喉に刺さった棘 1
「先生、とても素敵な演奏でしたわ」
頬を上気した令嬢が、シューベルトに話しかけてきた。
ヨハン・カール・エステルハージ伯爵の次女、カロリーネだ。
この夏、シューベルトは、彼女の音楽の教師を務めていた。
「いやいや。いや。その……」
へどもどと、シューベルトが謙遜する。
「……ああそうだ。音楽会は終わりましたが、貴女、歌いませんか? 私が、伴奏をしますから」
「そうね。もっと、人が少なくなったら……」
「カロリーネ!」
向こうで、父の伯爵が呼んでいる。
「ちょっと来なさい。リヒテンシュタインの若君に紹介するから」
「お父様ったら!」
カロリーネは唇を噛んだ。
「失礼だわ。私は、先生とお話しているのに」
「いいんですよ。お父上のおっしゃることには、従うべきだ。お行きなさい」
寛大な笑みを、シューベルトは浮かべた。
「じゃあ、またね、先生! また、ピアノ、教えてね!」
「うん」
カロリーネは、去っていった。
途中、一度振り返って、にっこり笑った。
シューベルトが、手を振る。
「ちょっと! シューベルト!」
「……」
「シューベルトったら!」
「……」
「フランツ・ペーター・シューベルト!」
フルネームで呼ばれて、シューベルトは飛び上がった。
アシュラ・シュタインが立っていた。
彼が連れてきた、年下の仲間だ。
「なにを、ほやほや立っているんです?」
「あ? いや、まあ……」
「随分、子どもっぽい喋り方をする令嬢ですね」
去っていったカロリーネの方を目で追いながら、アシュラは言った。
最後の挨拶を聞いていたようだ。
「あれは、わざとだ。初めて会った時からの、習慣なんだよ」
「初めて会った時?」
「うん。6年前だ。彼女は未だ、13歳だった」
「13歳!」
「天使だった! 健康そうな肌、つやつやと光る白い歯、そして、子どもらしい、ほっそりと痩せた背中……」
「いやいやいや、13歳ですよ!」
「それが、6年経って、今年の夏、再会したら、あんなにきれいな令嬢になっていて……」
6年前の1818年にも、シューベルトは、エステルハージ家の夏の別荘、ツェレス(ハンガリー)に、同行していたのだ。
「……恋、しちゃってます?」
こわごわと、アシュラが尋ねた。
たとえ名前が売れても、音楽家は、しょせん、使用人の立場だ。
ウィーンでも1~2を争うエステルハージ家の令嬢は、高嶺の花もいいところだ。
「まさか」
そわそわと、シューベルトは、帰り支度を始めた。
「彼女は子どもだ! 僕の生徒なんだ!」
そう言って、歩き始めた。
*
「そういえば、君、途中から姿が見えなかったね」
シューベルトとアシュラは、静かな夜の町を歩いていた。シェーンシュタイン男爵が、馬車で送ってくれると言ったのだが、月がきれいだから歩いて帰ると断ったのだ。
「庭にいました」
「薔薇の温室があったろう?」
「ありました。冬なのに、凄かったです。匂いが」
「匂い?」
シューベルトは苦笑した。
「匂いか。そりゃ、夜だもんね、嗅覚が殊更、敏感になっていたんだ。そうか。温室に入ってみたか。じゃ、君、彼に会えたんだね?」
「彼?」
「ライヒシュタット公だよ。僕に『魔王』の
シューベルトは、『魔王』誕生のいきさつについて話し始めた。暗いのでよくわからないが、アシュラは、食いつくように熱心に聞いている。
話し終わると、再びシューベルトは同じ質問を繰り返した。
「彼も、温室にいたと言っていた。君、『魔王』の男の子と話をしたのか?」
「いいえ」
少し、返事が早すぎた。
「だって、彼と同じ時間に、君も、温室に行ったんだろ?」
「僕は、誰にも会いませんでした。温室の中に、人はいませんでした」
「おかしいなあ」
「その子は、薔薇と薔薇の間に座り込んでいたんです。だから、僕には、見えなかったんです」
堂々とアシュラは言った。
「……ふうん」
「きっとそうですよ! 僕は、気がつきませんでした! 向こうもです!」
「なるほどね」
喧嘩でもしたのだろうと、シューベルトは思った。
この年頃の男の子は、どうでもいいことですぐ、喧嘩をする。その分、仲直りも早いのだが……。
「ところで、君、最後の連弾、聞いた? 『フランスの歌』を?」
「聞きました。つまり、えーと、窓の外で」
「窓の外! 寒かったろ。酔狂だな!」
「急いで戻ってきたんです。どうしても、あなたの演奏が聞きたくて。でも、最初の拍手が終わっていて、途中で入るのもよくないし」
しどろもどろとアシュラは答えた。
まるで、室内に会いたくない人でもいたようだ。
こりゃ、喧嘩で決定だな、と、シューベルトは思った。
皇族であっても、同じ年頃の男の子であることに変わりはない。喧嘩をするのは、必要なことだ。
「薔薇で思い出した。『フランスの歌』は、もとは、オルタンス・ボアルネが作曲したものだ。彼女の母親のジョセフィーヌは、それはそれは、薔薇が好きだったんだ」
「ジョセフィーヌ?」
「ナポレオンの最初の妻だよ。オルタンスは、彼女の、連れ子だ」
「ああ!」
わかったようなわからないような顔を、アシュラはした。
「それを、僕が編曲し、ベートーヴェンに捧げた」
「え! ベートーヴェンに!?」
「うん。革命の雰囲気が残っていたから。ベートーヴェンの反骨の精神によく似合ってる気がしたんだ。ベートーヴェンはとても気に入ってくれてね。甥御さんと連弾をして、楽しまれたそうだ」
誇らしげな顔を、シューベルトはした。そのまま続ける。
「オルタンスは、ライヒシュタット公のお姉さんになるんだ。彼女は、ナポレオンの
「ええと……」
アシュラは懸命に考えているようだ。まるで、親しい友人の情報を、必死になって消化しようとしているように見える。
その様子がおかしくて、シューベルトは、くすりと笑った。
「ところで、この曲を僕に教えてくれた人が、おもしろい話をしてくれたんだ。彼は、オルタンスに仕えていた人でね……」
……。
恐らく、2~3年前の話だ。
ある日、カール大公が、子どもたちを連れて、宮殿に遊びに来た。
子どもたちを別室に置き、カール大公は、兄の皇帝や親戚の皇族たちと話をしていた。すると、子どもたち、きゃっきゃと笑う声が聞こえる。
皇帝や、他の大公達の耳障りになってはいけないと思い、カール大公は、子どもたちのいる部屋に、足を運んだ。
「お前たち。一体何をそんなに騒いでいるのだ?」
カール大公が尋ねると、一番上の娘、マリア・テレジアが嬉しそうに答えた。
「今までここに、ライヒシュタット公がいらしてました」
「ほう、ライヒシュタット公が?」
「パパ!」
長男のアルブレヒトが、ぴょんと飛び上がった。
「パパは、負けたんでしょ? 戦争で、ライヒシュタット公のお父様が、パパのこと、負かせたんだよね!」
アルブレヒトが言い終わるなり、子どもたちは、いっせいに、げらげらと笑いだした。
「そうか。ライヒシュタット公がな。そんな話を……」
カール大公も、大きな声で笑いだした。
一瞬、息を詰めていた他の親戚たちも、一緒になって笑いだした。
……。
「ここに来る時に、
話し終わると、シューベルトは言った。
「ああ、車軸が傷んでいるとかいう……」
「あれ、ライヒシュタット公の馬車だった」
アシュラは、ひどく驚いたようだった。心配そうにつぶやく。
「大丈夫かな。帰り道……」
「それは、平気」
あの後、シューベルトは、ディートリヒシュタイン伯爵に、車軸が異音を発していることを教えた。
伯爵はひどく驚き、帰りは、エステルハージ家の馬車で送ってもらうと言った。
ほっと、ため息が聞こえた。
「それにしてもシューベルト、あなた、どうやって馬車の持ち主がわかったんですか? だってあの馬車、紋章を隠していたのに」
「紋章を隠していたからだよ」
「え? それは、どういう……」
「今、ウィーンで身分を隠さなければいけない方は、限られているからな」
「……」
ナポレオンが死に、父親が子どもを取り戻しに来るという可能性はなくなった。
だが依然として、その残党が、彼をさらいにくる可能性は残っている。
そして、より恐ろしい危険は……。
月明かりの下、アシュラが唇を噛むのが見えた。
※カール大公と子どもたちのエピソードは、
「リシャール大尉」アレクサンドル・デュマ[訳者については記載がないので割愛します]
を参照にしました。日本語版の紙の書籍はなく、オンライン上の翻訳作品ですので、完結を俟たず、ここでお知らせ致します。
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