魂の飛翔について 3



 「それは違う。ナポレオンは、あなたの『英雄』を受け取れなかったのではない。あなたが、献呈をとりやめたのだ」

奮然と、アシュラは叫んだ。



 ベートーヴェンは、かつて、若き風雲児、革命家ナポレオンの、熱烈な賛美者だった。彼にとって三番目の交響曲を、情熱のうちに書き上げた。それをパリに送ろうとした、まさにその時、ナポレオンが、フランスの皇帝に即位したことを知った。


 ……やつもまた、俗物に過ぎなかったか!

 ベートーヴェンは叫び、楽譜の一番上に書かれていたナポレオンへの献辞を、めためたにペンで突いて消した。


 ……。



 うっすらと、ベートーヴェンは微笑んだ。

「『英雄』というなら、交響曲の英雄という意味だ。ナポレオンの死をもって、交響曲第三番は、不滅の輝きを得た。ライヒシュタット公の言ったことは正しい。あれは、ナポレオンの、葬送曲だ」


「しかし」

「あの子の心は、儂の心と共鳴したのだ。その意味で、儂は、ナポレオンの死を悼んだ」


「……信じられない。フランソワが、あなたと共鳴した、ですって? 演奏会を途中で抜け出すような奴ですよ? 鼓笛隊と軍のラッパの他は、音楽には興味がない、って言い放っていたのに……」

「韜晦だよ。あの子は、自分を隠す。自分を守るためにね! そのことを、儂は、前のかかりつけ医から聞いていた。彼は、あの子の主治医になったから」


アシュラは、はっとした。

「シュタウデンハイム医師ですね! 去年、貴方に愛想をつかして去っていかれた……」



 シュタウデンハイム博士は、厳格な医師だった。彼は、アルコールを一切飲まないように指示した。ベートーヴェンはこれを守らず、去年(1824年)、二人の仲は決裂した。



「……言わせて貰えば僕は、医師はかせの方が正しいと思います。この間、わかったのですが、お酒の飲み過ぎは、全く、体によく、ありません……」


「シュタウデンハイムではない」

ベートーヴェンが苦い顔をした。

「フランク医師だ」


「フランク医師?」

聞いたことのない名前だった。だが、アシュラには、だいたい、予想がついた。

「そのお医者さんとも、やっぱり、ケンカ別れをしたんですね? それで、シュタウデンハイム先生に変わったんだ。そのシュタウデンハイム先生もクビにして……」


「違う! フランク医師とは、最後まで、良好な関係だった。現に彼の息子は、儂の曲を専門に歌うソプラノ歌手と結婚した」

「はあ。それは、そのソプラノ歌手に魅力があったからじゃないんですか? 貴方に、じゃなくて」


「そんなことはない! 儂は、フランク医師の家の演奏会に何度も招かれているし、娘さんの歌に、伴奏をつけたこともある! 残念なことに、フランク医師は、4年前に亡くなってしまったが……」

「亡くなってしまわれたんですか。残念なことです。貴方がお医者と喧嘩をしないなんて、滅多にないことなのに……」


 医師の指示を聞かないベートーヴェンは、何人もの医者と喧嘩をし、その都度、別の医者に乗り換えている。

 医者を変える毎に、体調が悪くなるようで、アシュラは心配でならない。


「亡くなったフランク医師は、よく、ナポレオンの息子について話してくれたよ。繊細な感受性を持つ、優しい子だと。ひばりが虫を殺して食べるのを見て、涙を流していたこともあったそうだ」

「へええ」


「純粋な魂は、共鳴しあうものだよ」

「はあ」

「それに、あの子の音痴は、父親譲りだ。知らなかったか?」

「はい」

「さすがの秘密警察も、ナポレオンの音痴に関しては、無知だったというわけだ?」

「そんな古い話……」


書きかけて、アシュラは固まった。

「今、なんて?」

「アシュラ、とぼけるのは、なしだ。セドルニツキ切り裂き伯爵の下で働いているんだろう? 君は、秘密警察員だ」


「……」

 ずばり言い当てられ、アシュラは、声も出ない。


 そんな彼から、ベートーヴェンは、目をそらせた。

「まあ、君は、儂の身の回りのことをとてもよくやってくれるし。つまり、その、汚れ仕事とかもね。メイドやコックと違って、怒って出ていくこともしない。それどころか、献身的に家事をしてくれる。つまり、儂が言いたいのは……」


「黙っていて、申し訳ありませんでした!」

アシュラは深々と頭を下げた。


 顔を上げられない。

 下げたままの頬が次第に紅潮していく。

 ……自分は、この偉大な作曲家を騙していたのだ。

 鼻がつまり、目の奥が痛んだ。

 ついに、熱い涙が、じわりとこぼれ出た。一度涙腺が決壊すると、涙は後から後から溢れ出て、床に染みを作った。


 アシュラは深く絶望した。

 大切な人の信頼を裏切ってきた。

 その報いとして、自分は、音楽を失うのだ。

 生きる糧である、音楽を。


 ベートーヴェンが何か言っている。

 「……儂には秘密など何もない。君が上司に対して、儂のことをかばってくれていることも、わかっている。そのことは、シューベルトも知っている」

「シュ、シューベルトも?」

体が、かっと熱くなった。それなのに、全身の力が抜けるようだ。


 なおもベートーヴェンが言い募る。

「むしろ彼のほうが先だな。君の正体に気づいたのは。彼には、官吏の友人がいるから。儂の知り合いが、シューベルトの友人の、上司なんだ。そして、儂に、一切を教えてくれた」


「ああ……」

 マイヤーホーファーだ。

 やはり彼は、アシュラの正体を知っていた……。


「シューベルトは、いつ……?」

自分の正体を知ったのか。


 ベートーヴェンは頭を振った。

「君が、初めてシューベルティアーデに参加したときからだ」

「最初から!」


 だがシューベルトは、少しもそんな素振りをみせなかった。

 他の仲間と同じように、アシュラを扱ってくれた。

 音楽の仲間として。


 「だって君の音楽好きは、本当だからね」

あっさりとベートーヴェンは言った。

「そしてまさにそれが、儂が、君を遠ざけなかった理由だ。決して、家事ができて便利だからではない」


 じろりとアシュラを見た。

「ほら、もう泣くな。なんだか意地悪をしているみたいで、落ち着かない」

「先生。本当に……」

「怒ってないよ」

莞爾と、ベートーヴェンは笑った。


 アシュラは、ハンカチで鼻をかんだ。汚れたハンカチーフを無造作に丸め、ポケットに突っ込む。


 ひとり言のように、ベートーヴェンがつぶやいた。

「なあ、アシュラ。あの子なら、できるんじゃないか?」

「あの子?」

まだ鼻をぐずぐずいわせながら、アシュラが問い返す。


「ナポレオンの息子だ。彼なら……」

途中で途切れた言葉の先が、アシュラは気になった。

「フランソワに、何が出来ると言うんです?」


「自分を犠牲にして、人の上に立つことが」

 きっぱりと、ベートーヴェンは言い切った。


 アシュラは目を丸くした。

「先生。それじゃあ……」


「あの子は、犠牲になっている。ヨーロッパの人々の、ちっぽけな幸せの。ちっぽけだけど、大切で、愛しい……。自分たちだけの平和と安寧を願う、民の総意が、あの子を父親から引き離し、ウィーンに閉じ込めているのだ。アシュラ。あの子は、きっと、人の上に立つことができるよ。きれいで、純粋な心のままね。あの子は、魔王になれると、儂は思うのだよ」

「魔王……」



 ふいに、シューベルトの楽曲が、アシュラの耳元で甦った。

 激しく鳴り響くピアノの前奏。おどろおどろしい情景描写。


 ……子ども、死んじゃうんだよね。

 フランソワは、怯えていた……。



「かわいそうだと思います。ナポレオンの息子だからといって、それは、フランソワのせいではない」


 アシュラが、こんなに毅然として、尊敬する音楽家に逆らったことはない。だがベートーヴェンは、肩を竦めただけだった。


「いずれにしろ、彼はすでに、民衆の犠牲になっている。ウィーンという檻に入れられ、外に出してもらえない。そんな彼だからこそ、人々の上に立つべきだと、儂は思うのだ。決して、ナポレオンの息子だからではない」

「……でも」


「なあ、アシュラ。誰か、とんでもないやつが君臨したら、世界は、大変なことになる。そんなやつを出さない為にも、あの子に、大国の統治を任せたいと思うのは、間違いだろうか」

「……わからない。貴方の話は、難しすぎる」


「もう少し、あの子に近づいてみたらどうだろう。儂のことはもういい。新しい家政婦も見つかった。だから君は、あの子のそばへ行って、よく観察してみたらどうかと思うんだ」

「なんで僕が、そんなこと……」


「メフィストフェレスとの約束を逆手に取るんだ。悪魔との約束を盾に、人間にとって、最良の存在を、人々の頭上に戴かせるのだ。何しろお前は、魔王候補を探さなくちゃならないんだから」

「先生が断ったからでしょ! 魔王になるのは、先生の筈だったんですよ!?」

「いやいや、メフィストフェレスは、君を見込んでいるし。きっといい人材を見つけてくると。それに……」


ふと、音楽家は顔を曇らせた。


「さっき言ったフランク医師、な。……4年前に亡くなった、ライヒシュタット公の主治医の……。最後に会った時、彼は、妙なことを言っていた」

「妙なこと?」

「いや、よくわからない。はっきりとは言わなかったから。ただ、フランク医師は、ライヒシュタット公の身の上を、とても心配していた。なんだかプリンスが、常に大きな危機に晒されているような、不安げな様子で……、儂は、とても気になった」


 アシュラは喉元を、何かにぐっと掴まれたような気がした。足が震え、浮遊感を感じる。


 ……なんでこんな。

 ……あの生意気なフランソワが、危険な目に遭いそうだと思うだけで。


 全く理不尽だと、彼は思った。


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