シューベルトの子守唄 1
「どうしたんだい? そんなところに立っていないで、入っておいでよ」
ウィーンのカール教会のすぐ近く。
部屋の中から、声が聞こえた。
「いえ、僕はここで。今日は、お詫びを言いに来ました」
部屋の入口に立ったまま、アシュラは言った。
「お詫び?」
怪訝そうにシューベルトは尋ねた。
彼は今まで住んでいた父の家を出、ウィーン市街の下宿屋に引っ越していた。
勇気を奮い、アシュラは言った。
「貴方は、ご存知だったのですね。僕が、その、……」
「君が? どうした。不名誉な病気にでもなったのか?」
「違います! 僕は、秘密警察員でした。貴方を、スパイしていました」
「うん、知ってたよ。マイヤーホーファーが教えてくれた。君、有名らしいよ。若いのに優秀だって」
「もっ、申し訳、ありませんでしたっ!」
目をつぶり、勢いよく、アシュラは頭を下げる。
「……なんで?」
怪訝そうな声が降ってきた。
「君は、君だろ? スパイしてたって言うけど、僕は、政治的な活動はしていない。君は、全く何も、成果を得られなかったはずだ」
「成果なんて! そんなこと、考えてみたこともない!」
「うん」
優しく、シューベルトは頷いてみせた。
「みんな、知ってるよ。君が、秘密警察員だってこと。シュパウンもショーバーも。コンヴィクト時代からの友人達は、みんな」
「えっ!」
「でもそれが、何だっていうんだ? 音楽だけじゃ、食っていけない。他に仕事を持つのは、必要なことだ。それが何であろうとね。君が君である限り、君が音楽を見限らない限り、僕らは、口を出したりしない」
「……みんな、僕にとても良くして下さって。こんな裏切り者の僕に……。シューベルティアーデや、ソーセージ舞踏会(ソーセージを焼いたり、踊ったりするパーティー)にも参加させてくれて」
そして、たくさん食えと、太いソーセージを、山盛りに、皿に載せてくれた……。
シューベルトが微笑んだ。
「時期は違うけど、同じコンヴィクトで学んだ仲間じゃないか。みんな、君のことは、よくわかってる。音楽を好きな人間に、悪いやつはいないよ」
嗚咽が、アシュラの喉から漏れた。
音楽の神から。
虫のいい考えだとはわかっている。
アシュラはずっと、自分は、音楽を裏切ったと思っていた。大好きだった音楽を利用して、仕事をしてきたから。
演奏や、音楽のレッスンで金を稼いだのではない。道端や、酒場で歌うことでもない。
暗号解読。音楽家のスパイ。
それのどこに、救いがあるというのだろう。
パンの為だと自分に言い聞かせつつ、そのパンは、苦かった。秘密警察に取り込まれてから、アシュラは、歌を歌ったことがない。
それが今、シューベルトの明るい茶色の瞳が、すべてを吸い込んでくれたような気がする。
時期的にはずっと後になるが、アシュラも、コンヴィクトに在籍していた。シューベルトや、その友人たちと同じように。
コンヴィクト時代は、荒れたアシュラの生活の中で、唯一の、優しい思い出だ。
緩やかな連帯感が、これほど心地よいものだったということを、彼は、長い間、忘れていた。
「そんなところに突っ立って、べそをかいてないで。まあ、入り給え」
一歩退いて、シューベルトはアシュラを部屋に通した。
部屋は、立派ではないが、気持ち良く整えられていた。
楽曲が売れ始め、生活が向上したのだ。
「わあ、すごい」
思わずアシュラは感嘆の声を上げた。
窓が広く開け放たれていて、さわやかな外気が流れ込んでいる。大きな窓からは、カール教会のドームと、2本の円柱が見えた。
「うん。あの円柱はいいよな。ローマのトラヤヌス帝記念柱を模したものなんだって。おまけに、僕の隣の部屋は、『最愛の』シュヴィントだし」
「えっ! シュヴィント?」
「そうだよ」
「それは……」
マイヤーホーファーがさぞやヤキモチを焼くだろうと、アシュラは心配になった。
「アシュラ。君、何かまだ、僕に隠していることがあるね?」
古道具屋で買ったという椅子を勧め、シューベルトは言った。
この部屋には、ピアノがない。
友人たちの奔走により、シューベルトの名声は高まりつつあった。だが、経済的な成功は、まだ、追いついていないようだ。
「まだ、隠し事があるだろう?」
「え?」
アシュラはぎょっとした。
それは、荒唐無稽なあのこと……。
自分自身にも、およそ、現実とは思えない……。
「何もありません」
彼は答えた。
シューベルトは譲らない。
「嘘を言っているな? 今、僕から目をそらせた」
「かなわないな」
アシュラはつぶやいた。
「話しても、絶対、信じてもらえない……」
「信じるよ」
「それに、あなたはきっと、怒ります」
「怒る? 僕は、君が僕をスパイしてたって、怒らなかったろ?」
「……実は、僕は、ベートーヴェンに頼まれて……」
「なんだって! 君は、ベートーヴェンと知り合いだったのか! それを今まで、僕に隠していたと? あんなにも彼を崇拝している、この僕に!」
「ほら」
アシュラは言った。
「だから話したくなかったんだ。知り合いとは少し違います。僕は、ベートーヴェンをスパイしてたんです。貴方と同じようにね!」
「秘密警察に、ベートーヴェンと同列に扱われていたのか……なんと……なんと、名誉なことだろう!」
感に堪えない、とい風に、シューベルトは胸の前で両手を組み、目を閉じた。
その仕草は、まるで乙女のようだ。こと、ベートーヴェンとなると、シューベルトは、途端に、挙動が怪しくなる。
アシュラは、なおもためらった。
ベートーヴェンは、いい。変人ではあるが、少なくとも彼は、人間だ。
だが、魔王になる人間を探し出せの、悪魔との約束を盾に、人類にとって、理想の覇者を作り出せ、だの……、
……そんなことを話したら、頭が変になったと思われないだろうか。
「貴方は、メフィストフェレス、って知ってますか?」
恐る恐る、アシュラは口にした。
シューベルトは、大きく頷いた。
「もちろんさ。尊敬している」
「尊敬? あの、メフィストフェレスってのは、悪魔なんですよ?」
「そうだ。ゲーテが生み出した悪魔だ。メフィストフェレスが登場する『ファウスト』は、ベートーヴェンの次の交響曲……つまり、第十番目の交響曲……の、テーマになるんだ! 彼はそう、公言している」
腹をくくって、アシュラは、今までの経緯を最初から話し始めた。
「つまり、メフィストフェレスの力を利用して、人の上に立てる者を作り出せと、ベートーヴェンは言うんだな? 自分を犠牲にして、民衆を守れる存在を見つけ出せ、と」
話を聞き終わると、シューベルトは言った。
「なんて、壮大な話だ」
「できっこないです」
アシュラは否定的だった。
「そんな、悪魔をダマして、人類にとって理想の王を見つけるなんて。……そもそもは、ベートーヴェンの第九に感動したメフィストフェレスが、彼を、魔王にしてやると申し出たんです。人類の上に君臨する至高の存在にしてやろう、と。それなのに、あの人、断るから」
「ベートーヴェンらしい! 権力など、全く、彼に、似合わない!」
芯から嬉しそうに、シューベルトが叫んだ。
アシュラはむっとした。
「メフィストフェレスが言うには、ベートーヴェンには、魔王になる義務があるんだそうです。魔王になって、人の輪から追い出された人々を、救わなくてはならないという……」
……そうだ、地珠上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい
……
第九の合唱を、アシュラは小さく、口ずさんでみせた。
「この音楽の峻厳さ、完成された天上の調べによって、彼らは、地上に留まることができなくなったのだそうです」
「彼ら、とは?」
シューベルトが尋ねる。
「生涯で、誰からも愛されなかった人たちです」
「うーん」
シューベルトが唸った。
「誰からも愛されなかった者たちの救済の為に存在する、魔王……。その魔王を、同時に、人類の救世主にするわけだ。素晴らしい! さすが、ベートーヴェンだ!」
「ベートーヴェンはその役を、ライヒシュタット公に押し付けようとしています」
「ライヒシュタット公?」
「ナポレオンの息子の」
シューベルトは、はっと、短く息を吸った。
「そうか。なるほど。……そうなのか」
……彼はすでに、民衆の犠牲になっている。ウィーンという檻に入れられ、外に出してもらえない。そんな彼だからこそ、人々の上に立つべきだと、儂は思うのだ……。
アシュラは、ベートーヴェンが言っていたことを繰り返した。
「でも、僕は、普通の人間です。魔王なんてそんな恐ろしいものに、関わりたくなんて、ないんだ!」
「あのな」
茶色の瞳が、じっとアシュラを見つめている。
「あのな、アシュラ。僕からもお願いだ。ライヒシュタット公の身の回りに、気を配ってやってほしい。秘密警察官の君なら、機会はあるはずだ」
唐突な申し出に、アシュラは、目をしばたたかせた。
「護ってやってほしい」
さらに彼は言い募った。
「君にそう頼むのは、つまり、僕には不可能だからだ。僕は、しがない音楽家に過ぎないからね。だが僕は、マテウス・フォン・コリンに対して、その責任があるんだ」
「マテウス・フォン・コリン?」
聞いたことのない名前だった。
アシュラが首を傾げると、シューベルトは説明をした。
「劇作家で、俳優だった人だ。僕は、彼の詩を貰って、楽曲を作った。……優しい人だったよ。思いやりの深い、人に共感できるひとだった」
シューベルトが過去形で語っていることに、アシュラは気がついた。
「初めて僕らが会った、ちょうどその時、彼は、迷っていた。ナポレオンの息子の家庭教師になるよう、依頼されていたんだ……」
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