喉に刺さった棘 2
「大変です!」
ノエ警察官の事務所に、アシュラは飛び込んだ。
「殺人です! 暗殺です! 人殺しなんです!」
椅子の上であぐらをかいて、爪をパチンパチンと切っていたノエは、驚いたように振り返った。
「殺人? 穏やかじゃないな」
「陰謀、忙殺、殺戮です!」
知っている限りの言葉を、アシュラは並べ立てた。
ノエは、椅子から足を下ろした。
「いったい誰が、殺されるっていうんだ?」
「ライヒシュタット公です! ナポレオンの息子の!」
ナポレオンから王位を取り戻したのは、ブルボン王朝だ。最近、ルイ18世が亡くなり、弟のシャルル10世が後を継いだ。
シャルル10世は、かつて、ナポレオンの元に、暗殺者を送り込んだことがあるという。
今に至るまで、ウィーン政府には、警告状が寄せられている。フランスから、ライヒシュタット公を狙った暗殺者が送りこまれた、という警告だ。
中には、フランスの退役警察官からの警告状さえあった。
シューベルトの話を聞いて、アシュラが思いついたのは、それら警告状のことだった。
フランス・ブルボン王朝から放たれた危険が、フランソワのすぐ身近に迫っていると、彼は思い至った。
「それなのに、わが国の情報は、ザルです」
アシュラは言った。
ゆうべ、シューベルトは、ライヒシュタット公とカール大公の子どもたちの話をしてくれた。
話自体は、いかにもありそうなことだ。
よく知らないと嘆きつつも、フランソワは父親が大好きだ。そして、カール大公は、ナポレオンの好敵手だった。フランソワならきっと、カール大公の子どもたちに、自分の父親の自慢話をするだろう。
……カール大公を貶めつつ。
しかし、問題はそこではない。
誰が話したのかは巧妙に隠しつつ、アシュラはノエにこの話をした。
「この話の出処は、ナポレオンの養女、オルタンスだそうです」
「ナポレオンの養女か。今は、スイスにいるらしいな」
オルタンスは、義父ナポレオンの100日天下の後、ドイツ、イタリア等を亡命してあるいた。
その後、スイスのアレネンベルク城を買い取り、今はそこに住んでいる。
一応、動向は掴んでいたのかと、アシュラは思った。
「スイスって……、この話は、ウィーン宮廷の奥、皇族しか入れない部屋での出来事ですよ? 彼女は、どうやって、知ることができたと思います? 内通者がいたんですよ! ウィーン宮廷の内情は、オルタンスに、筒抜けだったってことです!」
「なるほど。だから、ザルか」
「感心している場合じゃないです!」
アシュラは勢い込んだ。
「オルタンスなら、まだいいです。ナポレオンは死んだし、彼女に、それほどの力はないでしょう。それに、血は繋がっていなくても、お姉さんですもの。彼女は、どちらかというと、ライヒシュタット公の味方だと思います。彼に、害をなすようなことはしないんじゃないかな。でも、オルタンスにできたということは……」
自分で言いつつ、背筋に寒気が走った。
「ブルボン王家にも出来る。共和派や、もっと危ない党派の人間にも!」
「薄々感じてはいたよ」
顎を撫で、ノエが頷いた。
「わが国は、綿密、とか、きっちり几帳面に、とかいうのは、苦手なんだな。どこかにぽっかり抜け穴が空いている。情報は、ダダ漏れ。しかも即座に、敵に伝わってしまう。誘拐犯も暗殺者も、ウエルカムって感じだ」
「ウエルカム、って何です?」
「英語だよ。歓迎って意味だ」
「冗談じゃないです!」
アシュラは叫んだ。
「そうだ! 馬車の車軸だ!」
言いかけたところで、ノエが遮った。
「ああ、それね。今朝、ライヒシュタット家の家庭教師から、届けがあったよ。車軸が外れそうになっている。原因を調べてほしいと」
ノエは、ため息を付いて、付け加えた。
「急げ、早く、大至急、とね! これだから、皇族が絡むと……」
アシュラは勢い込んだ。
「それで?」
「何だ?」
「だから、調べがついたんでしょ?」
「ああ、ついたよ。ひどく急かされたからな」
「で?」
「劣化」
「は?」
「だから、劣化だよ。車軸が摩耗してたんだ」
長い戦争や、会議のせいで、宮廷経済は火の車だった。いろんなものを、極限まで使っている。馬車の整備にまで、金がまわらないのだと判断されたと、ノエは語った。
「だって、皇帝の孫でしょう? そこで金をケチりますか?」
「でも、そういうことになった。警察長官のセドルニツキ伯爵がおっしゃるんだ。つまり、お偉方の意見ということだ。これ以上の調査は不要。手間が省けて、ありがたいじゃないか」
「ありがたい? あなたはそんな風には思ってないでしょ、ノエ捜査官」
ノエの正義感の強さと粘り強さは、アシュラは、よく知っている。
馬車の車軸に細工がされたのだとしたら……現実に犯罪が行われたのだとしたら、ノエがそれを放置しておくわけがない。
標的が、皇族であろうとなかろうと。
ノエは、口角を下げた。
「ふん。敏い部下は嫌いだね。部下は、無能なくらいが、扱いやすい」
「何か、手を打つんですね!」
わくわくして、アシュラは尋ねた。
ノエと一緒に犯罪捜査ができるとしたら、素晴らしい冒険になるに違いない。
それに……。
アシュラは思った。
ライヒシュタット公……フランソワは、知らない人ではない。これが本当に事件であるかどうかはおくとして、彼の為にひと肌脱ぐのも、悪くない。
「手を打つ?」
だがノエは、眉を潜めた。
「それは、この国の政府に逆らうことになるんだぞ……」
「まさか。
「いいか、アシュラ。セドルニツキ伯爵は、メッテルニヒの懐刀だ」
「メッテルニヒ侯ですって?」
クレメンス・フォン・メッテルニヒ。
外交官、そして、外相だった彼は、1821年に、オーストリアの宰相になっている。ウィーン会議では、諸国の王や大臣を、まさに御者のようにとりしきり、ヨーロッパをまとめた。
国境を引き直し、ナポレオンの登場をなかったものにした。
メッテルニヒは、
不意に出てきたこの国の宰相の名に、アシュラは虚を衝かれた。
身を乗り出すようにして、ノエが囁いた。
「今、パリでは、ライヒシュタット公の肖像が出回っている。ライヒシュタット公……ナポレオン2世のね! ハンカチーフ、葉巻入れ、手鏡……彼の絵がついた、身近で小さなものが、飛ぶように売れているんだ。そういうのが、また、ばかみたいに安価なんだ」
「安い? それじゃ、儲けが出ないじゃないですか。なぜ、安く売るんです?」
「持ち運ばれ、多くの人の目に触れるようにする為だ。私も、燭台を見たことがある。上のカバーを外すと、中から、剣をふりかざしたナポレオン2世が出てくるんだ。実に精巧で……美しい」
剣をかざしたナポレオン2世。
まさに、それは、ブルボン王朝への反逆そのものといえないか?
「いったい、誰が売ってるんです?」
「ナポレオンの支持者に決まってるだろ。だが、ボナパルニストだけじゃない。共和派も、イタリアへ渡った過激組織カルボナリも。とにかく、
「……不純ですね」
本気で支持するならまだいい。しかし、現政権への不満の気持ちから、彼を支持するなんて。
フランソワは、ただの、生意気な少年だ。
アシュラより1歳年下の、寂しがりやの子どもでしかないのに……。
フランス国民のナポレオン2世への支持は、彼への裏切りにさえ、アシュラには感じられた。
「不純ときたか」
ノエは苦笑した。
「その不純な支持が、メッテルニヒ宰相を苦しめているんだ。安定はしてきたが、ブルボン王朝は盤石ではない。ライヒシュタット公の存在は、せっかく回復したヨーロッパの秩序を、崩壊させかねない。彼は、我らが宰相の、『喉に刺さった棘』なんだ」
「喉に刺さった棘……」
「その上、皇帝の孫だ。殺してしまうわけにもいかないしね」
さらっと流れた上司の言葉は、最初、アシュラの耳を通過した。
その意味することに思い至り、彼は驚愕した。
「殺す? ですって? 宰相が、皇帝の孫を? じゃ、馬車の車軸は、」
「しっ、声が大きい!」
ノエは諌めた。
「さっきも言ったように、車軸の摩耗は、経年劣化だ」
「……」
「それに、宰相が、直接、手を下すようなことをするものか」
「……」
部下の頑固な不信顔を見て、ノエはため息をついた。
「だってね。宰相は、放置するだけでいいんだよ? 警備をつけずに放っておけば、ライヒシュタット公は、すぐ、敵の送り込んだ暗殺者の手にかかって、殺されてしまうだろう。……ブルボンの刺客の手でね」
「そんな……」
アシュラの脳裏に、青い瞳と金色の髪が蘇る。
「大丈夫だよ」
宥めるように、ノエは言った。
「今のところ、宰相は、ちゃんと、ライヒシュタット公を守っているから。彼の護衛を強化し、外国人の入国を厳しく規制して」
ため息をつくように、ノエは続きを吐き出した。
「かつての敵の息子を、外に出したら、ヨーロッパの平和を壊しかねない存在を、メッテルニヒ侯は、守り育てていかなければならない。今までも、そしてこれからも。ライヒシュタット公は、まだ子どもだ。だがじきに、おとなになる」
「だから、……だから、成人する前に殺してしまおうと? この国の宰相が!? だって、相手は子どもなんですよ? フランス人とドイツ人の混血の、ただの子どもでしょ!」
「私は何にも言ってはいないよ。ナポレオンの息子に、味方する義理もない」
「ノエ警察官!」
「いずれにしろ、雲の上の話さ。やっと訪れた平和を、我々庶民は楽しめばいい。長く続いた戦争の後の、ご褒美さ。これからは、小さな家庭の平和だけを守って、生きていけばいいんだ。皇帝や政府も、我々庶民に対して、そう、望んでいる。今は、そういう時代だと思わないかい?」
ビーダーマイヤー。
ウィーン会議後の社会は、後にそう呼ばれるようになる。
ピクニックや観劇に興じ、家庭を大事にする、小市民的価値観……。
小さな声で、アシュラは言った。
「……家庭がない人は?」
「これから作ればいいんだ。親の家庭は、与えられた家庭だ。自分で選んだわけじゃない。でも、その次の家庭は、自分で選び、築いていくものだ」
未だに人喰い鬼と罵られる父。
めったに会いに来ない母。
彼を抱きしめてはくれない祖父。
生まれてくる家を選べなかったのは、フランソワも同じだと、アシュラは思った。
彼の悲しみを見ないふりをして、自分だけの幸せを追い求めることは、正義といえるだろうか。
もしかしたら、フランソワは、誰も知らないところで殺されてしまうかもしれないのに?
だって、オーストリアの民を守ってくれる宰相は、彼を、守りたくないのだ!
「そりゃ、君は、ライヒシュタット公と会ったことがあるからな。高価なケープも貰ったし。彼に肩入れしたい気持ちはよくわかる。だがな。彼は皇族だ。立派な親戚がたくさんいる。祖父は、なんと皇帝だ。君が心配する必要なんか、これっぽっちもないんだよ」
アシュラは、納得できなかった。
「でも!」
「いずれにしろ、君には何もできない。俺に何もできないのと同じにね」
「……」
黙り込んでしまったアシュラを、暫くの間、ノエは見つめた。
優しい色の目だった。
ふと、怪訝そうに眉を顰める。
「ところで君、背中をどうかしたのか? なんだか痛そうにかばっているけど」
……そうだ。まさしく、そのライヒシュタット公に、突き飛ばされて転んだんだった。
……きれいな金髪、澄んだ青い瞳、年下の、生意気な少年に。
「なんでもありません」
アシュラは答えた。
*
「竜によじ登り虎に跨がる亭」で酔いつぶれている男に、少女が近づいた。
黒髪の少女だ。
男が薄目を開けた。少女を見て、へろりと笑った。
ふらふらと立ち上がり、少女の肩を鷲掴みする。
そのまま、彼女を杖にして、酒場の外に出ていった。
「竜によじ登り虎に跨がる亭」は、混み合っていた。客達は、安酒で、陽気に酔っ払っていた。彼らの何人かが、よろめきながら外へ出ていく身長差のある二人連れに気がついた。
ライヒシュタット公爵家の馬丁が解雇されたのは、それからすぐのことだった。
淫行が露見したのだ。
相手が悪かった。まだ、年端もいかない、少女だったのだ。
彼女の雇用主である作曲家から、訴えがあった。
貧乏ではあるが、高名な作曲家だ。
馬丁は、宮殿を追われた。
数日後。
ドナウ川の深みに、身元不明の男の死体が浮かんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます