シューベルティアーデ 1
*
「うわーーーーん」
外からひどい泣き声がした。だんだん近づいてくる。
小さな女の子が、両手の甲で目をこすりながら、仄暗い家の中に入ってきた。
「どうしたんだい、ペピ」
台所にいた、丸い眼鏡をかけた男が尋ねる。
豊かな褐色の巻き毛。眉毛が濃く、瞳は明るい茶色だ。
フランク・ペーター。シューベルト。
女の子の、腹違いの兄だ。
ぐずぐずと、女の子は鼻を鳴らした。
「ほら、どうしたの。泣いてちゃわからないよ」
兄が、優しく話しかける。
しゃくりあげながら、女の子は答えた。
「いなかったの。約束したのに! レジもカールも、いなかったの。牛小屋の前に、いなかったのぉ!」
「そう」
「川で、一緒に遊ぶはずだったのに。それなのに、二人で、先に行っちゃった!」
「ペピは、置いてかれちゃったんだ……」
「約束したのに!」
「そうか。かわいそうに」
兄が言うと、なお一層激しく、ペピは泣き出した。
「遊びたかったのに! レジとカールと、遊びたかったのにぃーーー!」
「そうだよね。残念だったよね。でもまた明日、遊べるよ、きっと」
「あたしは今日、遊びたかったの!」
わあわあ泣きながら、地団駄踏む。
妹の泣くさまを、兄は、微笑みながら見下ろしていた。やがて彼は、古ぼけた丸い木の椅子に腰をおろした。自分の膝をとんとん叩く。
「よしよし。かわいそうな小さなペピ。ここへおいで」
女の子は、自分のために用意された、兄の膝を見た。しかし、動こうとしない。すねたように、身を捩らせている。
ぬっと兄が手を伸ばした。女の子を抱き上げ、膝の上に乗せる。
「うわーーーーん」
今更のように激しい泣き声をあげ、ペピは、兄の胸に顔を埋めた。
「いい子いい子。ペピはとってもいい子だよ」
低い声でなだめ、兄は妹の髪を撫でる。
妹は、顔を、ぐいぐいと兄のシャツに擦りつける。涙と悲しみを、暖かい胸で消し去ろうとするかのように。
「お歌、歌って」
くぐもった声が言う。
「あれ。いつもの」
「子守唄?」
「お兄ちゃんが作った歌!」
「いいよ」
低い声で、兄は、旋律をハミングし始めた。
穏やかで、安らぎに満ちた曲だった。
*
ヴァイオリンの最後の調べが、長く震え、消えた。
息をつめたようにしていた聴衆が、一斉に拍手を始めた。
今日の参加者は10人前後。
若い、気の置けない、音楽の集まりだ。
シューベルティアーデ。
作曲家、フランツ・ペーター・シューベルトの音楽を聴く会だ。
友人や有志たちが集まって、町のあちこちで開かれている。
ただただ、シューベルトの音楽を愛し、応援している仲間たちの音楽会だ。
真心のこもった拍手を受け、作曲家は、頬を紅潮させていた。
胸に手を当て、膝を折って、何度も挨拶を返している。
やがて拍手が鳴り止み、聴衆たちは、椅子やテーブルを片付け始めた。
軽快なワルツが流れた。
人々の間に、歓声があがった。
これから、ダンスが始まる。
朝まで楽しく踊るのだ。
最近流行のウィーンのワルツは、体と体を密着させて踊る。
男女で、ぴったりくっついて。
これが目当てで参加している輩さえいるくらいだ。もちろん、アシュラだって……。
「アシュラ」
8つ年上のフローラをくるくる回していたアシュラは、不意に後ろから肩を掴まれた。はずみで、繋いでいた手が離れてしまった。フローラがつんのめって、たたらを踏む。
びっくりして振り返ると、シューベルトの古くからの友人が、顔をしかめて立っていた。
「マイアーホーファーさん!」
驚いて、アシュラは叫んだ。騒がしい音楽のせいで、小さな声では聞こえない。
「何よ、マイアーホーファー!」
息を切らして、フローラが文句を言った。飲んで体を動かしたので、息を切らせている。紅潮した顔がきれいだと、アシュラは思った。
「人が楽しく踊っている時に、邪魔しないでよ」
「うるさい。俺は、アシュラに用がある」
「シューベルトのところに行きなさいよ! アシュラじゃなくて!」
「シューベルトなら、シュヴィントのことで頭がいっぱいだよ」
シュヴィントは、比較的最近、仲間に加わった青年だ。
シュヴィントとマイヤーホーファー。
二人は恋敵同士だと、シュベールティアーデの仲間内では、囁かれていた。
シューベルトを巡って。
それも、年長のマイヤーホーファーが、やきもちを焼いているという。
「僻まないで」
強い口調でフローラが言う。
「あんなにたくさんのあなたの詩に、シューベルトは、曲をつけたじゃない。深い信頼があってこそよ」
「はんっ」
マイヤーホーファーは鼻で笑った。
「僕の詩じゃなければ、彼はもっと成功したさ。もっとゲーテの詩を使って、あと、シラーも。海の向こうには、シェークスピアとかいう劇作家だっている。僕の詩を使ったから、彼は大成しないんだ」
「それでも彼は、あなたがよかったのよ。もっと誇りをお持ちなさいよ。自分の詩に」
「お前は黙ってろ!」
マイヤーホーファーは、アシュラの腕を掴んだ。遠慮のない目で、フローラを見下ろす。
「男ならいくらでもいるだろ。こんな若いの相手にしてないで、他を見繕いな」
「な、なによっ! 人を売女みたいに言わないでよ!」
喚き立てる彼女をものともせず、マイヤーホーファーは、アシュラを引きずって、ホールを出ていった。
場末の酒場に、アシュラは連れ込まれた。シューベルティアーデの仲間たちから引き離されて、残念だった。
アシュラは、シューベルトが好きだった。音楽が好きな、その仲間たちも。
ベートーヴェンと同じく、フランツ・ペーター・シューベルトも、秘密警察の監視対象だった。
1820年、シューベルトは、カンタータ「ラザロ」を作曲し始めた。
だがこれには、慎重な配慮が必要だった。
宗教劇だったからである。検閲に上げられる恐れがあるからだ。「切り裂き伯爵」ことウィーン警察長官にして最高検閲官のセドルニツキ伯爵の赤ペンで、ずたずたに切り裂かれかねない。
当時、シューベルトの仲間に、ヨーハン・ゼンという若いチロル出身の詩人がいた。
ある日、秘密警察は、ゼンの家に乗り込み、彼の書いたものを没収した。学生組織について書かれたもので、検閲に引っかかる可能性があったからである。
「警察なんか、気にしてられるか!」
怒り狂って、ゼンは、悪態をついた。
「そんなもの、好きなだけ、持っていくがいいさ。どうせ政府はバカだから、僕の秘密を突き止めるなんて、できっこないさ」
間の悪いことに、そこに、シューベルトも居合わせた。
もちろん彼も、一緒になって、警察官を罵った。
ゼンは逮捕され、即、チロルへ強制退去させられた。
シューベルトも拘束された。罪状は、公務を執行している役人に、罵詈雑言を浴びせ、侮辱した罪である。
幸い、彼は、ウィーン退去にまではいたらなかった。
だが、作曲中だったカンタータ「ラザロ」は、未完のまま終わった。
この逮捕劇で、シューベルト担当の捜査官は、顔が割れてしまった。別の捜査官が充てられ、何人か入れ替わった後、楽譜の読めるアシュラに、お鉢が回ってきた。
ベートーヴェンと同じく、アシュラは、シューベルトの身近に入り込んだ。知り合いの伝手をたどって、シューベルティアーデにも参加させてもらった。音楽好きの彼が、疑われる事はなかった。
そして、シューベルトとその友人たちの偵察を続けている。
彼の音楽に、深い敬意を抱きつつ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます