ゾフィーの結婚 2


 ダンスが始まった。

 優雅に一礼して、フランツは、リヒテンシュタイン家の令嬢の手を取った。

 嬉しそうに、令嬢は、白魚のようなその手を委ねる。


 見事なエスコートぶりだった。古風なメヌエットだったので、昨今流行りのワルツのように、体を密着させる必要もない。

 プリンスのダンスは、際立って優雅で、落ち着いていた。


 教え子の姿を目で追いながら、ディートリヒシュタインは、密かに誇らしい気分になった。



 ライヒシュタット公フランツの家庭教師、ディートリヒシュタインは、その日、ゾフィー大公妃と同席する栄誉を担っていた。


 ホールを見下ろす貴賓席で、踊る人々を観覧しながら、ゾフィーは尋ねた。

「ディートリヒシュタイン伯爵。貴方は、ライヒシュタット公の家庭教師でいらっしゃるのね?」

「はい」

「いつから?」

「彼が、ウィーンに来てすぐにです。もうかれこれ、9年にもなりますか」

「その時彼は……」

「4歳ですな」

「4歳! まあ! さぞやかわいらしかったことでしょうね」

「外見はね。今は短くしてしまっていますが、当時は髪が長く、くるくるとカールしていました」

「肖像画を拝見しましたわ!」


 弾んだ声だった。

 気を良くして、ディートリヒシュタインは続けた。


「そのカールが、全部で40個ありましてね」

「どうして数までおわかりになりますの?」

「それは、寝る前に、巻紙でカールしていたからですよ。その巻紙が、毎晩、40枚ほど、必要だったのです」

「まあ!」

「彼は、女の子のようだからいやだったと言って、ウィーンに来てすぐに、髪を短くしてしまいました」

「そうだったんですの……」


 ゾフィー大公妃は、深い感銘を受けたようだった。

 ホールを見下ろし、ライヒシュタット公の姿を追う。つられて、ディートリヒシュタインも、教え子の姿を探した。


 フランツのパートナーのリヒテンシュタイン嬢は、薄青色のドレスを着ていた。首の下が大きく開いており、白い胸元が、輝いて見える。


 2つ3つ年下のフランツは、彼女と同じくらいの背丈だった。真剣な顔でステップを踏み、リードしている。

 傍らのゾフィー大公妃の眉が、わずかに顰められたように、ディートリヒシュタインは感じた。



「ライヒシュタット公は、ダンスがとてもお上手ね」

踊る二人から視線をそらし、ゾフィーは尋ねた。

「それは、練習の賜物ですよ。思い出しますなあ。初めてのダンスパーティーの時」

「何かあったんですの?」

ぜひ知りたい、と言った風に、ゾフィーは尋ねた。


 ディートリヒシュタインは、思い出し笑いをした。


「笑ってないで、先生、教えてくださいな」

「ですが、これは彼の名誉に関わることで……」

「そんなことをおっしゃるなんて、ますます聞きたくなりましたわ」

「大公妃のお頼みですから」


大変珍しいことに、口の端に笑みを残したままで、謹厳実直な教師は話し始めた。


「初めて人前でダンスを披露した時、5歳? 6歳だったかな? 彼、転びましてね。それは見事に。すってーん、と」

「大変!」

「なかなか起き上がらなくて、私なぞも、ずいぶん、心配致しました」

「大丈夫でしたの? もしやお怪我を?」

「いやいや」


再び、ディートリヒシュタインは含み笑いを漏らした。


「しばらくして、姿が見えなくなってしまったんです。ホールは人混みが凄かったし、夜も遅い時間でしたからね。あちこち探しました」

「どこにいらっしゃったんでしょう?」

「ホールの片隅で、壁を向いて、じっと立っていました」

「ホールの片隅……壁を向いて……」

「私が声をかけたら、振り返りましてね。顔が、真っ赤なんです」

「それで? それで?」

「振り向いて、彼、こう言ったんです」


 ディートリヒシュタインは言葉を切った。

 相手は、彼の口元を見つめ、今か今かと、次の言葉を待っている。


 満足して、後を続けた。

「だって恥ずかしいんだもん! だって、本当に恥ずかしいんだもん!」


「!!」


 ゾフィーが目を丸くした。次の瞬間、彼女まで頬を赤く染めた。口元をハンカチで抑え、表情を隠しながら、再び、ホールを見下ろした。

 つられてディートリヒシュタインも、教え子の姿を目で探した。


 フランツは立ち止まり、シェーンベルク侯と話していた。しきりと何か懇願しているようだ。傍らで、パートナーのリヒテンシュタイン嬢が、所在なさげに立っている。

 やがて彼は、令嬢を青年貴族に託し、ホールを出ていってしまった。


 すぐに、階段を駆け上がってくる姿が見えた。ディートリヒシュタインは手を上げて、彼を呼んだ。


「先生!」

フランツが駆け寄ってくる。彼は、教師の傍らの、ゾフィー大公妃の姿に気がついた。

「あ、ゾフィー大公妃。お楽しみ頂けてますか?」

 頬に赤みを残したまま、ゾフィーが頷いた。


「フランツ君、ここに座り給え」

ディートリヒシュタインが空いている椅子を指し示す。

「はい、先生。失礼します、大公妃」

「え? え……え、どうぞ」

やっとのことで、ゾフィーは言った。声が、震えている。


 フランツは、二人の間に腰を降ろした。不思議そうに彼女を見る。

「どうかされましたか、大公妃?」

ゾフィーは俯いてしまった。膝の上でハンカチを絞るようにして、身を捩っている。


 代わりに、ディートリヒシュタインが答えた。

「今、君の話をしていたところだ」

「僕の話を?」

「昔の話さ」

教師は、話を強制終了させた。


「それより、まだ曲の途中ですぞ。令嬢を放り出して、いったいどうしたというんです?」

「ご覧になっていたんですか」

困ったようにフランツは答えた。

「あの……いえ、リヒテンシュタイン嬢は、もともと、シェーンベルク侯と踊る約束をしていたんですって。脇を通りながら、教えてくれた人がいました。それなのに、僕が、ダンスを申し込んでしまったから……」

「だから、シェーンベルク侯にお返ししたわけか」

「ええ。侯は気にしておられないようでしたが、僕はお詫びを言って。リヒテンシュタイン嬢にも」

「なかなかスマートな立ち回りだね」


「褒めてくださるんですね!」

フランツの顔が、ぱっと輝いた。


「うん。まあ、そのようなものかな……」

「とても立派よ。水際立っているわ。相手の女性も、嬉しかったんじゃないかしら」

傍らから、ゾフィー大公妃が口を出した。






 その晩、居室に帰り、ベッドに入る前に、フランツは振り返った。

 付き添ってきたディートリヒシュタインに、両腕を投げかけ、尋ねた。

「先生。今日は僕、ちゃんとしてた?」


「絶妙な礼儀だったね。誰に向けても配慮がゆき届いていて、君の年齢にしたら、上出来だった」

布団をかけてやりながら、ディートリヒシュタインは答えた。

「みんな、君のことを褒めていたよ」


「先生も? 先生も、僕のこと、誇らしかった?」

「まあね」


 ベッドの中で、満足そうにフランツは笑った。

 うっかりつられて微笑みかけそうになるのを、ディートリヒシュタインはこらえた。


「だがこんなことで満足していてはいけない。君は、注目されている。だから、あらゆる点で完璧でなければならない。将来の為にも。わかったね?」

「はい、わかりました、先生」

少し口を尖らせ、生徒は答えた。



 ……そういえば、今日、ゾフィー大公妃は、彼の話ばかりしていたな。

 フランツの部屋を退出しながら、ディートリヒシュタインは考えた。

 でも、まあいいか。彼女は、彼の話を、とても喜んでいたようだ。

 教え子の話をするのが、ディートリヒシュタインは、大好きだった。








※髪の毛のカールの話は、2章「チビナポ」、

 ダンスで転んだ話は、同じく2章の「だって恥ずかしいんだもん!」

 に詳細がございます。



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