カビのはえたパンとチーズをまぶしたマカロニ


 「そうだ! 忘れとった」

 ベートーヴェンは、コーヒーカップを無造作にピアノの上に置いた。

 少年をみつめ、おもむろに口を開く。

「あのな、アシュラ。お前に頼みがある」

 黒い目が、ぱっと輝いた。

「先生のお望みなら、何をさしおいても!」

「言ったな」

 ベートーヴェンは、含み笑いを浮かべた。

「じゃ、引き受けてくれるな」

「もちろんですとも!」


 まるで主人に尾を振る子犬のようだと、ベートーヴェンは思った。

 悪気は、なかった。

 調子っ外れの大きな声で、彼は言った。


「アシュラ、君、魔王になる人間を、探し出してきてくれないか?」

「まおう? ですって!?」

「うん。よく考えたら、可愛そうだろう? 誰からも愛されなかった上に、人の輪を追われたりしたら」


「?」

 鉛筆を握ったまま、アシュラが変な顔をしている。


「優しい友との出会いがなかったら、儂だって、今一歩のところでそうなっていたのだから」

「あの……、何の話を?」

「だから、儂は、メフィストフェレスに申し出たんだ。儂の、有能な召使いが、探し出してくると」

「有能な召使い? それって……」

「君のことだ」

「僕?」

「そう、君だ。君が、探し出してくるんだ。儂の代わりに、魔王になる人間を! 全ての人類を、足元にひれ伏せさせる存在を!」


 少年は、口をぱくぱくさせた。

 あまりのことに、言葉も出ないようだった。


「だって、君、書いたろう? ほら、ここ!」

 ベートーヴェンは、雑記帳を指さした。

 ……先生のお望みなら、何をさしおいても!

 右上がりの、元気のいい文字が踊っている。

 筆談は便利だな、と、バートーヴェンは思った。耳が聞こえなくなり、やむをえなく使っている雑記帳だが、言質を取るのに、これほど有利な道具はない。


「儂は音楽に集中したい。魔王をやったり、魔王候補を探してくる時間なんか、ないんだ。君に任せた。アシュラ!」

「……カビの生えたパンのせいですね」

 のろのろと少年は書いた。

「きっとそうに違いない」

「いや、パンは関係ないと思うぞ」


「でも、僕は、そのパンを食べてない……」

 少年の字が震えた。

 ベートーヴェンは眉を上げた。

「なんだって?」


「あの男、僕に言ったんです。今日から、アシュラ・シャイタンと名を変えるように、って」

「シャイタン?」

「それでもって、主人がいる限り、僕も生きていなくてはいけない、というような? ことを? 言っていた気が、」


「ふうむ。やっぱり白昼夢ではなかったか」

「先生!」

「この年になると、夢と現実との境があいまいになってな。でも、君も、同じ幻を見たとなると……、幻じゃない。間違いなく、あいつはメフィストフェレス、悪魔だ。だって、ピアノの響板に映っていなかった……」

「僕は、硫黄の匂いを嗅ぎました……」


 音楽家と少年は顔を見合わせた。

 ゆっくりとベートーヴェンは言った。


「そしてやつは、儂の音楽に感動したと言った……」

「……」

「これは、ひとつのチャンスだと思う。だからぜひ、君に、頼みたい」

「チャンス? いやです、そんなの! よりによって、魔王探しなんて!」

、だ。魔王。まだ、人間だよ」


「仮に候補を見つけたとして、ですよ? いったいどうやって、魔王にするというんです?」

「それは、アレだ。キスでもするんじゃないか?」

「白雪姫じゃないんですよ? 第一、男だったら、どうするんです!」

「男女差別はよろしくないよ。人類は皆、すべからく平等だ」

「そういう問題じゃない気がします」


「とにかく、だ。儂はメフィストフェレスに言ってしまった。君が、魔王になる人間を探してくると。親友の生み出したメフィストフェレスに、嘘を言うわけにはいかない。引き受けてくれるね、アシュラ」

「いやです! 魔王なんて!」

 アシュラは、半泣きになっていた。

「なんだかすごく、いけないものな気がします……」

「うん。それはその通りだが……」


 ベートーヴェンは、首を傾げた。

 しばらく考えてから、口を開いた。


「儂は、さっき、チャンスと言ったろ? なあ、アシュラ。人が人の上に立つのと、魔王が人の上に立つのと、どちらが、より人類社会の為になると思う? もっと言えば、自分を犠牲にできる存在が、人民の上に立つのとでは?」


 全くの不意打ちの質問に、アシュラは戸惑った。

 ……自分を犠牲にできるほど優れた存在? それは、何だ?

「そんな大きな話、僕には、どうしていいのか、わからない」


「うん」

 ベートーヴェンは頷いた。

「人間には無理だ。人間は、人間である限り、絶対に、人間の上に立つことはできない。立ってはいけないんだよ、同胞の上には。人間は、須らく平等であるべきだ」

 うなずき、より、声量をあげた。

「だが、人間以外の存在であったなら……。儂は、思うのだよ。『民衆の声は神の声』と言うが、それは、誤りだ」


「魔王なら、できるんですか?」

「魔王。そう呼びたければ呼ぶといいさ。人であって、人であらざる存在だ」


 目を上げて音楽家を見つめてから、アシュラは書き殴った。

「魔王が、自分を犠牲にするわけ、ないじゃないですか!」


 ゆっくりと、ベトーヴェンは、それを読み下した。二度、三度。

 乱暴な字で書いたことを、アシュラは恥じた。

「そんな存在が、この僕に、見けられるのでしょうか……」


になったら、きっとわかるんじゃないか?」

「そんな、無責任な……」


「人生なんて、そんなものさ。その場限りの選択肢から選び、とにかく、先に進むんだ。自分の決断を称賛するか、後悔して呪うかは、先の話だ。だが、これだけは、言っておく」

 大きく息を吸った。一言一言、はっきりと口にする。

「決して幸福なことではないのだよ、人の上に立つということは」


「やっぱり、僕には、わかりません。頭が、さっぱり回らない」

 アシュラは首を横に振った。泣きそうな顔をしている。


 経験の少ない者には、酷過ぎる任務かもしれない、とベートーヴェンは思った。だが、アシュラも、やがて、おとなになる。

 先の短い自分より、ずっと多くの時間を、彼は所有しているのだ。

 ここは、彼に任せるしかない。


 アシュラはアシュラなりに、今現在の解決策を思いついたようだ。

「頭が働かないのは、きっと、お腹が空いているからに違いない。……食事にしましょ」

 彼は、立ち上がった。立ったまま、テーブルに向かい、書き足す。

「マカロニのチーズかけを用意します。あれなら、僕にも簡単に作れますからね。お魚を食べたいのなら、先生、そろそろ、次のコックを探さないと……」


 魚も好きだが、マカロニをチーズで和えたのも、ベートーヴェンは大好きだ。それに、アシュラは、前のコックと違って、チーズをたっぷりまぶしてくれる。

 とりあえず、今日の食事に不満はない。

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