優しい子 1



※残酷な場面があります




 「おう、お帰り、アシュラ」


 ウィーン北東、ドナウ川北側の町。

 鋤をつけた牛に畑を耕させていた農夫は、足早に歩く少年に声をかけた。


「ただいま、ヘルムートおじさん」

「お父さんのとこへ行くのかい?」

「そう。暖かくなってきたからね。窓辺に花でも植えてやろうかと思って」

「彼も幸せだね。アシュラみたいな優しい子がいて」


 答えず、アシュラはにっこり笑った。


「引き止めたりして、悪かった。早く行っておやり」

「うん。またね、おじさん」

「おう」


 小走りに、アシュラは、埃っぽい道を走った。





 アシュラの父、ドミニク・シャイトは、古くから続く地主の末裔だった。

 彼の妻、ヘレナ・シャイトは、 先祖のどこかで、東洋の血を取り入れた美女だった。


 ぱっとしない田舎地主のドミニクが、どこで彼女を捕まえたのか、定かではない。ある日、首都ウィーンから帰ってきた彼の傍らに、彼女はいた。



 結婚生活は順調だった。

 ドミニクには既に親はなく、相続した地所は、それなりの収益を上げていた。


 1809年、ナポレオンとオーストリアとの戦いで、ここからほど近いヴァグラムが戦場となった。彼の農場は、幸い、略奪を免れた。だが、屋敷はフランス軍の宿舎に供出させられた。


 翌年、アシュラが生まれた。


 春まだ浅い、埃っぽい朝。生まれたばかりの赤子を置いて、ヘレナは、家を出ていった。

 宿を貸していたフランス兵と、駆け落ちしたのだ。




 悪いことはそれだけではなかった。


 1806年にナポレオンが発令した大陸封鎖令の影響がじわじわと出てきた。イギリスに端を発した経済恐慌が、大陸にまで波及してきた。


 大陸では、物質不足によるインフレが懸念されていた。産業革命を経て、イギリスは、一大経済国家となっていた。そのイギリスとの貿易が断絶させられたからだ。


 物価高騰をあてこんだ商品投機が行われ、為替変動を見越した通貨投機も散見された。

 オーストリアでも、特に食料である農産物の生産増強が、図られた。


 これが、悲劇を産んだ。

 実際に、モノ不足になど、ならなかったからだ。


 そもそも、イギリスから品物が入らないというのは、間違いだった。密輸入が盛んに行われたからである。

 加えて、生産力の向上。しかも増産した産物は、イギリスに輸出することができない。


 経済恐慌で、人々の購買力は、低下していた。それなのに、市場には、モノが溢れる結果となってしまった。


 さらに追い打ちをかけるように、1811年、オーストリア通貨の大幅切り下げが行われた。

 もちろん、フランス占領軍、ナポレオンの政務担当の差し金である。彼らは、自国フランスの貨幣価値を守ろうとした。


 結果、フランス製の贅沢品の価格は高騰した。が、その一方で、農産物など、オーストリアの自給物質の価格は、暴落の一途を辿った。


 一番、割を喰ったのは、守旧派と呼ばれる、旧貴族や田舎の領主たちである。

 農産物が売れなくなって、小作農からの租税収入が激減したからだ。彼らは、領地を担保に、フランクフルトなど自由都市の銀行から借金をしていた。しかし、オーストリアの貨幣価値が1/5にも切り下げられてしまったのでは、もはや返済は不可能だ。


 かくして、守旧派は没落し、銀行業を営む新興の貴族や市民階級が、急速に力をつけつつあった。


 田舎地主だったアシュラの父、ドミニク・シャイトは、この守旧派に、属していた。




 アシュラが生まれた年は、イギリス恐慌が始まった年だ。先を見通す才のあった母ヘレナは、すでに、夫の没落を予見していたのだろう。




 妻に逃げられ、先祖代々受け継いできた領地を失い、ドミニク・シャイトは、酒に溺れた。

 それでも、彼は、息子を手放そうとしなかった。彼は彼なりのやり方で、息子を育てた。


 時折、地区の神父が来て、なにくれとなく、めんどうを見てくれた。彼はアシュラを、地元の聖歌隊の一員に加えた。

 この神父は、成長したアシュラに、首都ウィーン王立音楽学校コンヴィクトへの入学を勧めた。宮廷聖歌隊を擁するコンヴィクトでは、常に優れた人材を探していた。


 はじめ、アシュラは、ためらった。

 コンヴィクトに入れば、寮暮らしになる。父親を一人でおいておくのは、不安だった。


 酒飲みではあったが、アシュラは、決して、父が嫌いではなかった。べろべろに酔っても、いや、酔えば酔うほど、父は、アシュラをかわいがってくれた。


 一緒になって歌を歌い、家の中でどたばたと踊り回る。

 酒を飲んだ父は、陽気だった。どこかに隠し持っていた、手回しオルガンを出してきたこともあった。大仰な仕草で楽器を奏でる父と一緒になって、アシュラも、大声で歌い、踊り、笑った。


 酒を飲んだ父は、独特の、いい匂いがした。普段の孤独の気配はみじんもなくて、ひたすら、楽しい匂いがした。


 アシュラは、父が、大好きだった。離れたくない。

 しかし、コンヴィクトを出れば、まともな仕事にありつけると神父に諭され、考えを変えた。学校にやるくらいの金ならあると、ドミニクも胸を張った。


 ……俺は知っている。お前には、才能がある。だからお前は、頑張ってこい。

 そう言って、アシュラを送り出してくれた。




 アシュラが12歳の時、父が倒れた。

 肝臓の病だと、医者は言った。

 酒の飲みすぎだった。


 病は驚くほど早く進み、今では寝たり起きたりの生活だ。

 アシュラへの仕送りは、父の治療費に回された。アシュラがそれを、望んだからだ。

 父は、猛反対した。自分のほうが先に死ぬのに、その自分に金をかけるとは何事かと、変な怒り方をした。


 アシュラは取り合わなかった。

 彼は早々に学校を辞め、町へ出た。金が、必要だったのだ。医者というものは、とにかく金がかかる。


 汚らしい居酒屋で歌っているところを、ノエにスカウトされた。すぐに、秘密警察の一員として働くようになった。





 見慣れた糸杉の樹が見えてきた。その向こうの家は、だいぶ古ぼけて見える。


 ……そろそろ屋根の張替えが必要だ。

 ……壁の塗り直しも。


 もっともっと稼がなくちゃ、と、アシュラは思う。

 秘密警察では、手柄をあげれば特別賞与がつく。上司のノエは、何度もそれを手に入れ、アシュラにご馳走してくれている。


 ……俺も、頑張る。

 アシュラは思った。

 真面目に、実直に、業績を重ねよう。父の為にも、地道に、正しく働くのだ。

 ……決して、プリンスだ、魔王だというものには関わるまい。



 アシュラは知っていた。

 神父も知っていた。

 町中の、ほとんどの人が知っていた。

 ……アシュラは、ドミニクの、本当の息子ではない。


 それは、彼が生まれた時期から、明らかだった。アシュラは、1810年、ヴァグラムの敗戦の翌年、生まれている。フランス軍が、オーストリアを占領した、その翌年だ。


 さらに、アシュラの外見も、彼が、ドイツ人ではなく、フランス寄りであることを示していた。

 アシュラの黒目黒髪は、東洋系の母譲りだろう。だが、その顔つきは、ラテン系を色濃く残していた。また、細身で華奢な体格も、フランス系だ。


 一方、シャイト家は、古くから続く、この地方の地主の家柄である。その末裔であるドミニクは、生粋のドイツ人だ。フランスの血は、混じっていない。


 間違いなく、アシュラは、ヘレナとフランス兵との間にできた子どもだった。

 ドイツ人の多いこの町では、誰でもすぐに、見抜くことができた。


 彼が生まれた当時でさえ、いろいろ言う人はあった。母がフランス兵と手を携え、出奔した後は、なおさら。


 だが、生まれたばかりの赤子を、ドミニクは、手放さなかった。

 親身になって育ててくれた。

 本当の息子以上に、愛情をこめて。


 血の繋がりって、何だろうと、アシュラは思う。

 本当に血が繋がっている人達は、アシュラに残酷で、全く無関係な他人は、こんなにも優しい……。





 「ただいま。父さん、元気にしてた?」

大きな声で叫ぶ。


 薄暗い家の中からは、答えがなかった。

 畑にでも出ているのだろうか、と、アシュラは思った。

 医者に勧められ、「太陽の光を浴びる」為に、父は、裏庭に畑を耕しているのだ。


 ……あれ?

 裏口には、黒い長靴が、横倒しに置かれていた。どうやら、家の中にいるらしい。


 「父さん?」


 アシュラが帰ってくると、どこにいても必ず「おかえり」が返ってきた。それから、ひきずるような足音が続いて……、

 寝ててよ、と、アシュラが言っても、微笑んで……。


 ……具合が悪いのだろうか。

 だとしたら、よっぽどだ。

 アシュラは心配になった。


「父さん!」

 少し大きな声で呼んでみる。


 台所にも客間にも、人影はなかった。

 古びてぎしぎしいう階段を、用心深く2階に上がる。


 奥の部屋から、何か物音が聞こえた気がした。主寝室だが、母が出ていってから使われていない。


 ドアは、閉まっていた。

 かすかに、衣擦れの気配がした。


 ……この中に?

 酒を飲んで、倒れているのだろうか。

 にわかに、心臓がばくばくいい始めた。


 軽くノックし、すかさずドアを開けた。

 空気の通りがよくなり、開け放たれた窓から、風が、さあーっと舞い込んだ。

 薄いカーテンが、大きくめくれ上がる。


 ベッドの上に、奇跡のように、父は、浮いていた。だらんと垂れたつま先が、布団のないベッドの、わずかに上にある。

 首が、ありえないくらい伸びていた。

 どす黒くなった顔で、父は、舌を長く突き出していた。

 まるで、あかんべえをするように。

 飛び出した目が、転げ落ちそうだ。


 アシュラは、悲鳴をあげた。

 いつまでもいつまでも、叫び続けた。

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