ゾフィーの結婚 1
「……あの子は?」
バイエルンから嫁いできたゾフィー大公妃は、隣の
彼女はまだ、19歳。異国に嫁ぎ、周りの環境は、一気に変わった。結婚の儀式からここまで、無我夢中だった。
儀式は複雑で、間違えることは許されない。加えて、主役の二人は、常に、人々の注目を集めていた。前日に渡されたプロトコルをろくに暗記できずに、式典に臨むことさえ、何度かあった。
宗教的な慣例も含め、ようやく一段落つくと、今度は、果てしない祝賀の宴が始まった。
大勢の人が、彼女の元に挨拶に訪れた。何百人、ことによったら、何千人という人に紹介され、握手や抱擁を交わした。
酒やご馳走、ダンスに音楽。飾られた花の匂いと香水に満ち溢れた、人いきれ。
頭がぼうーっとしびれるような日々が続いていた。自分が主役だと言うのに、ここ一月ほどの記憶が、彼女には、殆ど、ない。
ゾフィーに肘を掴まれ、F・カールは、危うく、グラスに入ったワインをこぼしそうになった。
妻の目線の先では、金色の髪の少年が、バイエルンの貴族たちと歓談していた。
「ああ、あれ。ライヒシュタットだよ。フランツ……つまり、皇妃の言うところの、『フランツェン』だ」
「フランツェン?」
「うん。パルマにいる姉貴の、息子」
「マリー・ルイーゼ様の? あっ!?」
「そうだ。彼が、ナポレオンの息子だ」
それは、バイエルンでも有名な話だった。
人喰い鬼に嫁いだ皇女と、ウィーンの
ゾフィーは、喰い入るように、少年を眺めた。
今宵の客人を相手に、少年は、如才なく会話を続けている。時折、客人達が、楽しげに笑う。
何を話しているのか、ここまでは聞こえてこない。だが、少年が、客を楽しませているのは、明らかだった。
時折、少年自身も微笑む。だがその笑みは、一時的で、儀礼的なものだった。
彼が、少しも楽しんでいないことに、ゾフィーはすぐに気がついた。
……私と同じだわ。
実のところ、F・カールは、ゾフィーの好みではなかった。
彼女は、面食いだった。それなのに彼女の夫は、あまりにも地味だった。
実際、初めて顔を合わせた時は、軽く失望したものだ。
彼女とて、もちろん、外見だけで人を判断するわけではない。だが、F・カールは、外見と同じく、中身も鈍重な印象を、バイエルン側の人々に与えた。口が重く、何を尋ねられても、はかばかしい返事を返さない。
一方、ゾフィーは、「バイエルンの薔薇」とも謳われた、評判の美姫である。彼女の肖像画は、異母兄の造った「美人画廊」に飾られたほどだ。また、頭の回転も早く、決断力に優れていた。
ゾフィーの実の両親でさえ、この結婚には気乗りが薄かった。
実際にウィーンに来てからも、彼女は、あまり楽しめなかった。ウィーンの宮廷は、彼女には、堅苦し過ぎた。バイエルンの、自由な雰囲気が、懐かしかった。
だがすぐに、彼女は、自分を諌めた。
「桁外れの成功」
F・カール大公との結婚を、異母姉……オーストリア皇帝に嫁いだ、この国の皇妃カロリーネ・アウグステ……は、こう評している。
オーストリアは、長男の即位が原則だった。
だが、今上帝の長男は、即位できる人ではなかった。いつもにこにこ笑っていて、宮廷ではそれはそれは愛され、大切にされている。しかし、彼には、次の皇帝を務めることはできない。
また、結婚も難しいし、子どもをなすことも不可能だろうと、医師団は危惧していた。
つまり、オーストリアの次の皇帝の位は、次男のF・カール大公……ゾフィーの夫……に転がり込む公算が大きいのだ。
そして、その次の皇帝には、確実に、F・カールの子……彼女の産む息子が、即位する。
彼女は、皇太后となるのだ。
そう。
ゾフィーはオーストリアに、男の子を産みに来た。
この国の、皇帝を産む為に、はるばるバイエルンから、嫁いできたのだ。
年老いた皇帝の妻となり、子をなすことが望めない
「おおい、フランツ」
夫が、呑気な声を出した。
「おいで、フランツ。ゾフィーがお前と、話をしたいって」
……悪い人じゃないんだけど。
ゾフィーはため息をついた。
大公を表す赤いサッシュを、肩から斜めにかけた夫は、人が良さそうに笑っている。そのフェルトが、少し捩れていることに、ゾフィーは気がついた。だが彼女は、夫の肩に手をかけ、直してやろうとはしなかった。
金髪の少年が、振り返った。
F・カールの姿を認め、一瞬眉を顰めた。だが、すぐに、微笑み返した。
一緒に居た人たちに何か囁くと、彼は、足早にこちらへ向かってきた。スマートな体が、猫のようにしなやかに近づいてくる。
……白い肌。赤みを帯びた、すべすべした頬。ふっくらとした唇。
……広い額に、黄金色の髪。どこまでも澄んだ、青い瞳。
「フランツはね。僕にとって、弟みたいなもんさ」
得意げな
美しい少年に見惚れていた自分に気がつき、はっとした。
「弟じゃありませんよ、叔父さん」
高い、子どもの声が言い返す。
「叔父さん? 叔父さんはないだろ? 俺はいつもお前のことを、実の弟と思って、教え導き……、」
「母上は怒ってましたけどね。叔父さんが僕に、変なことばかり教えるって」
「変なこと? 失礼な。俺が今まで教えてきたのは、有意義な人生のありかたそのもので……、」
「ザクセン王妃(皇帝の姉)から母に、手紙がいったそうですよ。僕を貴方に近づけないほうがいいって」
ひどく生意気な態度だ。
だが、ゾフィーに向けられた声は、丁寧で優しかった。
彼は、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳で彼女を見つめた。
「顔合わせの時にお会いしましたね。ゾフィー大公妃。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「よろしくね、フランツェン」
ゾフィーが言うと、フランツは、複雑な顔をした。
「挨拶が遅れたのは、しょうがないよ。僕らの回りは、いつも人がいっぱいいたからね」
慈悲深く、F・カールが許しを与えた。
【著者より】
F・カール大公及び、ザクセン王妃については、2章「キーーーーーッ」「おいで、フランツェン」を、ご参照下さい
F・カール大公は、マリー・ルイーゼの弟、フランツの叔父に当たります。年齢は、フランツより9歳上です。
彼の新妻ゾフィーは、フランツより6歳上です。
結婚式のあった1824年11月現在、F・カール22歳、ゾフィー19歳、フランツ13歳8ヶ月、です。
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