思った。


 だってコリンは、町医者のところに、炭を持ち込んだ。

 プリンスの部屋の、暖炉の中から持ち出した、燃え残りを。


 コリンの行動は、まったくもって、見当外れだった。

 彼は、結核が感染するとは、知らなかった。だが、プリンスの咳が、と気がついてしまった……。


 数日間病んだ後、彼が亡くなったのは、この直後のことだ。




 かすれた声で、エレオノーレはささやいた。

 「フランク医師せんせいには、毒を使ったのよね。幸い、彼は高齢だったから、誰も疑う人はいなかった。……コリン先生にも、同じ毒をつかったのかしら」


「ヨーロッパを守るためだ! この手で呼び戻した、秩序と平和を!」

耐えきれなくなって、メッテルニヒは叫んだ。


「ナポレオンの息子は、これからどうなるかわからない。あれは、恐ろしい存在だ。父親を上回る能力と、人を引きつける魅力に満ち溢れている。先のことはわからない。閉じ込めておいても、成長した彼が何を考え、どこへ飛んでいってしまうかなんて、誰にもわかりはしないのだ。もつけずに、放置することなんか、できるわけがない! そのの端を、私は、しっかり握っていなければならない。彼の首の周りに巻きつけた、の端を!」


「綱?」

エレオノーレは繰り返した。ぼんやりとした声だった。


「あれは、丈夫な子だ。母親と同じように、病を体の奥底に眠らせ、生き続けることができる。いや、母親よりずっと頑健な体、そして何より、精神力こころに恵まれている」



 フランツの母、マリー・ルイーゼも、この病を隠し持っていた。ナポレオンの旗色が悪くなり、同盟軍がパリを陥落させた頃、彼女は、何度か喀血を繰り返していた。

 幼いローマ王を連れて、フランスのあちこちを逃げ回っていた折のことだ。


 故国オーストリアに帰り、まずは肺の治療をと、彼女は、湯治に出かけた。そこで初めて、ナイペルク将軍に出会った。


 マリー・ルイーゼが、結核であったことは、確かである。だが彼女は、これを発病させることなく、相応の年齢まで永らえる。



「だが、それでは遅いのだよ。あの子が、大人になり、やりたいことを全てやった後で発病したって……、意味がない。まったくもって、無意味だ」


「……」


「だから、私は、をつけた。あの子が、もし、父親と同じ道を進もうとしたら、……私はこの手に握ったを、ぐいと曳くまでだ」

「……」


「エレオノーレ?」

「……」


 答えはなかった。

「眠ってしまったのか、エレオノーレ」


 濁ってけむる目を、エレオノーレは開いた。鈍く光る瞳には、夫の姿が揺れていた。

「地獄で待っているわ、クレメンス」

静かに言って、目を閉じた。








※本文中にある通り、当時は、結核は伝染る病という認識は、特に中・北ヨーロッパでは、ありませんでした。効果的な治療法もなく、窓を開けて、新鮮な外気を取り込む、転地療法をする、などが、推奨されていました。


この病に罹ったからといって、確実に発症し、死に至るというわけではありません。無理をしなければ、周囲の人に移すこともなく、普通に暮らすこともできます。


「結核」という言葉はまだなく、資料では、“phthisis”(ろう)、 “scrofula”(瘰癧るいれき)などという言葉が見られました。


専門的すぎますので、「結核」で統一することにします。


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