少年が世界を震撼させる日
楽団の調べが、軽快に流れていく。流行のロッシーニが軽やかに流れ、モーツァルトの繊細な調べに移っていく。
着飾った人々が、歌い踊り、あちこちに固まっておしゃべりをしている。
足早に、フォレスチは、ホールを歩きまわっていた。
フォレスチも、コリンやディートリヒシュタインと同じく、ライヒシュタット公フランツの家庭教師の一人である。
彼は、生徒を探していた。ちょっと目を離した隙に、姿が見えなくなってしまったのだ。
1824年、11月4日。フランツの叔父、F・カールは、バイエルンから、妻を迎えた。新しくハプスブルク家の一員となったゾフィーは、新郎の義母、皇妃カロリーネ・アウグステの異母妹であった。
幾日も幾晩もぶっ通しで、祝賀の宴が催れていた。着飾った貴賓たちで、広間は溢れかえっていた。
ライヒシュタット公フランツは、一群の紳士淑女達に囲まれていた。
「ライヒシュタット公。お久しぶり。ちょっと見ない間に、随分、大きくなられましたね」
年配の紳士が、しげしげと彼の全身を眺め渡した。
フランツは顔を赤らめた。
すかさず、母親くらいの年代の淑女が割り込む。
「この頃、どうなさってますの? あいかわらず、軍務一筋なのかしら」
「はい、軍事サーヴィスこそ、僕がこの国にできる、唯一の貢献ですから」
「唯一なんてことはないでしょう。貴方にはまだまだ、たくさんのことがおできになるわ」
「それには、もっと、勉強せねばなりません」
堅苦しく、13歳の少年は答えた。
婦人達は、唇の端に微笑みを浮かべた。
「ふむ、軍事サーヴィスねえ」
紳士の一人が、ひげをひねった。
「貴公は、フランスからいらしたろう? 半分は、フランス人だ。将来、オーストリアの将校として、いったい、どのような戦いをなさるおつもりか」
言い終わると、ゆっくりと言葉を切った。
周囲が完全に静まるのを待って、紳士は、次の言葉をぶつけた。
「フランスとの間に」
意地の悪い質問だった。
宮廷であることを考慮したのか、あえてナポレオンの名は出さなかった。だが、この紳士の言いたいことは明白だった。
いわく、オーストリアは、ナポレオンの息子を信じても良いのか。
この国をさんざんに蹂躙した、フランスの悪鬼の遺児を。
淑女達が息を飲んだ。心配そうにフランツの様子を窺う者もいた。
澄んだ、きらめく瞳を、フランツは、紳士に向けた。
にっこりと、彼は笑った。
「貴方は、オイゲン公のことをお忘れですよ」
オイゲン公は、17世紀末から18世紀にかけて、神聖ローマ皇帝に仕えた将軍である。フランスで、貴族の息子として生まれた。だが、長男でなかったために、位を継ぐことができなかった。それで、軍人を志した。だが、フランスでは活躍の場が得られなかった為、オーストリアに渡り、レオポルド1世に仕えた。
「オーストリアにおける、オイゲン公の軍事キャリアは、下級の将校から始まりました」
フランツが言うと、周囲の何人かが頷いた。
フランツ自身も、まだ位の低い、軍曹のままだ。
「ですが、対トルコ戦を皮切りに、彼は、勇猛な活躍を成し遂げました」
オーストリアの軍人として、オイゲン公は、味方を、数々の勝利に導いた。対フランス戦では、自分の親族とも戦った。
「オイゲン公は、両親とも、フランス人でした。ですが、彼の魂は、オーストリア軍人そのものでした」
一方、フランツの母は、れっきとしたドイツ人、それも、オーストリア皇女である。
なおも、彼は続けた。
「オイゲン公は、跡継ぎを残しませんでした。それで、オーストリアは、ベルベデーレ宮殿始め、彼の莫大な財産を手に入れることができたのです。『余人は戦をすべし。幸いなるかなオーストリア』、ですよ」
汝はまぐわうべし。
フランツは、最後の一言を省いた。それで、居合わせた人々は、より一層、清冽な印象を、この美しいプリンスに対して抱いた。
彼は、こう、締めくくった。
「われらがオーストリア軍には、オイゲン公という偉大なる先例があります」
青く澄んだ瞳に見つめられ、そのふっくらとした赤い唇で微笑みかけられ、意地悪な紳士は、あとじさった。
ついには、右隣の婦人の腕を捕らえ、立ち話を始めた。話しながらじりじりと、ライヒシュタット公の前からとおざかっていく。
居合わせた人々の間から、静かな吐息が上がった。ライヒシュタット公フランツの、知識の深さと機転、そして、優美な容姿に対する、感嘆の吐息だった。
「たくさんお話をなさって、喉が乾いたでしょう。シャーベットを召し上がる?」
年配の婦人が、透明な器を差し出した。
「いえ、ワインをいただきます」
婦人は顔を顰めた。
「貴方にお酒は、早すぎるんじゃなくて?」
「そんなことはありませんよ、マダム。僕の年齢は、フランスでは、もう、成人ですから」
「ライヒシュタット公」
しかつめらしい声で、フォレスチは、生徒を呼んだ。
「あ、フォレスチ先生!」
優雅なプリンスの表情の奥から、やんちゃ坊主の顔が現れた。
大仰に、フォレスチは頭を下げた。
「失礼、皆様方。ライヒシュタット公は、明日、朝が早いので、そろそろ失礼させて頂きます」
「まあ!」
「まだ宵の口よ」
「もう少しいらしても、大丈夫でしょう?」
不満げな声が一斉に上がった。
構わず、フォレスチはフランツを、その場から連れ去った。
「お酒は駄目だって、ディートリヒシュタイン先生が言ってたろ?」
賑やかなホールを離れると、フォレスチは小言を言った。
「少しならいいんだよ」
フランツが口を尖らせる。じろりと、フォレスチは、生徒を睨んだ。
「それは、シャーベットとか、お菓子に入っているのは仕方がない、ってことだよ」
「だって、フランス王は、13歳になったら、成人と認められるんだよ?」
「しっ!」
素早くフォレスチはフランツを黙らせた。
「そんなことを言い出すから、ホールから連れ出したんだ。今ここで、君が、フランス王家の話をしたら、厄介なことになるぞ。祝賀会には、各国の大使もたくさん、来ているんだから」
それは、事実だった。
今しも、フランスのキャラモン大使が、鋭い、鷹のような目で、こちらを見ていた。彼は、ブルボン朝の、シャルル10世の大使だ。
パリでは、ナポレオン二世の人気は、ブルボン朝の王より高い。だが、フランツはこのことを知らない。入ってくる情報を、厳重に管理されているからだ。
フランツは、オーストリアのプリンスだ。でもだからといって、ナポレオンの息子が、フランス王を引き合いに出すなど、とんでもないことだった。
フランツは、肩を竦めた。さりげない口調で、フォレスチに尋ねた。
「コリン先生の具合はどう?」
「ああ、心配いらないって」
「そう」
今夜の祝賀会は、コリンが付き添いの予定だった。だが、ここ数日来、体調が悪いということで、フォレスチが代わったのだ。
「大丈夫だよ。コリン先生には、奥様もお子さんもいるから」
「そうだね」
つまらなそうに、フランツは答えた。
退出していく二人を見送り、フランスのキャラモン大使も、自室へ引き上げた。
魅力あふれる金髪碧眼の少年は、彼に、強い印象を残した。
大使はすぐに羽ペンを握り、本国へ報告を書いた。
……
ナポレオンの息子のウィットに富んだ振る舞い、生き生きとした魅力は、堅苦しいまでに生真面目なウィーン宮廷の人々と、際立った対照を見せている。
パリでは、ナポレオン人気の再燃が見られている。
人々が、ナポレオン2世を望むのは、まるで小説のように奇抜な考えだ。だが、それに接し、ライヒシュタット公の、フランス王位への興味が増すことは必然であり、状況もそれを許しかねない。彼には、人々の、熱病のような王位への熱望を、受け容れる準備はすぐに整うであろう。また、それを実現させることもたやすいことと思われる。
私は、この少年が、世界を震撼させる日が来ることを恐れる……。
……
*
同じ月の24日。わずかな期間病んで、コリン先生、マテウス・フォン・コリンが亡くなった。
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