シューベルティアーデ 2




 「マイヤーホーファーさん。もうお酒は、止めておきましょ」

アシュラはグラスを取り上げた。



 ヨーハン・マイヤーホーファーは、シューベルトより10歳ほど年長だ。官庁勤めの傍ら、詩を書いている。シューベルトの、コンヴィクト(音楽学校)時代からの友人を通して知り合った。


 ちなみに、アシュラも、彼らよりはるか後輩ではあるが、同じ学校で学んでいた。少年聖歌隊の一員でもあったアシュラは、声変わりの時期に至り、聖歌隊と共に、学校も中退した。作曲や演奏の勉強を続ける道もあったが、ある事情から、断念した。



「うるさいぞ」

 マイヤーホーファーが、アシュラの手から、グラスをひったくった。

 グラスに残っていた酒がこぼれて、二人の手にかかる。

「お前に俺の気持がわかってたまるか」


 マイヤーホーファーは、詩を書いていた。フローラが言ったように、シューベルトは、100篇位上の彼の詩に、曲をつけている。これは、ゲーテを除けば、一番多い。


 一息にグラスの酒を飲み干し、マイヤーホーファーは、大声で叫んだ。

「今はシュヴィントだ。彼のミューズは、シュビントの描く絵に乗り換えてしまったんだよ」

 さっき、フローラと言い争ったことが、よほど胸にこたえているようだ。



 モーリツ・シュヴィントは、4年前から、シューベルティアーデの集まりに参加し始めた。

 シューベルトよりも、7つ年下の青年だ。 ウィーン美術アカデミーに学び、絵を描いた。


 彼は、熱烈な、シューベルトの讃美者だった。

 潤んだ大きな青い目、赤い唇。女性のようにきれいな顔をしてた。体つきも華奢で小柄だった。

 16歳でシューベルティアーデに参加したシュヴィントは、瞬く間に、シューベルトの友人たちの人気者になった。



 「シュヴィントは、君に似てるな」

苦いものでも吐き出すように、マイヤーホーファーは言った。

「え? だって僕は、、黒目黒髪ですよ?」

あっけに取られ、アシュラは答えた。


 苦いものでも食べたように、マイヤーホーファーは口を歪めた。

「シューベルトのタイプだってことさ」

「いや、それは、全然違うでしょう……」


 シュヴィントがシューベルトの好みのタイプだとしたら、アシュラは、全然、違う筈だ。彼は黒目黒髪、母方のどこかで、東洋の血が混じっている。体つきも、痩せてはいるが、華奢とは言い難い。


「だって君は、よく、彼の家に招かれている。お父さんの家や、兄さんの家にも」

「僕の年齢が、彼の異母妹いもうと異母弟おとうとたちと近いからですよ。姪御さんにも。シューベルトは、僕のことを、彼らのいいお守りになると思っているらしいんです」


「だからって、しっぽを振って遊びに行くお前もお前だ」

 どうやらマイヤーホーファーは、アシュラに、難癖をつけたいようだった。

「君、シューベルトから、『最愛の』アシュラと言われたことがあるか?」

「ないですよ」

心からむっとして、アシュラは答えた。


 「最愛の」シュヴィント。

 シューベルトは、年下で初心うぶな讃美者を愛で、人前でよく、こう呼んでいた。



 マイヤーホーファーは、酔っているようだ。

 しつこくアシュラに絡んでくる。

「だが、シュヴィントと違って、お前は一途じゃないな。だって、ベートーヴェンの家に入りびたっているじゃないか」


「えっ!」

見られたか、と、アシュラは思った。


 どうやらこれが、マイヤーホーファーがアシュラを連れ出した理由らしい。

 激しく乱れ打つ鼓動を感じながら、アシュラは、万が一のために用意してあった口実を口にした。

「僕はただ、ベートーヴェン家の、家事のお手伝いをしているだけです」


「うむ」

 マイヤーホーファーは首を振った。

「そうだろうよ。あの偏屈な音楽家が、それ以外の理由で身の回りに人を置くわけがない。大方、誰も、来てくれなくなったんだろう。お前のような子どもの他に」

「その通りです」


「子ども」は、癪に触ったが、大事の前の小事である。アシュラは、言い返さなかった。 


 「あのなあ」

マイヤーホーファーは言葉を切った。酒臭い息をふうーっ吐き出す。

「ベートーヴェンは、だめだぞ」

「は?」

「もちろん、偉大な作曲家だ。だが、ダメなんだ」

「えと、それは、どういう……」

「彼は、反体制側だ」


 どうやら自分を糾弾するわけではなさそうだと、アシュラは思った。とりあえず、ほっとする。

 マイヤーホーファーは、彼の秘密を嗅ぎつけたわけではない。家事の手伝いという、口実を信じたようだ。


 ……それにしても、「反体制側」だって?



 マイヤーホーファーは頷いた。

「俺が、官庁勤めなのは知ってるだろ? いろんな情報が入ってくる。中には、秘密警察がらみの情報もある。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、戦時中にナポレオンに与した貴族達と、太いパイプがあるんだ。それで、今でも、当局に目をつけられている」


 マイヤーホーファーは知らない。

 アシュラこそがまさにその、秘密警察員だということを。


 今度こそ、アシュラは、黙り込んでしまった。

 言葉を切り、マイヤーホーファーは、まじまじと、その顔を覗き込んだ。


「まさかお前、シューベルトあの人を、ベートーヴェンに近づけたわけじゃないだろうな!?」

「そんなこと、していません。僕だって、あの偉大な作曲家と、それほど親しいわけじゃないし」


「シューベルトは、ベートーヴェンを尊敬している。ただ、遠くから眺めていただけで幸せだ、なんて言ってる」

「……異常ですね」

「ああ、ちょっとおかしい。だが、いいか。ベートーヴェンの家に出入りしているなんて、絶対、彼に言うなよ。スイスに強制送還されたゼンの一件もある。この上、彼を、官警の目に止まるような場所に置きたくない」

「わかりました」


 この分なら、ベートーヴェンの家に出入りしていることを、マイヤーホーファーが他の人たちに話すこともなさそうだ。

 もちろん、シューベルト自身にも。

 密かに、アシュラは安堵の吐息をついた。




 「おお、マイヤーホーファー。アシュラ!」

背後から二人一緒にぎゅっと抱きしめられ、マイヤーホーファーとアシュラは、ぎょっとした。

 数人の男たちが、酒瓶を持って、ふらつきながら立っていた。


「ここにいたか。さっさと出ていっちまうなんて、ひどいじゃないか。せっかく集まったんだ。今宵は夜を徹して飲み明かそうぜ」

中の一人、最年長のフランツ・ショーバーが買ったばかりの酒瓶を掲げる。


 「いや、俺は……」

尻込みをするマイヤーホーファーの手を、別の男ががっちり掴む。

「大丈夫だ。ここに女はいない」

「何言ってんだよ、エードゥアルト……」

「そして、シュヴィントも置いてきた。ついでだ、お前も来いよ、アシュラ」

「ええと、僕は、女の子が居たほうが……」

「無粋なことを言うな! 女どもを連れてたら、腹を割って話せないじゃないか」

「『緑の錨亭』で飲みなおそうぜ!」


 有無を言わさず、二人を連行して歩き出す。


 肝心のシューベルトは、別の友人二人で、両脇から支えられていた。

 完全に酔いつぶれている。

 よろよろと、一同は、暗い夜道を歩いていった。



 ある一軒の家の前まで来た時だ。

 その家は、普請中だった。

 がっくりと頭を下げていたシューベルトが、不意に目を覚ました。

 きょろきょろと辺りを見回し、土台の上に建ち上がりかけた骨組みに目を向けた。


「諸君!」

シューベルトは叫んだ。

「見たまえ! 造りかけの家だ! 未来はまさに今、始まろうとしている!」


 支えてくれていた友人の手を振り放し、よろよろと前へ進んだ。

 積まれた土嚢の前で、立ち止まる。

「この家には、いったいどんな奥方が住むのであろうか」


「美人に決まってる!」

友人の一人が、大声で応えた。


 深く、シューベルトは頷く。

「うん、そうだ。美人だ! 美人の奥方だ。……波打つ金髪、澄んだ青い瞳、柳のような細い腰つき。そして、豊かな、その胸!」

くすくすと笑った。

「必ずや、万人に愛される、美貌の奥方に違いない。まだ見ぬ麗しい、この家の奥方を讃え、諸君。今ここで、セレナーデを捧げようではないか」


 建築中の誰もいない家の前に、酔っ払いの一同は、横一列に並んだ。

 そして、ロマンスの欠片かけらもない濁ったダミ声で、愛の賛歌を奏でたのであった。








※コンヴィクト


 ウィーンにあった王立の寄宿制の神学校です。読み書き、算術などの一般的な教育の他に、音楽の専門教育を授けていました。当時は、アントニオ・サリエリの指導の元、全国から音楽に秀でた児童生徒が集められました。シューベルトがいた頃は、11歳から22歳までの140人ほどが、20人で1組を作り、全部で7組に分かれて、寮生活を送っていたそうです。


 コンヴィクトは、宮廷少年聖歌隊も擁していました。後の、ウィーン少年合唱団です。


 この章の「切り裂き伯爵セドルニツキ」にも、ちらりと説明しています。






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