魂の飛翔について 1



 「それで、うまくいったのかね?」

 ピアノの前から立ち上がり、ベートーヴェンは尋ねた。雑記帳を、ぽんぽんと叩く。


 ぼんやりと、アシュラが頷いた。


「アシュラ?」

音楽家の声が高くなり、アシュラは、はっとして顔を上げた。

「はい、先生。馬丁は、解雇されました」


「馬車に近づくことができるのは、馬丁が一番たやすい……」

 音楽家は、首を傾げている。


 アシュラは書き込んだ。

「あの馬丁は、フランスなまりのやつと話している姿が、何度も目撃されています。『竜によじ登り虎に跨がる亭』の客の中には、そいつの葉巻入れに、白百合の紋章があったのを、見た者もいます」


 白百合は、フランスのブルボン家の紋章だ。


 アクセントの少しズレかけた声で、ベートーヴェンは言った。

「ブルボン王朝の手の者が、ナポレオンの息子を狙っていたのだな。それで、ライヒシュタット公の馬丁を抱き込んだ……」

「あの馬丁、急に金遣いが荒くなったと、酒場の亭主も言っていました。高い酒をあびるように飲み、周囲の連中に、やたらと奢るようにもなったんだそうです」

「ふうむ」

「でもこれで、一件落着です。ライヒシュタット家では、馬丁を解雇しました」


 音楽家は、含み笑いを浮かべた。

「それにしても、君の女の子姿、なかなかのものだったぞ」


 下働きの少年は、口を尖らせただけだった。

「まあ、怪我がなくてよかった」


「当たり前です。相手は酔っ払いですから」

つんと、顔を上向ける。


「男をたぶらかすなんて、お前、本当に悪いやつだな。全世界の男の為にも、お前が女の子じゃなくて、本当によかったよ」

「うちの女の子をたぶらかしたと訴え出たのは、先生じゃないですか!」

「馬丁氏の名誉の為だよ。男の子より、一般的で、世間様には受け入れやすいだろう?」


 再び、アシュラの口が尖る。だが、何も言い返してはこなかった。


 少し不自然だと、ベートーヴェンは思った。

 彼は肩をすくめ、話題を戻した。


「酒場で目撃された、フランスなまりの男というのはどうなったんだ?」

「……」

「ドナウ川に、死体が浮いたと聞いた。解雇された馬丁のものか?」

 ゆっくりとベートーヴェンは言った。


 再び、アシュラの目が曇る。

「……僕、見に行きました」

口元が歪んだ。吐きそうな顔になる。

「み、水に浸かった死体は、ぱんぱんに膨れ上がっていて……。手首の皮なんて、ずるむけで……まるで、まるで手袋を脱いだように」


 軽くえずく。

 ベートーヴェンは黙って、ごわごわした布を手渡してやた。アシュラはそれを口元に当て、身を震わせた。



 引き上げられた死体は、すでに人ではないようだった。顔は、膨れて歪み、形相がすっかり変わってしまっている。


 それでもアシュラは見た。

 肩口の噛み跡。

 他でもない自分が、噛み付いた歯型だ。


 あの晩、寄った男が抱きついてきて……。



 二人で酒場を出ていく姿を大勢の人の目に晒すだけでよかった。

 あとは、「高名な音楽家」が、馬丁の淫行を騒ぎ立て、馬丁は、ライヒシュタット家から、解雇される……。


 眼の前の肩に噛み付き、突き飛ばした。

 夢中で逃げた。

 その後のことは知らない。


 密かに調べたところ、馬丁は、所在不明のまま、ライヒシュタット公爵家を解雇されたという。


 ベートーヴェンが、ため息をついた。

「口封じに殺されたのだな。白百合の紋章を持つ……ブルボン家の使者に」


「……僕が……僕があいつを、人気のないところに誘ったから、」


「機会を狙っていたんだろうよ。手駒に使った人間が、恐喝者になることは、よくあることだ。ブルボンの連中としても、一度使った手を、二度、使うことはできない。車軸の摩耗が露見した直後に、馬車の事故が置きたら、不自然だからね。もはや、馬丁は不要だ。それどころか、秘密を知られている。生かしておいたら、不都合だ」


「……僕が、あいつを誘わなければ……人のいないところに連れて行かなければ……」

「君のせいじゃない。君が何もしなくても、馬丁は、いずれ、殺された」

音楽家は断言した。


 アシュラの体に、怯えが走った。

「そいつら、……ブルボン家の暗殺者たちは、次の手を? 再び、あの子を狙って?」

「いや、それはないんじゃないかな。計画が失敗し、馬丁を抱き込んだ連中は、本国に帰ったと思われる。ほら」


 ベートーヴェンは、くしゃくしゃの新聞を広げてみせた。

 そこには、


「メッテルニヒ宰相、ナポレオンの支持者は解散したと談話。カール大公も安堵」


と、大きな見出しが踊っていた。



「シャルル10世が即位して、すでに1年近く経つ。今の所、ブルボン政権は安定し、すぐに倒れることもなさそうだ。F・カール大公の結婚式も終わり、オーストリア国内の外国人の姿も、激減した。つまり、ライヒシュタット公を、王として迎えに来る者も、逆に暗殺しに来るものもいなくなった、と、宰相は楽観したわけだ」


「メッテルニヒには、もともと、フランソワを守る気なんかないですよ」

強い筆圧で、アシュラは断じた。

「ああ、『喉に刺さった棘』か」

言いさして、ベートーヴェンは片眉を上げた。

「フランソワ? 君は、あの子のことを、知っているのか?」


 雑記帳に向かって屈み込み、アシュラは、彼と出会ったいきさつを、書き記した。


 ベートーヴェンは頷いた。

「儂も、彼を知っている」

「あなたが? フランソワを?」


 言葉は聞こえなくても、ベートーヴェンは、アシュラの言いたいことがわかったようだった。

 むっとしたように、彼は、不服を唱えた。


「なんだ、その意外そうな顔は。儂は、彼の家庭教師のディートリヒシュタインとは、昵懇の間柄なんだ。伯爵の家で、音楽会をしてやったこともある」

「年寄りの気難し屋のことですね!」


 フランソワが言っていたことを、アシュラは思い出した。

 雑記帳を覗き込み、ベートーヴェンは愉快そうに笑った。


「そのとおり! だが、ディートリヒシュタインは、紳士だよ。それに、芸術に対しては、常に謙虚だ」


 フランソワの家庭教師は、宮廷歌劇場の支配人も兼ねていた。


「その伯爵に頼まれて、皇族の前で演奏会をした。1818年、バーデンでのことだ」

「珍しい。貴族なんか大嫌いな貴方が……」

 アシュラはつぶやいた。



 基本、ベートーヴェンの収入源は、楽譜を売った印税と、音楽会の入場料である。

 彼は、民衆の作家だった。


 ルドルフ大公はじめ、援助してくれる貴族もいた。だが、ベートーヴェンは、常に彼らと対等な立場にあった。手厚い支援をしてくれたある侯爵に向かって、


 ……あなたが侯爵の地位にいるのはその家に生まれたからに過ぎない。それに、侯爵など、いくらでもいる。だが、私は、努力によって今の地位を手にした。その上、過去も未来も、ベートーヴェンは私ひとりだけだ!


などと豪語している。


 ベートーヴェンを支援してくれた貴族は、ある者は亡くなり、ある者は、没落していった。

 最後まで年金を送り続けたのは、ルドルフ大公だけだ。



 アシュラの口元を見ていたベートーヴェンが、眉を潜めた。

「何か言ったか?」

アシュラは首を横に振った。


「紛らわしく口を動かすな。……それでな。その城に、あの子もいたんだ……」

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