そこに魔王がいる 4
※
演奏を終えたシューベルトは、あちこちをそわそわと歩き回っているディートリヒシュタイン伯爵を見つけた。
「伯爵!」
呼びかけると、硬い髪の縮れ頭の伯爵は、謹厳な顔をわずかに歪ませた。
音楽家に、微笑みかけたのだ。
「ヘル・シューベルト。素晴らしい演奏でしたね」
「伯爵のおかげです。伯爵が、僕を、世に出してくれたようなものです……」
「魔王」は、1815年11月に、ほんの数時間のうちに、作曲された。
当時、シューベルトはまだ、無名の若者だった。「魔王」は、彼の才能を信じた友人の手によって、ライプツィヒの音楽出版社に送られた。だが、出版社は、成功の見込みなしとみて、これを、作曲者に送り返した。
ところが間違えて、同名のアントン・シューベルトという音楽家に送付してしまった。
フランツ・シューベルトと違って名前が売れていたアントンは、自分の名を騙る者がいるとは……、と、怒り狂ったという。
その後、友人たちの努力が実り、「魔王」の初演が、1821年3月7日、ケルントナートーア劇場で行われた。
これは、大成功を納めた。
公演後、シューベルトはこの曲を、彼の庇護者で、ウィーン宮廷劇場の支配人であったもあった、モーリッツ・フォン・ディートリヒシュタイン伯爵に献呈した。
「嬉しかったよ。君から『魔王』を献呈されて」
ディートリヒシュタイン伯爵は微笑んだ。
「だが、君の友人に捧げるべきではなかったのかね? あるいは最初にこの曲を評価した、レオポルド・フォン・ゾンライトナーに」
「いいえ。ディートリヒシュタイン伯爵。貴方でなければならなかったのです。『魔王』を捧げるのは」
「光栄だ。だが、なぜ……」
「それは、貴方が、『魔王』誕生のきっかけだったからですよ。正確にいうと、あなたの乗った馬車が、です」
「え?」
……
今から10年前の、1815年6月。
一台の馬車が、ホーフブルク宮殿を目指して走っていた。
シューベルトは道端に立っていた。
がらがらと大きな音を立てて、すぐ目の前を、馬車が通り過ぎていく。
馬車は一頭立てで、沿道からも、客の紳士の姿が見て取れた。
モーリツ・フォン・ディートリヒシュタイン。
この日、フランスから来たプリンスの、家庭教師に任命されたのだ。
ナポレオンの息子、かつてのローマ王の。
父親から引き離され。
ずっと一緒だった付き人も、本国へ返され。
翌年には、母親も、パルマへ旅立っていく。
ウィーンでは、ナポレオンが息子を奪い返しに来ると、囁かれていた。
父親が、息子を奪い返しに来るという話は、その年の3月、ナポレオンのエルバ島の脱出で、現実味を帯びた。
ナポレオンはすぐに破れ、セント・ヘレナへと流されてしまったが、それでも、彼の脱走は、鮮烈だった。
慌ただしく走る馬車。馬。
我が子をさらいにくる、父親。
遠い孤島から伸ばされた、その長い腕。
魔王……。
実際にそれが、曲となって溢れ出たのは、その年の11月、父の家で、ゲーテの詩に触れたときだった。
陰鬱で恐ろしい詩は、シューベルトの心の中で、容易に、その春に見たディートリヒシュタイン伯爵の馬車と結びついた。
いかめしい伯爵と、その幼い生徒と。そして、遠い島に流された父……。
……
うっすらと、シューベルトは微笑んだ。
「ディートリヒシュタイン伯爵。あなたの生徒を、愛し、かわいがってあげて下さい。彼こそが、『魔王』の、
「『魔王』の、ミューズ?」
そこへ、金髪の少年が駆けてきた。
「プリンス!」
ほっとしたように、ディートリヒシュタインは叫んだ。
「探しましたよ、プリンス。いったいどこに行っていたのですか!」
「庭にいたんだよ。温室があって、薔薇がきれいだった」
寒い外から暖かい室内へ入ったせいか、少年の頬は赤く染まり、青い目は潤んで見えた。
「庭!」
ディートリヒシュタインは憤った。
「一人で外へ出たらダメだと、あれほど言ったでしょ」
「失礼、伯爵。その方が……」
シューベルトが割り込んだ。
ディートリヒシュタイン伯爵の頬が緩んだ。
「ああ、そうです。ライヒシュタット公です。ライヒシュタット公。こちらが、フランツ・ペーター・シューベルト。今日の、演者ですよ」
「こんにちは、ヘル・シューベルト」
行儀よく、少年はお辞儀をした。
「コリン先生のことは、気の毒でしたね」
シューベルトが言うと、プリンスの顔がみるみる曇った。
「おや。貴殿は、コリン先生のことをご存知でしたか?」
意外そうな顔で尋ねたのは、ディートリヒシュタイン伯爵である。シューベルトは頷いた。
「ええ。彼の韻文のいくつかに、曲をつけさせて頂きました。初めてお会いしたのは、1816年の初頭、だったかな? 僕の曲に、彼の詩を使わせてもらう許可を頂いた時でした。『Licht und Liebe(光と愛)』という歌曲です」
「コリン先生が、プリンスの家庭教師になった年だ! 彼は、その年の2月に、プリンスのところへ来たんだった。私が家庭教師になった、7ヶ月後のことだ」
ディートリヒシュタインがつぶやいた。
「失礼、ヘル・シューベルト。昔のことを思い出して、なんだか胸がいっぱいになってしまいました」
「僕はまだ、19歳の、無名の若造でした。それなのに、彼は、わざわざ会って下さって……。とても、優しい方でした」
「ええ、彼は本当に、優しい人でした」
ディートリヒシュタインの目は、潤み始めている。
コリンは、ナポレオンの息子の家庭教師としての任を受けるに当たって、ひどく迷っていた。だがそれを、今ここで、言う必要はあるまい、と、シューベルトは思った。
視線をプリンスに移す。彼は、表情をなくしていた。鼻の先を赤くした家庭教師とは、対照的に、蒼白な顔をしている。
泣きたいのだな、と、シューベルトは思った。でも今ここで泣き出すわけにはいかないから、必死になって、ふんばっているのだ。
作曲家は、にっこりと笑った。
「ライヒシュタット公。お会いできて光栄です。せっかくですので、今日の日の記念に、一曲、弾いてさしあげましょう」
シューベルトは後ろを振り返った。
「連弾で演奏します。どなたかもうひとり!」
ライヒシュタット公の御前演奏とあって、すかさず、手が上がった。
若い男性だった。
シューベルトと男性奏者は、ピアノに向かった。
無言で鍵盤に手を置く。息を吸って、呼吸を合わせた。
だんだんと、威勢のいい音が響き渡った。明るい、勇ましい曲調だ。
「僕、この曲は好きだよ。なんだか、鼓笛隊の演奏みたいだね」
フランツが、ディートリヒシュタインに囁いた。
「なんて曲?」
「いやはや」
ディートリヒシュタインは頭を振った。
「これは、『フランスの歌による変奏曲』といいます」
少しためらった。
結局、後を続けた。
「もとは、オルタンス・ド・ボアルネの作曲と、言われている。それを、シューベルトが編曲した、と」
オルタンスが、フランツの義理の姉であることに関しては、ディートリヒシュタインは、口を鎖した。
※オルタンス・ド・ボアルネ
ナポレオンの最初の妻、ジョセフィーヌの連れ子です。
フランツの母、マリー・ルイーゼは、ナポレオンがジョセフィーヌと離婚してからの、2度めの妻です。
フランツとオルタンスは、血はつながっていませんが、同じナポレオンの子(オルタンスは連れ子、フランツは実子)ということになります。
オルタンスが作曲し、シューベルトが編曲した曲は、
「フランスの歌による変奏曲」(op.10, D624)
ユーチューブで聞くことができます。
また、コリン先生作詞の「光と愛」は、Schbert D.352で検索頂けます。
マテウス・フォン・コリン作詞、シューベルト作曲の曲は、他にも、
「小人」(D.771)
「憂鬱」(D.772)
「夜と夢」(D.827)
があります
いずれも、数分の短い曲です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます