いずれ……
師の逝去の知らせを受けても、フランツは、淡々としていた。
幼い日、フランスからついてきた従者たちがいなくなっても、彼は、泣かなかった。
母親が、彼を置いて、遠くパルマ領有に旅立った時も、平然としていた。
「プリンスは、冷たい!」
ディートリヒシュタイン先生は、年老いた女官を相手に、ぶつぶつこぼした。
「コリン先生は、あんなにも、フランツ君によくしてくれたじゃないか。一緒に、『ロビンソン・クルーソーの小屋』を、造ってくれたじゃないか」
それは、コリン先生とフランツが、二人で、シェーンブルン宮殿の庭園の、一角に造った小屋だった。
フランツがまだ、ウィーン宮廷に馴染めなかった頃のことだ。
コリン先生は、母と引き離された幼い生徒を、なんとか喜ばせようと努力を重ねた。劇作家で俳優でもあった彼は、物語の世界に遊ばせようと思った。
『ロビンソン・クルーソー』は、当時、フランツが、夢中になっていた物語だ。まるで芝居の大道具を造るように、教師と生徒は、空想の小屋を、現実にした。
ディートリヒシュタインにしてみれば、そこまでしてくれた先生の死の報に接して、泣きもしなければ嘆きもしないフランツの態度は、「冷たい」としか、思えなかった。
「このままでは、私が死んだ時も、あの子は、涙ひとつこぼしてくれないに違いない」
「そんなことはないですよ」
ラザンスキ伯爵夫人が口を出した。
結婚前のマリー・ルイーゼについていた女官だ。
自信たっぷりに、彼女は述べた。
「大好きなコリン先生が亡くなられて、ライヒシュタット公は、ひどく悲嘆にくれておられます。私には、それがよく、わかります」
「だが、私の前では、平然としていましたぞ」
「それは、日頃からディートリヒシュタイン先生が、」
……厳しすぎるからですよ。それでは、子どもは、安心して素の自分をさらけ出すことができません……。
だが、ラザンスキ伯爵夫人は言葉を濁した。
「私が? なんですと?」
「いえ、その、ライヒシュタット公は、強がっておいでなのですよ。男の子ですからね。人前で泣いたり、感情を露わにするのは、恥ずかしいとお考えなのです」
「そんなものかな。私には、日頃からあの子が、感情を押し殺しているのが、気がかりでならないのだ。それこそ、子どもらしくない。覇気のなさや、感情の起伏の少なさは、彼にとって、非常に不幸なことだと思う」
「複雑な環境の方です。もっと優しい目で見て差し上げないと」
「そのつもりだが」
「それで?」
「は?」
「いえ、なんでもありません。大丈夫ですよ、ディートリヒシュタイン先生。貴方はまだまだ、とてもじゃないけど、死にそうにありません」
「そりゃ、そうだ。下の娘の花嫁姿を見るまでは、私は、絶対、死なないつもりだ」
2年前に、ディートリヒシュタインは、上の娘、イーダを18歳で亡くした。
彼は、全部で5人の子どもを授かった。だが、生き残っているのは、長男と、一番下の娘の二人だけだった。
それは、よくあることだった。
子どもが成人まで育たないということは。
だから、女は、自分の体を顧みず、無理をしてでも、一人でも多くの子を産もうとする。
ラザンスキ伯爵夫人は、ディートリヒシュタイン家の事情は、知らなかった。無邪気に、彼女は尋ねた。
「あら、先生。お子さんがいらしたの?」
ディートリヒシュタインはむっとした。
「私には妻がいる。子どもがいても不思議はないでしょう」
「意外だわ」
「意外?」
「あ。ええと。つまりそのう……」
「はっきりおっしゃって下さい」
「先生が言わせるんですからね」
気の強さを感じさせる口調で、
「つまり、先生は、ご自分のお子さんにも、そんなに厳しい態度で接していらっしゃるのですか? ってことです」
「何をおっしゃる」
憤慨し、ディートリヒシュタインは叫んだ。
「長男や娘のジュリーに対するのと、フランツ君に対するのとでは、全然違います! フランツ君は、特別な子どもです。私には、彼を、立派に育て上げる義務がある。世界中のどこに出しても恥ずかしくない貴公子に、豊かな知識を持ち、高貴な振る舞いのできる、素晴らしいプリンスにね!」
「ですが、子どもは、ひとりひとり、性質が違います。皇位継承者でもない限り、そこまで厳しい教育を押し付けるのは、いかがなものでしょうか」
「彼自身の負うた使命の為です。皇位継承者でない? 貴女はそうおっしゃいますが、彼は、いずれ……」
唐突に、ディートリヒシュタインは口を鎖した。
「いずれ?」
ラザンスキ伯爵夫人が先を促す。
「いえ。なんでもありません」
プリンスの家庭教師は、ラザンスキ伯爵夫人の矛先を躱した。強引に話題を元に戻す。
「貴女が、私に子どもがいないと思われたのも、無理はないですよ。
ラザンスキ伯爵夫人は、ため息をついた。
「コリン先生がお亡くなりになったことは、とても悲しいことです。ですが今、宮中は、F・カール大公の御婚儀で、祝賀一色です。ライヒシュタット公も、叔父上への礼儀から、おおっぴらに嘆くことが、おできにならないのでしょう。泣けば、お気が晴れることもございましょうに。お気の毒なことです」
「そうかもしれない」
そう言いつつも、ディートリヒシュタインは、首を傾げた。
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