シューベルティアーデ 1




 「うわーーーーん」


 外からひどい泣き声がした。だんだん近づいてくる。

 小さな女の子が、両手の甲で目をこすりながら、仄暗い家の中に入ってきた。


「どうしたんだい、ペピ」


 台所にいた、丸い眼鏡をかけた男が尋ねる。

 豊かな褐色の巻き毛。眉毛が濃く、瞳は明るい茶色だ。


 フランク・ペーター。シューベルト。

 女の子の、腹違いの兄だ。


 ぐずぐずと、女の子は鼻を鳴らした。


「ほら、どうしたの。泣いてちゃわからないよ」

 兄が、優しく話しかける。


 しゃくりあげながら、女の子は答えた。

「いなかったの。約束したのに! レジもカールも、いなかったの。牛小屋の前に、いなかったのぉ!」

「そう」

「川で、一緒に遊ぶはずだったのに。それなのに、二人で、先に行っちゃった!」

「ペピは、置いてかれちゃったんだ……」

「約束したのに!」

「そうか。かわいそうに」


兄が言うと、なお一層激しく、ペピは泣き出した。


「遊びたかったのに! レジとカールと、遊びたかったのにぃーーー!」

「そうだよね。残念だったよね。でもまた明日、遊べるよ、きっと」

「あたしは今日、遊びたかったの!」

 わあわあ泣きながら、地団駄踏む。


 妹の泣くさまを、兄は、微笑みながら見下ろしていた。やがて彼は、古ぼけた丸い木の椅子に腰をおろした。自分の膝をとんとん叩く。

 「よしよし。かわいそうな小さなペピ。ここへおいで」


 女の子は、自分のために用意された、兄の膝を見た。しかし、動こうとしない。すねたように、身を捩らせている。

 ぬっと兄が手を伸ばした。女の子を抱き上げ、膝の上に乗せる。


「うわーーーーん」

今更のように激しい泣き声をあげ、ペピは、兄の胸に顔を埋めた。

「いい子いい子。ペピはとってもいい子だよ」

低い声でなだめ、兄は妹の髪を撫でる。


 妹は、顔を、ぐいぐいと兄のシャツに擦りつける。涙と悲しみを、暖かい胸で消し去ろうとするかのように。


「お歌、歌って」

くぐもった声が言う。

「あれ。いつもの」

「子守唄?」

「お兄ちゃんが作った歌!」

「いいよ」


 低い声で、兄は、旋律をハミングし始めた。

 穏やかで、安らぎに満ちた曲だった。







 ヴァイオリンの最後の調べが、長く震え、消えた。

 息をつめたようにしていた聴衆が、一斉に拍手を始めた。

 今日の参加者は10人前後。

 若い、気の置けない、音楽の集まりだ。


 シューベルティアーデ。

 作曲家、フランツ・ペーター・シューベルトの音楽を聴く会だ。

 友人や有志たちが集まって、町のあちこちで開かれている。

 ただただ、シューベルトの音楽を愛し、応援している仲間たちの音楽会だ。


 真心のこもった拍手を受け、作曲家は、頬を紅潮させていた。

 胸に手を当て、膝を折って、何度も挨拶を返している。


 やがて拍手が鳴り止み、聴衆たちは、椅子やテーブルを片付け始めた。

 軽快なワルツが流れた。

 人々の間に、歓声があがった。

 これから、ダンスが始まる。

 朝まで楽しく踊るのだ。






 最近流行のウィーンのワルツは、体と体を密着させて踊る。

 男女で、ぴったりくっついて。


 これが目当てで参加している輩さえいるくらいだ。もちろん、アシュラだって……。


 「アシュラ」

8つ年上のフローラをくるくる回していたアシュラは、不意に後ろから肩を掴まれた。はずみで、繋いでいた手が離れてしまった。フローラがつんのめって、たたらを踏む。


 びっくりして振り返ると、シューベルトの古くからの友人が、顔をしかめて立っていた。


「マイアーホーファーさん!」

驚いて、アシュラは叫んだ。騒がしい音楽のせいで、小さな声では聞こえない。


「何よ、マイアーホーファー!」

息を切らして、フローラが文句を言った。飲んで体を動かしたので、息を切らせている。紅潮した顔がきれいだと、アシュラは思った。


「人が楽しく踊っている時に、邪魔しないでよ」

「うるさい。俺は、アシュラに用がある」

「シューベルトのところに行きなさいよ! アシュラじゃなくて!」

「シューベルトなら、シュヴィントのことで頭がいっぱいだよ」


 シュヴィントは、比較的最近、仲間に加わった青年だ。


 シュヴィントとマイヤーホーファー。

 二人は恋敵同士だと、シュベールティアーデの仲間内では、囁かれていた。

 シューベルトを巡って。

 それも、年長のマイヤーホーファーが、やきもちを焼いているという。


 「僻まないで」

強い口調でフローラが言う。

「あんなにたくさんのあなたの詩に、シューベルトは、曲をつけたじゃない。深い信頼があってこそよ」


「はんっ」

マイヤーホーファーは鼻で笑った。

「僕の詩じゃなければ、彼はもっと成功したさ。もっとゲーテの詩を使って、あと、シラーも。海の向こうには、シェークスピアとかいう劇作家だっている。僕の詩を使ったから、彼は大成しないんだ」

「それでも彼は、あなたがよかったのよ。もっと誇りをお持ちなさいよ。自分の詩に」

「お前は黙ってろ!」


マイヤーホーファーは、アシュラの腕を掴んだ。遠慮のない目で、フローラを見下ろす。

「男ならいくらでもいるだろ。こんな若いの相手にしてないで、他を見繕いな」

「な、なによっ! 人を売女みたいに言わないでよ!」


喚き立てる彼女をものともせず、マイヤーホーファーは、アシュラを引きずって、ホールを出ていった。






 場末の酒場に、アシュラは連れ込まれた。シューベルティアーデの仲間たちから引き離されて、残念だった。

 アシュラは、シューベルトが好きだった。音楽が好きな、その仲間たちも。



 ベートーヴェンと同じく、フランツ・ペーター・シューベルトも、秘密警察の監視対象だった。


 1820年、シューベルトは、カンタータ「ラザロ」を作曲し始めた。

 だがこれには、慎重な配慮が必要だった。

 宗教劇だったからである。検閲に上げられる恐れがあるからだ。「切り裂き伯爵」ことウィーン警察長官にして最高検閲官のセドルニツキ伯爵の赤ペンで、ずたずたに切り裂かれかねない。


 当時、シューベルトの仲間に、ヨーハン・ゼンという若いチロル出身の詩人がいた。

 ある日、秘密警察は、ゼンの家に乗り込み、彼の書いたものを没収した。学生組織について書かれたもので、検閲に引っかかる可能性があったからである。


 「警察なんか、気にしてられるか!」

怒り狂って、ゼンは、悪態をついた。

「そんなもの、好きなだけ、持っていくがいいさ。どうせ政府はバカだから、僕の秘密を突き止めるなんて、できっこないさ」


 間の悪いことに、そこに、シューベルトも居合わせた。

 もちろん彼も、一緒になって、警察官を罵った。


 ゼンは逮捕され、即、チロルへ強制退去させられた。

 シューベルトも拘束された。罪状は、公務を執行している役人に、罵詈雑言を浴びせ、侮辱した罪である。


 幸い、彼は、ウィーン退去にまではいたらなかった。

 だが、作曲中だったカンタータ「ラザロ」は、未完のまま終わった。


 この逮捕劇で、シューベルト担当の捜査官は、顔が割れてしまった。別の捜査官が充てられ、何人か入れ替わった後、楽譜の読めるアシュラに、お鉢が回ってきた。


 ベートーヴェンと同じく、アシュラは、シューベルトの身近に入り込んだ。知り合いの伝手をたどって、シューベルティアーデにも参加させてもらった。音楽好きの彼が、疑われる事はなかった。


 そして、シューベルトとその友人たちの偵察を続けている。

 彼の音楽に、深い敬意を抱きつつ。


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