シューベルトの子守唄 2


 ……

 1816年、初頭。



 その冬は、ひどく寒かった。

 暖炉の前で、コリンは、両手をこすり合わせていた。彼と向き合い、シューベルトは、胸をときめかせていた。

 まさか、著名な作家で、俳優でもあるマテウス・コリンが、直接会ってくれるなんて、思ってもみなかった。


 何日か前、シューベルトは、コリンに、詩を使わせてほしいと手紙を書いた。

 「光と愛」という詩が、心の琴線に触れたのだ。ぜひ、曲をつけたいと思った。

 返事がもらえるだけで、上出来だった。断られたって、仕方がない。

 それなのに、コリンは、承諾の返事をくれた上に、自分のフラットに招いてくれた。


 ウィーンが誇る文学者は、無名の青年に、丁寧に、敬意をもって接してくれた。

 シューベルトは、有頂天になった。

 自分が今まで作曲した曲について語り、ウィーン音楽界の現状について、さらに熱く語った。とにかく、信用してほしかった。大事な詩を預けるに足る作曲家だと。



 彼は、貰ったばかりの詩「光と愛」にどんな曲をつけるか、口先でハミングしてみせた。

 「深いメロディーが欲しいな」

コリンは言った。

「うっとりと、優しく歌ってもらいたい。転調のところは、少し短調に寄って……運命を感じられるようにね!」


「そうするつもりです!」

シューベルトは叫んだ。

「まさしくそうするつもりでした! あと、伴奏は、和音を生かして、でも、軽みも出したいと思います。難しいとは思うけど……」


「君は、音楽が本当に好きなんだな」

含み笑いを浮かべて、コリンは言った。


「ええ! 人生のすべてを、音楽に捧げたいと思っています!」


 思いもかけず、コリンがため息をついた。

「だが、人は、パンを得なくてはならない」

「……そうですね。好きなことをして、食べていけたら、どんなに幸せか……」


 シューベルトは同意を表した。

 19歳の未来は、不安定で、混沌としていた。ただ、音楽を続けたいという、強い意志だけが、道を照らしていた。


 コリンがため息を付いた。

「パンの為の労働には、時間がかかりすぎる。『今』という時間を、とりあえず、『過去』に送り込む。それだけで、一日の終りにはもう、くたくただ。一片の詩も、半言の警句も、吐くことができない。そのうち、まるで砂の城が崩れ落ちるように、若き日の情熱が、浪費されてしまうんだ。……実は、皇帝の孫の家庭教師をするように頼まれてね」

「皇帝の孫……あ!」


コリンは頷いた。

「ナポレオンの息子だよ。すでに2人の家庭教師がつけられたが、手に負えないそうだ。それで、昔、皇女様方の家庭教師を勤めていた私に、お鉢が回ってきた」

「……そんなことまで僕に言って、いいのですか?」

 シューベルトはもじもじした。

 一方で、コリンの信頼を得ることができた気がして、とても嬉しかった。


 コリンは薄く笑った。

「いいんだよ。私は断るつもりだからね。先に雇われた二人は、私なんかより、よっぽど優秀だ。彼らが手を焼いているのに、私にできるとは、思えない」

「先生の一人は、ディートリヒシュタイン伯爵ですね? 宮廷歌劇場の支配人の」

「君、ディートリヒシュタイン先生を知っているの?」

「音楽会でお見かけして、お顔だけ」


 話そうか話すまいか、シューベルトは迷った。彼にとっては神聖な思い出だった。でも、この人になら、言っても構わないと思った。


 ゆっくりと、彼は、過去を振り返った。



「去年の6月、僕は、ディートリヒシュタイン伯爵が、馬車に乗って、ホーフブルク宮殿に向けて走り去るのを見ました……」


 慌ただしく走る馬車。馬。

 我が子をさらいにくる、父親。

 遠い孤島から伸ばされた、その長い腕。

 魔王……。


「その年の秋、僕は、『魔王』という歌曲リートを作りました。使ったのはゲーテの詩ですが、心にはずっと、あの時見た馬車が浮かんでいました」


「なるほど」

とだけ、コリンは言った。

「なるほど」


「『魔王』は、未だ、日の目を見ませんが……」

 だが、そんなことは、シューベルトには、どうでもよかった。彼にとって大事なのは、ただただ、身内に湧いた感興を表に出すことだ。それが人からどう評価されようが(あるいはされまいが)、あまり関心はなかった。


 シューベルトの才能を信じた友人たちだけが、なんとか彼の曲を売ろうと、まさにその時も、あちこちの音楽出版社に譜面を送り続けていた。

 それが実を結ぶのは、5年後のことだ。



 シューベルトは、コリンに尋ねた。

「お断りになるのですか? ナポレオンの息子の、家庭教師の口を」

「ああ。時間が足りないんだ。やりたいことが、山ほどある。ウィーンの文学をまとめた年鑑のようなものの編集もしたいし、歴史を掘り下げて作品にする仕事も増やしたい。興味を引くことが、たくさんあるんだ! とてもじゃないけど、人に教えている余裕なんか、ないんだよ」


「そりゃそうですよね! なにも、貴方が教え導かなくたって。しかも、そんなに小さな……まだ、文学の何たるかもわからない、子どもを! そんなことより、僕は、もっともっと、貴方の詩を読みたいですよ」

「それは光栄だね」

「いくら父親から引き離されたって言っても、彼にはまだ、皇女様おかあさんがいるわけだし!」


コリンが眉を潜めた。

「……マリー・ルイーゼ様母君も、彼を置いて、パルマへ行くことが決まった。それに先駆けて、フランス人従者のほぼ全員が、解雇された」

「えっ、そうなんですか?」


「うん。息子は、一緒には行けない。ウィーンを出ることが許されなかった。……たぶん、これからも」

「それは……、それでも、彼のお祖父さんは皇帝ですもん。立派な大公方もいらっしゃるし。ドイツ語だって、すぐに話せるようになるでしょうしね! コルシカの、悪い父親のことなんか、そのうちすっかり忘れてしまう日が、」


 シューベルトの饒舌が、ふいに途切れた。



 彼の脳裏に、ふいに、蔓薔薇のイメージが浮かんだ。

 薔薇は朽ち果てた碑のようなものに絡みついていた。するすると上へ、伸びていく。碑には文字が書かれているが、読み取ることはできない。


 薔薇の蕾が膨らみ、小さな赤い花が、いくつも咲いた。

 枯葉色の景色の中で、点々と咲いた花の色だけが、ひどく鮮明に浮かぶ。


 ただの碑じゃない!

 突如、シューベルトは理解した。

 碑は、こんもりと盛り上がった塚の上に建っていた。薔薇の根本は、その塚から生え出ている。


 塚に建てられた碑に絡みつき、花を咲かせる、赤い薔薇たち……。

 ……。



 「……どうしたのかね? シューベルト君?」

心配そうなコリンの声で、はっと我に帰った。


 「引き受けてやって下さい、先生。どうか、ナポレオンの息子の身近にいてやって下さい」

気がつくと、シューベルトは、そう、口にしていた。

 ……






 「僕が勧めたから、フォン・コリンは、家庭教師の仕事を受け……死んだ。最もプリンスの身近にいた彼は、数日病んだだけで、あっけなく、旅立っていった……」


 言いようのない不安が、アシュラを襲った。

 自分にフランソワが護れるとは、ますます思えなくなった。そんな不気味な脅威が相手なら、なおさらだ。


 アシュラは言った。

「あなたのせいじゃないでしょ! コリンという人は、病気かなんかだったんです」

「違うよ、アシュラ。僕にはわかる」


「僕は、わかりたくない!」

 アシュラは叫んだ。その声は震えていた。

「……僕は、かかわりたくない。そんなわけのわからない……死だの、魔王だのって!」


 シューベルトが立ち上がった。アシュラの椅子の脇に寄り、その手を握る。

 ゆっくりと、低い声で、彼は、曲を口ずさみ始めた。

 穏やかで、優美な曲だ。


 アシュラは、すぐに気がついた。

 シューベルトがよく歌っている曲だ。泣いて帰ってきた妹のペピやヨーゼファを膝に抱いて。



 ……エステルハージ家の温室で、自分は、フランソワを宥めることができなかった。

 ……この曲を覚え、歌うことができたら、今度は、彼に優しくしてあげられるかもしれない。


 とりとめもなく、そんな風に、アシュラは考えた。



 「子守唄だよ」

歌い終えると、シューベルトは言った。

「フォン・コリンと話していて、頭に浮かんだのは、この曲の想だ」


「うっとりするほど優しい調べですね。僕は母のことは覚えていないけど、でもきっと、子どもにとって、お母さんの腕の中というのは、こんな感じなんだろうな」


 なぜか、シューベルトは、暗い目をした。アシュラが初めて見る、暗く沈んだ目だ。

 茶色の瞳を曇らせたまま、彼は言った。

「いつか、歌詞を教えてあげよう。この曲には、歌詞があるんだ……」




 「シューベルト!」

 ドアが、ばん、と開いた。

「やあ、アシュラ! 来ていたのか!」

 シューベルトの隣人、「最愛の」シュヴィントだ。


「なっ、何やってんだ。二人でくっついて」

シュヴィントの後ろには、マイヤーホーファーも立っていた。


「くっついてなんかいないよ」

大仰に、シューベルトがのけぞってみせた。

「アシュラに、子守唄の講義をしていたんだ。やっと、僕の新居に、来てくれたか、マイヤーホーファー」


「酒屋の角で会ったから、引っ張ってきたんだ」

 嬉しそうにシュヴィントが笑った。

 大きな碧い目、華奢な体格の彼は、天使のように屈託がない。


 「シュヴィントは、知らない」

身を屈め、アシュラにだけ聞こえるように、シューベルトが囁いた。

「君の職業を知っているのは、コンヴィクトの卒業生と、マイヤーホーファーだけだ……」


 シュヴィントが、くるりと一回転してみせた。

「踊りに行こうよ! せっかく4人、揃ったんだ。カドリーユ(4人で踊るスクエア・ダンスの先駆け)なんて、どう?」


「できるかよ、そんな貴族のダンス……」

すかさずマイヤーホーファーが拒絶する。

「じゃ、普通にワルツで」

「あれは、動きが激しすぎる」

「もうっ、文句ばっか言ってないで、マイヤーホーファー!」

強引に、シュヴィントは、マイヤーホーファーの腕を掴んだ。

「さ、シューベルト、貴方も! 君もだ、アシュラ!」


「よしっ! 引越し祝いだ!」

一番に、シューベルトが部屋から飛び出した。








ライヒシュタット公の身の回りの人事は、ベートーヴェン/シューベルトの2人の音楽家と、不思議とリンクしています。



・ライヒシュタット公の家庭教師のディートリヒシュタインは、ベートーヴェンの保護者と目され、自宅でベートーヴェンの音楽会を催したこともある。


・同じくディートリヒシュタインに、シューベルトは、「魔王」を献呈した。

(「魔王」は、1815年11月16日、極めて短時間で作曲されました。半年前の6月26日付で、ディートリヒシュタインがフランツの家庭教師に就任しています。―フランツとディ先生との出会いは、2章「チビナポ」に―)


・ライヒシュタット公の家庭教師、コリンの詩に、シューベルトが曲をつけた。

(最初の歌曲「光と愛(D352)」は、1816年の作曲と推定されています。この年の2月から、コリンはフランツの家庭教師になっています)


・ライヒシュタット公の4人の侍医のうち、3人が、ベートーヴェンの主治医でもあった。なお、残る1人は、母のマリー・ルイーゼ自らが任命した、小児科医。(小説は、まだ途中です)



「家庭教師・侍医と音楽家との関係」を、ホームページに図解してみました。


https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#tutor-doc


(ページトップは

https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html

 恐れ入りますが、下の方にスクロールしてみて下さい。

 なお、その下の図は、もう少ししたら、ご案内します。








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