そこに魔王がいる 3
「君、震えてる……」
アシュラは、はっとした。
怒ったり尊大に振る舞ったりで、今まで、気がつかなかった。
温室の中なのに、フランソワは、震えていた。両手で自分の肩を抱くようにして。
「寒いのかい? ずいぶん長いこと、ここにいたの?」
「違う。そうじゃない……」
がたがたと、歯の根も合わぬほどの震えながら、フランソワは、ひとり言のようにつぶやいた。
「すごく緊張するんだ。たくさんの人とおしゃべりしなくちゃ、ならなくて。毎日毎日、いろんな人と。叔父さんが、結婚したんだ。それで、お客さんが、たくさん来る。殆どが、知らない人さ。その誰とも、僕は、うまく合わせなくちゃならない。楽しませて、いい気持ちにさせなくちゃいけないんだ。無理だよ。だって、外国人で、言葉もわからない人だっているんだよ? それなのに、みんな、僕のところに、挨拶に来る……」
アシュラには、人をもてなした経験がない。いつもの気楽な気持ちで、彼は遮った。
「うまくできなくても、いいじゃないか。ほっときゃいいんだよ。いっそのこと、怒らせて、追い返してやればいい」
「だめだよ、そんなの」
「俺なら、そうするけど。なんなら、君の代わりに、怒らせてやろうか? 得意だぜ、そういうの」
フランソワは目を丸くした。
「だめだよ、そんなの。お祖父様が困る」
皇帝が恥をかくのは問題だと、今更ながらに、アシュラも思った。絶対の自信を持って、彼は続けた。
「言葉のわからないやつは、たいていは、トルコ人だな」
「いや、客はまだいい。言葉がわからなければ、好都合だ。我慢出来ないのは……」
フランソワは唇を噛んだ。
「我慢出来ないのは、僕の前で、ナポレオンの悪口を言うやつだ!」
「……ナポレオン。えと、ボナパルト?」
「違う。ブオナパルテって言うんだ。悪鬼。人食い鬼の、ブオナパルテ」
「それ、聞いたことある!」
無邪気にアシュラは叫んだ。
慌てた。
「あ、ごめん。君のお父さんのことだったよね」
フランソワは、だが、平静だった。
「構わない。だって僕は、父のことを、全然、知らないから。2歳の時に離れたきり、会えなくなった。僕が父のことを尋ねると、家庭教師の先生たちは、気まずそうな顔をして、視線をそらす。お祖父様は、怒り出す」
自分が村の古老から聞いた話はしない方がいいだろうな、とアシュラは思った。アシュラの村は、フランス軍との戦場になった土地の、すぐ近くにあった。
「父の悪口を言われて、僕は言い返すことができない。だって、知らないから。どういう人だったのか。僕のことをどう思っていたのか。なぜ……」
声が潤んだ。
「なぜ、僕のことを迎えに来てくれなかったのか!」
「いや、それは、来れなかったんだと思うよ……」
「それならどうして、手紙をくれなかったんだ? 一通も!」
もちろんそれは、秘密警察が横取りしたからだ。
アシュラには、予測がついた。だが、今更それを言って何になる?
フランソワも、わかっているようだった。力なく項垂れ、彼は言った。
「お祖父様を頼れば良かったんだ。カール大公だってヨーハン大公だって、きっと、手紙を取り次いでくれたはず……」
ナポレオンは息子に手紙を書いたのか。
もし書いたとして、皇帝や大公達なら、それをフランソワに取り次いでくれたのか。
それとも……。
アシュラには、わからない。
それは、フランソワも同じようだった。誰を疑っていいのか、わからない。しかも、相手は、最も親しい肉親だ。
深い孤独と、猜疑の中に、彼はいた。
「パルマのお母様は、父は僕に、財産を残してくれなかったと、ぶつぶつ言っている。僕のことを考えてくれているのは、お祖父様だけだと。僕は、財産なんて、いらない。知りたいだけだ。父は、僕のことをどう思っていたのか」
「いや、お金は大事だと思うよ?」
アシュラはつぶやいた。自分の両親のことを考えたのだ。
低く弱い声は、フランソワまで届かなかった。
くしゃりと、その顔が歪んだ。
「オーストリアは、フランスと、敵同士だった。僕が生まれてきて、結局、父には、迷惑だったのだろうか」
泣くまいと、必死で堪えている。生意気なフランソワは、今は、可憐で寄る辺なく見えた。
小さいものを守る本能が、アシュラの裡に芽生えた。
一歩、近づいた。
「来るな」
不意に、鋭い声が、警告を発した。
「あっちへ行けよ。僕のことは、放っておいてくれ」
「やだね」
そんな風に言われたら、なお一層、そばに踏み込みたくなる。もう一歩、アシュラは、前へ踏み出した。
フランソワは、ヒステリックに足を踏み鳴らした。
「近づくなったら! 同情は嫌いだ。僕に同情なんかしたら、お前、死ぬぞ」
「は?」
「フランク
フランソワは、目を
「……僕を追いて出ていったから、エミールとフランスのレディー達は、大丈夫。きっとどこかで、元気でいるはずだ。レオポルディーネ叔母さんも、ライナー大叔父様も、無事で居てくれるに違いない。お母様は、ご存知なんだ。だから、なかなか、僕のところに来て下さらないんだ!」
「君、何、言ってんの?」
「僕に、よくしてくれたら、ダメなんだ。僕に良くしてくれる人は、きっとみんな、いなくなる。悪くすると、死んじゃうんだ!」
言い終わるなり、フランソワは、すすり泣き始めた。
「よしよし。いい子いい子」
つぶやいて、アシュラはフランソワを抱きしめた。
「な、何をする!」
力いっぱい突き飛ばされた。
「僕に触るなんて!」
「小さい子どもが泣いていたら、こうするんだよ」
確信を持って、アシュラは教えた。
「だって、シューベルトは、いつもこうしてる。小さい弟や妹に」
手近な木の椅子に座った。ぽんぽんと自分の膝を叩く。
「ほら、早く。ここに頭を乗せるんだ」
「だって、そうするには、君の前に膝をつかなくちゃならないじゃないか」
「そりゃそうだ」
アシュラが応じると、フランソワは喚き立てた。
「そんなことができるわけがない! 僕は、神の前以外では、絶対に跪かないぞ!」
アシュラは呆れた。
「立ったままじゃ、頭に手が届かないじゃないか」
だが、フランソワは、頑固に動こうとしない。うつむいたまま、上目遣いに、アシュラを睨みつけている。
「仕方がないなあ」
アシュラは手を伸ばし、彼の腰を掴んだ。
「おい! 触るなったら!」
強引に、後ろ向きにさせる。暴れるのをひょいと背中から抱き上げ、自分の膝に乗せた。胸に閉じ込めるようにして、頭を撫でる。
「ほら。いい子いい子」
「……」
「いい子いい子。可愛い子」
フランソワが、暴れるのを止めた。
「……みんなそうなのか?」
ぼそりと尋ねた。
「お前たちはみんな、そうやって、子どもの頭を撫でるのか?」
「うん」
「お母さんが?」
「お母さんのことはわからない。僕には母がいないからね。赤ん坊の頃に出ていった」
「そうか。悪いことを聞いた」
「全然。僕には父がいる。……あ、ごめん」
今度はアシュラが謝った。これで2回目だ。
「全然」
フランソワが真似をした。
なおも、髪を撫で続ける。丁寧に、優しく。シューベルトが妹や弟にするように。
物陰から見ていて、アシュラは、いつも、羨ましく思っていた。彼が羨ましかったのは、妹や弟の方だったけど、でもこうして、自分より小さいものの髪を撫るのは、悪くない。
「かっ、体に触れるのは、いけないことなんだ」
前を向いたまま、フランソワの声が、裏返った。耳の上が、真っ赤になっている。
「だから、従者は誰も、僕には触らない」
「なにも従者に、いい子いい子してもらわなくても……、君には、お母さんがいるんだろ?」
「母上は、遠くの国を治めていらっしゃる。たくさんの人民が、母上を慕っているから、僕のところには、なかなか来られないんだ」
「お祖父さんは?」
「お祖父様は、皇帝だ。そんな風に、身内を甘やかしたりはなさらない」
寂しそうな声が、アシュラの胸を打った。
皇帝というのは、人ではないのだな、と、彼は思った。きっと、もっとずっと、神に近い存在なのだ。
頭を撫でてもらいながら、フランソワは、じっとしている。こわばっていた体が少し解けて、アシュラにもたれかかってきた。
「昔……まだ僕が、小さかった時……」
ためらいがちに、フランソワは口にした。
「たったひとり、……父上だけが……僕を抱きしめて、髪を撫でて下さった。そばにおられる時は、いつだって、いつも体の一部が触れ合っていて、父の体温を感じ取ることができた。それ、すごく、安心できるんだ。あんな安心は、もう二度と得られない……」
「ふうん」
フランソワの父は、フランスのナポレオンだ。オーストリアでは鬼と言われたナポレオンも、ちゃんとお父さんだったのだな、とアシュラは思った。
……フランソワのお父さんも、こんな風な、細くて金色の髪だったのかな?
くるくると巻かさった髪は、柔らかく、触り心地が良かった。
「なあ。これ、一本貰っていい?」
「いいけど。どうするんだ?」
貰った深緑色のケープの上に置いたら、すごく映えるだろうと、アシュラは思った。
フランソワと初めて会った時、金色の髪とのコントラストが、息を呑むほど、美しかった。
あの上に置いたら……。
だがそんなことを教えてやるのは、癪だった。それで、彼は言った。
「女の子にあげたら、喜ぶと思って」
「お前!」
膝からフランソワが滑り降りた。
「最低だな!」
くるりと向き合って、足を踏み鳴らした。怒りで青い目が燃えている。
その鼻が蠢いた。アシュラのシャツに鼻を近寄せる。さっき、グラスの酒をこぼした辺りだ。
ぴょんと飛び退いた。
「お酒臭い。お酒を飲んだな! 子どもは、お酒を飲んだらいけないんだぞ!」
「いや、俺は子どもじゃないし……」
「僕よりひとつ上なだけじゃないか!」
フランソワはがなりたてた。
「ディートリヒシュタイン先生に言いつけてやる! お前は、堕落しているって!」
「でぃーとりひしゅたいん、って、誰だ……?」
「年寄りの気難し屋だ!」
どん、と、力いっぱい、肩を突かれた。
「わっ!」
たまらず、アシュラは、椅子ごと後ろに倒れた。
フランソワが温室を走り出ていくのが見える。子鹿のように敏捷に、彼は、夜の闇に消えていった。
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