そこに魔王がいる 1


 *



 「それで、何の話をしてたんだい、マイヤーホーファーと」

 シューベルティアーデの集まりから数日後。

 並んで歩きながら、シューベルトが尋ねた。


 シューベルトは近視で、顔を近づけてものを見るくせがある。手足は小さく、子どものようだ。

 14歳のアシュラと、ほぼ同じくらいの身長しかない。いささか、もっさりとした外見だ。

 もしあるとしたら、13歳も年下のアシュラでさえ、母性本能を刺激されそうな容姿である。



「ベ……、」

 危ういところで、アシュラは言葉を飲み込んだ。

 ベートーヴェンの話はしないというのは、マイヤーホーファーとの約束だ。

 秘密警察員として、アシュラ自身も、墓穴を掘ることになる。

 口ごもって、アシュラは答えた。

「芸術の女神ミューズについて」


「ミューズ?」

「ええ。マイヤーホーファーは、シュヴィントに、ミューズの座を奪われたことを、嘆いていました」

「ミューズ。誰の?」

「あなたの」

「僕の!? マイヤーホーファーが、僕のミューズだって? ミューズってのは、女神だろう。きれいな女の神様の筈だ!」

「そして多分、後ろがつるっ禿げなんですよね」

「君、それは、チャンスの神様だよ」


 ふと、シューベルトの顔が曇った。

 何かにじっと、耳を澄ましている。


「あの音……」

 彼は言った。


 馬車が近づいてくる、がたがたという音が聞こえる。黒塗りの、立派な馬車だ。

 馬車の下のあたりに目を据え、シューベルトは言った。

c♭ ツェスだ。ツェーの音が、半音下がってる」


「はい?」

「アシュラ! あの馬車、車軸がおかしくなってるよ」

「え?」



 シューベルトは、あらゆる音を、音階で捕らえる。

 通常、「ツェー(ド)」であるべき音が、半音下がって聞こえる、というのだ。


 アシュラにはわからなかった。普通の馬車が立てる音と変わらない。



 「異音が混じっていた」

 なおもシューベルトが主張した。


 シューベルトは、優れた音楽家だ。鋭い耳の持ち主でもある。

 アシュラには聞こえない、何らかの異常を、その耳が聞き取ったということだ。


 馬車は、がたがたと走り去っていく。

 大通りを曲がり、脇道へ入るのが見えた。


「あれ。目的地は、僕らと同じようだな」

 シューベルトはつぶやいた。



 二人はこれから、エステルハージー家の音楽会に行くところだった。

 シューベルトの演奏会だ。


 ウィーンの裕福な家庭では、音楽家を招いて、家庭演奏会を催すことがよくあった。今回の音楽会は、F・カール大公のご成婚を祝っての音楽会だということだった。



 眼鏡の奥の目を、シューベルトは細めた。

「エステルハージー家のお客だな。家令にでも教えてあげなくっちゃ。立派な馬車だったけど、あのままじゃ、いつか、大事故を起こす」

「でも、誰の馬車だったか」

「うん、紋章を隠していたもんな……」


 つぶやきつつ、シューベルトは首を傾げた。

「……彼は今日、来るのかな?」


「彼?」

「魔王の男の子だよ」

「は?」


 どうやらシューベルトには、馬車の持ち主の、心当たりがあるようだった。



 「ところでアシュラ。今日は、また随分と、おめかししてきたじゃないか」

 揶揄するように、シューベルトは言った。

 黒いズボンに白いシャツ。決して高価なものではないが、アシュラの一張羅だった。


「だって、エステルハージー家でしょ。大貴族じゃないですか。ちゃんとした格好で行かないと、追い出されちゃうかもしれないでしょ」

「僕の連れだもの、そんな心配はないさ」



 シューベルトは、エステルハージー家の二人の令嬢の、音楽の教師を勤めていた。その年の春から夏にかけて、一家とともに、ハンガリーの夏の別荘へも行っていた。



 「ご馳走が出るぜ。遠慮することはない、僕が演奏している間、たらふく食べるといい」


 こういう優しいところが、シューベルトにはあった。

 ふだん、かつかつの生活をしているアシュラを、思いやってくれているのだ。


「ありがとうございます。1週間分は、食いだめする気で来ました」

「頑張り給え。だが、礼にはおよばない。僕の金じゃないし」

 照れくさそうに、シューベルトは笑った。






 「家庭」音楽会とは、名ばかりの盛況ぶりだった。

 大勢の着飾った貴賓達が次々と到着し、家令が名を呼ぶ。アシュラでさえ知っている、有名貴族の名も、ちらほらあった。


 そんな人達を前にして、堂々と演奏するシューベルトは立派だった。ピアノに向かい、落ち着き払って演奏している。割れるような拍手に、微笑み返す余裕さえあった。


 シューベルトは褒めてくれたが、アシュラの格好は、いかにもみすぼらしかった。麻の服は、ごわごわしていて、安っぽく見える。きちんと洗濯はしてあったのだが、太陽の光を浴びすぎて、色褪せている。


 しかし、そんなことを気にかけている場合ではなかった。


 肉である。見たこともないほど大振りな肉が、テーブルのそここに、無造作に置かれている。鳥肉らしいものもあった。いずれも、とろりとした茶色や緑のソースがかけられている。


 アシュラが食べたことのある肉は、罠で捕まえたウズラがせいぜいのところだ。それも、火で炙って、すぐさまかじりつく。

 ソースをかけてもらえるなんて、こいつらは、さぞや高貴な鳥獣だったんだろうと、アシュラは感嘆した。


 肉以外にも、さまざまな料理があった。緑の野菜を、正体不明の何かで、くるくると巻いた食べ物。明らかに卵だけど、卵焼きじゃない何か。また、紙みたいに薄っぺらく引き伸ばした料理もあった。


 立食形式だった。アシュラは、遠慮しなかった。

 一応、シューベルトの連れなので、彼に迷惑をかけないようには振る舞っているつもりだ。周囲の人をよく観察して、マナーには気を配っている。テーブルから手づかみで直接掴み取ることはせず、大皿の脇に用意されていた、巨大なスプーンやフォークを使った。


 取り皿がいっぱいになると、人のいないホールの隅に引き込み、がつがつと貪り食った。


 素晴らしくおいしかった。今まで食べたこともないほど、濃厚な味、なめらかな舌触りだった。中には、少しえぐみのあるものもあった。でもこれは、食べ慣れると癖になるに違いないという、予感がした。


 デザートは、別のテーブルだった。

 甘い匂いのするテーブルに移る前に、きれいな、透き通ったグラスを取り上げた。

 揮発性の高い、芳醇な匂いがする。

 芳醇すぎて、口に含んだら、むせそうになった。口の中で蒸発し、頬が内側から刺されるようだ。


 ……酒だ。


 もちろん、アシュラは、酒を飲んだことがないわけではない。

 今まで飲んだ酒は、泥水だったのかと思った。この透き通った液体は、さらさらと喉を滑り落ちていく。

 体が、ぽっと熱くなった。

 安酒を喰らった時の酩酊感とは、段違いの気持ちの良さだ。


 陽気な気分になった。更にもうひとつ、アシュラは透明なグラスを掴んだ。口に運ぶ時に、手が震え、高価な液体が、シャツにこぼれた。もったいない、と、あせった。シャツの染みは、間もなく、蒸発して消えた。

 揮発性が高いので、こぼれた酒まで、体温でが飛んでしまうのだ、と感心した。


 ……それにしても、高い酒というのは、酔わないものだな。

 彼にとって、酒に酔う、というのは、ふらふらとして、気分が悪くなることだった。気分のよくなる酒なんて、初めてだ。


 今度は、チェリー色のグラスを試してみようと手を差し伸べた時、おどろおどろしいピアノの前奏が鳴り響いた。

 シューベルトの演奏が始まるのだ。

 アシュラにとって、音楽は、何より神聖だった。シューベルト本人の演奏なら、なおさらだ。

 慌ててグラスをテーブルに戻す。


 乱れ打つピアノの旋律が、馬の蹄のような迫力で迫ってくる。すぐにそれは、不安を誘う曲想に変化する。

 歌が始まった。



 暗い森走る馬 その背には親と子 

 震えおののく我が子を しっかと父がいだいて


 坊やそんなに寒いのか


 お父さん そこに魔王がいる  

 恐い目の魔王だよ


       (訳詞 小林 純一)




 「魔王」だ。ゲーテの詩をもとに、シューベルトが曲をつけたものだ。

 もう、何度めの演奏だろうか。

 さっきはテノール歌手が歌っていたが、今度は、ベース歌手がピアノの脇に立っている。

 重量感ある歌声は、低く唸るようだ。ドイツ語の巻き舌と、シュッという切れも、迫力がある。

 一流の歌手の声量はさすがだと、アシュラは改めて思った。


 「……」


 不意に、アシュラは口元を抑えた。

 濃厚な気配がこみ上げてくる。

 幸い、大きな窓のすぐそばにいた。

 慌てて庭に飛び出した。


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