そこに魔王がいる 2
……なぜ、庭に川が流れているのか。
だが、助かった。
アシュラは川の水で口を濯ぎ、ついでに首から胸にかけても洗い流した。
嘔吐する寸前に脱ぎ捨てた……それは目にも止まらぬ早業だった……シャツを、着直した。
……ううう、せっかくの料理を無駄にしてしまった。
誘惑的なデザートのテーブルに行けなかったのが、心残りだった。
だが、まだ胸がむかむかする。再びホールに戻って、飲食をする気には、とてもなれない。
ふと、屋敷の喧騒とは反対の方向に、ちらちらと小さな明かりが揺れているのに気がついた。
光に向けて、アシュラは歩き始めた。
バカバカしく広い庭だった。まるで、プラーター公園(ウィーンにある公園)に紛れ込んだようだ。
大きな樫の樹を回り込んだ辺りに、温室があった。ちょうど、館と対面の位置にある。ガラスの内部が、月明かりに、ぼんやりと浮き上がって見えた。
いくら暖かいとはいっても、冬である。そろそろ体も冷えてきた。アシュラは足音を忍ばせて、中に入っていった。
驚いたことに、中には薔薇がたくさん咲き乱れていた。
赤。ピンク。黄色。白。
芳しい香りが、満ち溢れている。うっかり吸い込むとむせ返りそうな、強さだ。
……あれ。
花と花の間に、人が、埋もれていた。膝を立てて座り、顔を伏せている。月の光に照らされて、金色の髪が、鈍く光っていた。
薔薇の妖精だと、アシュラは思った。
「誰?」
白い顔が持ち上がった。
「あっ! お前!」
月の光の下で、相手の顔は、ことさらに白く見えた。鼻筋がすっと通り、ふっくらとした唇が愛らしい。
「やっぱりな。音楽会だから、きっと、来ると思った。お前、秘密警察官なんだってな。子どものくせに、生意気だ」
そう言って、立ち上がった。
妖精なんて、かわいいものじゃなかった。
あの時の子だ。
つまり……。
「ライヒ、シュ、」
で、舌がもつれた。
相手は、鼻に皺を寄せた。
「フランソワでいい。恩人の名前ぐらい、しっかり覚えておけ」
高飛車な言い方に、アシュラはむっとした。
「恩人? そもそも俺が捕まったのは、君のせいじゃないか! 君が、警護の奴らを押し付けるから。まあ、君には俺のことなんか、どうでもよかったんだろうけどね!」
「悪かったよ」
意外なくらい、あっさりと、フランソワは謝った。
「巻き込んで悪かった。許してほしい、アシュラ・シャイト」
……あれ?
……俺の名前、覚えてたのか……。
「すぐに釈放するように頼んだんだけど。でも、僕には力がない……」
フランソワは、ため息をついた。
……力がない。
それはまさに、アシュラも同じだった。
子どもには、力がない。ましてこの子は、「高貴な囚人」だ。彼の檻は、黄金でできているのかもしれない。だが、「檻」であることに変わりはない。
単純なアシュラは、フランソワが気の毒になった。
「いや、まあ、そんなに怒っているわけでは……あ、ケープをありがとう」
フランソワの顔が、ぱっと輝いた。
「受け取ってくれた?」
「うん。売って、女を買うように言われた」
「女?」
白い顔に、侮蔑の色が浮かんだ。
「買ったのか?」
「いや……」
「買わなかったんだな」
当然、という風に決めつけた。
アシュラは、むっとした。
「いや、いや……、ちゃんと買ったぞ」
「ふうん」
「買った!」
「嘘だな」
「嘘なもんか」
「嘘を吐くと、死んでから、魂が救済されなくなるんだぞ」
「平気だよ、そんな先のこと。いいさ。今度、君も連れてってやる」
「どこへ?」
「女を買うところ」
「遠慮する!」
切り捨てるように、きっぱりと断られた。
フランソワは、怒ったように、言葉を重ねる。
「人のことを叱りつけたくせに、お前、今夜もまた、音楽会を抜け出してきてるじゃないか」
「それには、理由があって、」
酒に酔って吐いていた、などとは、言えない。
しどろもどろしていると、フランソワは、さらに厳しく問い詰めてきた。
「自分の席を譲る為ってのは、言い訳にならないぞ。今夜の観客は、全員、招待客だからな。席は確保されている」
「……『魔王』なら、もっと素晴らしい演奏を知っている。僕はいつだって、シューベルトの演奏を聞くことができる」
少なくともこれは、嘘ではない。
フランソワは、鼻で笑った。
「ふん。また、あの時と同じことを言う」
アシュラは、かっとした。
「本当のことだから、言ってもいいだろ! 君こそどうして、こんなところで蹲っているんだ? 君がいなくなると、また誰かに迷惑がかかるんじゃないのか?」
「僕はあの曲が嫌いだ!」
ぼそりと、フランソワはつぶやいた。
「嫌い? 『魔王』が? なんで?」
「なんででもいいだろ!」
そう言いつつ、フランソワは、両手でを胸の前で交差させ、自分の肩を抱くようにした。
ははん。
アシュラは悟った。
「君は、『魔王』が、怖いんだな?」
「怖くなんかない! 僕には怖いものなんか、ひとつもないんだ!」
フランソワはいきり立った。
ひどく子どもっぽく見えて、おかしくなった。それで、アシュラは、年上の余裕を見せた。
「大丈夫。君が怖くっても、無理はないさ。あれは、僕だって、怖いもの」
「お前も、怖いの?」
恐る恐る、フランソワが尋ねる。
……ほらね。やっぱり。
アシュラは大きく頷いてみせた。
「そうだよ。だって、魔王がさらいにくるんだもん。そりゃ、怖いよ」
「子ども、最後に死んじゃうんだよね」
恐る恐るといった風に、フランソワは口にした。
最初のテノール歌手の演奏を、彼は、最後まで聴いたようだ。それで怖くなって、ここまで逃げ出してきたのだろう。
なんだかちょっとかわいいな、と、アシュラは思った。自分には弟はいないが、もしいたら、きっとこんな感じなのだろうと思った。
フランソワは、唇を尖らせた。
「ひどい歌だ。魔王に追いかけられて、でも、お父さんには信じてもらえないなんて! 僕は、魔王の娘となんか、絶対、遊びたくない!」
「シューベルトは、曲をつけただけだ」
魔王の娘たちと遊びたくないのはアシュラも同感だった。だが彼は、とりあえず、作曲家の擁護をした。
フランソワはなおも言い立てる。
「曲だって怖いよ。ピアノの音が、どろどろ言うじゃないか。それで、最後に子どもは、死んじゃうんだ」
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【ご参考までに】
ゲーテ「魔王」
(生田春月 訳)
こんな嵐の夜更けに馬を駆かるのは誰か?
それは父親とその子供とだ
父はわが
しかと、温かく抱いている
『坊や、なぜそんなに恐ろしそうに顏隠すのだい?』
『
冠をかぶって裾を曵ひいてるあの魔王を!』
『坊や、あれは霧が
《ねえ坊ちゃん、いい児だからこっちへお出で!
面白いことをして遊びませんか
きれな花のたくさん咲いている岸辺へ来て
わたしの母は
『お父さま、お父さま、あれお聞きなさいな
魔王が坊やに小声で約束しているよ!』 ―
『安心をし、安心してお出で、ねえ坊や
あれは枯葉が風にがさがさ鳴ってるのだよ』
《坊ちゃん、ねえ坊ちゃん、一緒にまいりましょう!
わたしの娘たちはあなたを待ちかねてます
わたしの娘たちは手を取って夜の踊をおどります
踊って歌ってあなたを寝かせてあげますよ》
『お父さま、お父さま、あれ御らんなさいな
あのむこうの暗い処ところに魔王の娘の立っているのを!』 ―
『坊や、ねえ坊や、あれは何でもないよ
あれは古い灰色をした柳の樹だよ』
《かわいい坊ちゃん、わたしの大好きな坊ちゃん
あなたが承知しなければ無理にも
『お父さま、お父さま、あれ魔王が僕を
魔王が僕をこれこんなに
父はぞッとして、一目散に馬を飛ばした
彼はしくしく泣く児を腕に抱いたまま
やっとのことで屋敷に着くと
子供は腕に死んでいた
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