魂の飛翔について 2
……
1818年。パルマ女公となった皇女マリー・ルイーゼが、初めて、ウィーンに残してきた息子に会いに来た年のことだ。
ベートーヴェンは、ウィーン近郊の保養地、バーデンに招かれた。
夏は、終わりに近づき、9月に差し掛かった頃だった。
その頃、彼の難聴は、回復傾向にあった。
新鮮なわさびを、木綿の上にすりおろし、巻き取って耳に差し込む。
ある神父の推奨する油剤を耳にたらしこむ。
難聴や失聴に効果があるという電動振動機を試してみる……。
あらゆる手段で、ベートーヴェンは、聴力を回復しようと試みた。そのどれかが、功を奏したのだろうか。この年の後半から2年ほど、耳の具合は、大変、良かったのだ。
それを見越しての、ディートリヒシュタインからの依頼だった。
音楽会には、メッテルニヒも参加していた。
ベートーヴェンの支持者である貴族の中には、当時台頭してきた新興貴族もいた。金の力、金融業で力をつけた貴族たちである。
これに先立つナポレオン時代、特権階級は、その意識するところによって、二分されていた。
・従来の荘園経営を重視する「守旧派」と、
・金融業で新しく台頭してきた「改革派」
である。
守旧派は、ナポレオンの大陸封鎖のせいで農産物が売れなくなり、租税が滞り、困窮していた。
金融業を営む改革派は、困窮した守旧派に、土地を担保に金を貸した。これに、通貨切り下げなど、当時の金融政策が影響した。
守旧派は、借金が返せなくなり、土地を手放す羽目になった。
結果、守旧派の先祖伝来の土地は、改革派の新興貴族の手に渡ることになる。
改革派の多くは、フランクフルトなどの自由都市に拠点を移していた。
こうした金融都市の発展は、ウィーン体制を敷いたメッテルニヒの思惑とは、違うものだった。
やがて、自由都市は、プロイセンを盟主とする拡大ライン同盟に組み込まれていく。プロイセン主導のドイツ統一への、足がかりとなっていくのだ。
ベートーヴェンは、改革派の貴族を支持者に持つ。その上、音楽会に多くの市民を動員し、また、自身もしきりと、メッテルニヒ体制への批判を口にする。
この偏屈な音楽家が、皇族と接するのであれば、当然、監視が必要だった。
機会を窺い、メッテルニヒはベートーヴェンに話しかけた。
意外にも、この国の宰相は、音楽の造詣が深かった。
二人は、モーツァルトの技法について議論した。メッテルニヒは、若い音楽家では、ロッシーニが好きだと言った。
ベートーヴェンは、数曲のピアノ曲を披露した。
なごやかな雰囲気で、音楽会は進行した。
*
一通り演奏が終わると、懇親会が催された。
シャーベット。ワッフル。メレンゲ菓子。
ベートーヴェンが見たこともないような菓子が、テーブルいっぱいに甘い香りを漂わせている。
ベートーヴェンの他にも、歌手や演奏家が招待されていた。彼らは美しい菓子に目を瞠った。甘い誘惑に緊張感が薄れたようだ。会話が、弾んでいる。
その誰とも、メッテルニヒは、話を合わせることができた。
大変な教養人なのだと、ベートーヴェンは改めて認識した。
饗応が始まるとすぐ、ベートーヴェンは退出した。
やはり、メッテルニヒとの同席は、気詰まりだった。
廊下に出た彼を、軽い足音が追ってきた。
「ムッシュ!」
甲高い子どもの声が呼び止めた。
皇帝の孫だ。
びっくりして、ベートーヴェンは振り返った。
「ムッシュ! あのね!」
急いで来たのか、息を切らしている。
「あの曲ね。最初に演奏した、〈エリーゼの為に〉。あれ、魂の曲だよね」
「……」
何と言っていいかわからず、ベートーヴェンは絶句した。
独身の彼は、子どもと話したことさえ、あまりなかったのだ。
固まってしまった年配の男に、少年は、何の恐れもためらいもなく続ける。
「タンタン、タンタン、タァンターン」
「
「ここ、ね。ほら。魂が飛ぶの。閉じ込められている場所から離れて、空高く!」
そう。「
e音の、このオクターブの移動に、ベートーヴェンは、己の魂の飛翔という意味をこめた。
実際に演奏会では、何人かの者が、そのことに気がついた。このような言葉遊びが、当時の流行であったのだ。
しかしまさか、こんなに幼い少年が、それを見抜いたとは。
「タァン、ターン」
少年は、最後の飛翔を、もう一度繰り返す。
「エリーゼって、自由のことだよね。ここを出て、どこへでも行っていい、何でもしていい、って、ことだよね!」
音楽家は、体を固まらせるばかりだった。
顔の筋肉も強張り、微笑むことさえできない。
にこにこと、プリンスは、笑っていた。
何か言いたい、とベートーヴェンは心の底から思った。
ナポレオンの息子は、ウィーンを出ることを、許されない。
母と一緒に、パルマで暮らすことさえ、禁じられている。
……なんとか、励まして、
この可憐な籠の鳥を。
彼に、何か、力になるような一言、希望を託せる詞を。
しかし、言葉が出てこない。
緊張していた。
あれだけの回数、人前で演奏してきた音楽家の体が、この小さな少年の前で、動けなくなっていた。
プリンスの顔が曇った。
「ムッシュは、パパの為に、曲を作って下さいました。パパはそれを、受け取ることができなかったけれども……」
「それは、私の交響曲3番のことかね?」
ベートーヴェンが尋ねると、プリンスは頷いた。
「パパが死んだ時、この国の人は、誰一人、パパの死を悲しんでくれなかった。たったひとつ、ムッシュの曲だけが、僕にとって、パパの、野辺の送りの曲になってくれました」
交響曲3番「英雄」。その第2楽章のテーマは、死と葬送である。
「コリン先生が、何度も口ずさんでくれて。僕には、うまく、歌えなかったけど」
プリンスの家庭教師の一人、マテウス・フォン・コリンは、文学に造形が深かった。劇作家で、俳優でもあった彼は、もちろん、歌も得意だった。
「ディートリヒシュタイン先生は、お留守だったので、コリン先生が」
用心深く、プリンスは付け加えた。
きっと、ディートリヒシュタインが、ベートーヴェンと懇意であることを話したのだろう。
思わず、ベートーヴェンは笑いだした。
「儂は、そんなにあの伯爵と親しいわけではない」
澄んだ目で、少年は、音楽家を見上げた。強い決意を滲ませている。
「『英雄』は、戦争で死ななければならない。自ら盾となって、祖国を守るのです。僕は、そういう風になりたいと思っています」
幼い口から飛び出した「戦争」「死」という言葉は、あまりに衝撃だった。
「そんなことしたら、君も、死んでしまうかもしれないよ?」
意地悪い見方を、ベートーヴェンはぶつけた。
実際には、警護の兵隊が、代わりに死ぬのだ。皇族が死ぬようでは、戦は負けだ。
「父がやりたくてもできなかったことを、僕がやります」
ためらうことなく少年は答えた。
はっと、ベートーヴェンは息を呑んだ。
絶海の孤島、セント・ヘレナで、幽閉されたまま死んだナポレオン。
戦争の寵児は、どんなにか、戦場で死にたかったことだろう。
「君の祖国とは……」
言いかけ、ベートーヴェンは、かつかつという靴音に気がついた。
ベートーヴェンは口をつぐんだ。
靴音は、二人の背後で止まった。
「おや、プリンス。音楽家の先生と、お話しですかな」
この国の宰相が、微笑みを浮かべて立っていた。
溢れるようだったプリンスの明るさが、さっと消えた。
「Nein(No)!」
プリンスは叫んだ。
「お母さまがお探しですよ。ささ、いらっしゃい」
肩に触れようとする手を、潜り抜けた。
あっという間に、広間へ走って行ってしまった。
探るような眼を、メッテルニヒは、ベートーヴェンに向けてきた。
「プリンスと、何の話を?」
「魂の飛翔について」
彼は答えた。
※父ナポレオンの死を知ったフランツの様子については、2章「ナポレオンの死」に描写がございます。
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