敵は身近に
「考えすぎですよ」
医者は笑った。
ヨーハン・マルファティ。ウィーンの星とも例えられる、名医である。ウィーン会議が開催されていた時には、彼に診察してもらおうと、各国の大使が、医院の前に、列をなした。また、カール大公や、ベアトリーチェ大公女の侍医であったことでも有名である。
「いえ、是非、調べて頂きたい。自分でできればいいのだが、私にはその知識がないので」
コリンはそう言って、ハンカチに包んだものを、マルファッティ医師に渡した。端をめくると、黒い炭のようなものが現れた。
「これは、ライヒシュタット公の部屋の暖炉の中から持ち出してきました。ゆうべの薪の、燃え残りです」
マテウス・フォン・コリンは、ライヒシュタット公フランツの、家庭教師の一人である。その前は、皇帝の娘たちの家庭教師を務めていた。
マルファッティ医師は、首を傾げた。
「炭ですね? 私には、薪の燃え残りとしか見えませんが」
静かに、コリンは眉を顰めた。
「今朝、私が彼の部屋を訪れた時、例の匂いがしました。そしてやはり、今日一日、フランツ君……ライヒシュタット公は、ひどい咳をしていました」
「前に咳がひどかった時と同じだというのですね?」
「ええ。暖炉からこの匂いがすると、決まって、彼の咳は、ひどくなるのです」
「咳を起こさせる薪なんて、聞いたこともない。貴方の気のせいなんじゃないですか?」
「それだったら、それで、いいんです」
きっぱりとコリンは言った。
「ただ……」
「ただ?」
「いいえ」
コリンは、マルファッティの目を覗き込んだ。
「マルファッティ医師。貴方は、亡くなられたフランク
「ええ。私は、フランク
「そして、フランク医師が、ウィーン医学界の指導者達と意見が合わなくなって、一時、ウィーンを去られた時、貴方は、それまで努めておられウィーン総合病院の地位をお捨てになった」
「そうです。フランク医師は、私の恩師ですからね。彼を認めない連中が牛耳る病院になど、もはや一時も、いたくなかったのです」
「そんなあなただからこそ、お願いするのです」
コリンは、熱意の籠もった目で、マルファッティを見つめた。
はっと、マルファッティは、何かに気づいたようだった。
「もしかして……フランク医師が?」
「……」
コリンは答えなかった。
しかしその表情は、何よりも雄弁に、コリンと、亡くなったフランク医師との関わりを示していた。
フランク医師。
ウィーンに来たライヒシュタット公の、最初の主治医だった彼は、3年前に、突然、亡くなった。
「わかりました」
マルファッティは、燃え残った薪を受け取った。
「ウィーン医局の友人に、分析をお願いしてみましょう」
「お願いします」
ほっとしたように、コリンは頷いた。
「貴方は……」
マルファッティはためらい、続けた。
「ライヒシュタット公の命が狙われているととお考えですか? ナポレオン人気を妬む、フランス・ブルボン王家から、刺客が、送られてきたと?」
ベートーヴェンの第九の初演の催された、この年(1824年)の、9月。
病気がちだったルイ18世が亡くなった。彼には子どもがいなかったので、弟のシャルル10世が跡を継いでいた。
即位は平穏のうちに済んだ。だが、共和派はじめ、
彼らは、ナポレオン2世の出現に、期待をかけていた。
ライヒシュタット公を名乗り、オーストリアのプリンスであろうと、フランスへの影響は、看過できないものがあった。
ナポレオンの息子の存在を、ブルボン王朝として、黙って見過ごすわけにはいかないことは、一目瞭然だった。
だが、コリンは首を横に降った。
「いいえ。敵は、もっと身近にいます」
「身近に?」
「この国の……オーストリアの中枢部に」
「それも、フランク医師が?」
「……」
無言で、コリンは頷いた。
改まった口調で、マルファッティは、質問を重ねた。
「この話は、他の誰かにお話しですか? たとえば、ディートリヒシュタイン伯爵は、ご存知でしょうか」
ディートリヒシュタインは、ライヒシュタット公の家庭教師の一人、コリンの同僚である。
「亡くなったフランク医師との約束です。誰にも話してはいません」
「私だけに、お漏らし下さったと」
「そうです」
「光栄です」
マルファッティは席を立った。まっすぐに薬棚へ向かう。
「コリン先生。あなた、この頃、よく眠れていませんね」
「一人で秘めておくには、あまりに重大な秘密でした。お恥ずかしい話ですが、この3年間、熟睡できた夜はありません」
「お気の毒に」
マルファッティは、粉薬を調合した。
「眠らないのが、一番、体によくありません。夜、ベッドに入る前に、これを服用なさって下さい。始めは効果がないようですが、次第に、ぐっすり眠れるようになるはずです」
感謝の眼差しを、コリンは、
【注】
マルファッティ医師は、
2章「ウィーン会議」
で登場しました
また、フランク医師については、
2章「フランク医師の死」
をご参照下さい。
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