メフィストの誘惑
家の中から、ピアノの旋律がこぼれてくる。美しい調べだ。
ほっと、体の奥底から、嫌な気持ちが流れ出ていくのを、アシュラは感じた。仕事をすることで入ってきた邪気が、抜け出ていくのを感じる。
乱暴にドアが開いて、若い娘が飛び出てきた。両手に大きな鞄を下げている。
「あ、アシュラ」
娘は叫んだ。
「どこ行ってたのよ! まあ、どこでもいいわ。とにかく私、もう、我慢できない! 出ていくから。さようなら!」
一息に叫ぶと、さっさと歩き出そうとする。
「待てよ、ヨハンナ」
慌ててアシュラは、ヨハンナの鞄を掴んだ。
「出ていくって、メイドを辞めるのかい?」
「そうよ!」
「随分早いじゃないか。君が来たのは、たった一ヶ月前だぜ?」
「コックは6日で辞めたわ!」
「あの男は、そりゃまあ、そうだったけど、でも、君は……」
「とにかくもう、限界。一ヶ月もよく保ったわ! 自分で自分を褒めたい気分よ!」
「一体何があったっていうんだい?」
「トイレよ! ピアノの下の、トイレ!」
「ああ、また爆発したか……」
作曲に夢中になるベートーヴェンは、寸暇を惜しんだ。ピアノの下に簡易トイレを用意してあるのだが、しばしば、中身を捨て忘れる。
「溢れたら、もう、私の仕事じゃありませんからねっ!」
叫んでメイドは、アシュラの手から鞄をひったくった。
「じゃ、さよなら。あなた、よく我慢できるわね」
「いやまあ、偉大なる芸術に仕える身として……」
「私も最初はそうだったわ! でもまさか、『月光』や『エリーゼの為に』が、あんなすさまじい部屋で作曲されたとは思わなかったのよ!」
「僕も思わなかったよ……」
「どこかでまた会いましょ。会えたらね!」
言い捨てて、メイドは、ものすごい勢いで、通りを歩き去っていった。
自分がこの家に通うようになってから、いったい何人のコックやメイドが逃げ出していったことだろう。
アシュラは、首を横に振った。
いや、逃げ出したのは、使用人達だけではなかった。あまりの部屋の乱雑さや、隣人からの苦情で、ベートーヴェン自身も、数え切れないくらい、引っ越しをしている……。
玄関のドアは開けたままだった。家の中に入ろうとして、アシュラは、はっとした。
薄暗い玄関ホールに、黒ずくめの服装をした、痩せた男がいて、アシュラのことを、じっと見つめていたのだ。
「『偉大なる芸術に仕える身』、確かにそう、言った」
アシュラをひたと見据えたまま、男は言った。
底知れぬ瞳は、燃え盛るように赤く輝いて見えた。
その目の吸引力は強力で、自分からは、目をそらすことができない。
自分の体がこわばり、硬直するのを、アシュラは感じた。
ひどく、恐ろしく感じた。
「お前か。お前が探してくるのだな」
低くざらざらした声で、男は言った。その吐息からは、わずかに、硫黄の匂いがした。
「名は?」
「ア、アシュラ。アシュラ・シャイト」
「アシュラ・シャイト!」
大きな口を開けて、男は笑いだした。その犬歯が、ひどく尖っているのに、アシュラは気がついた。
「たった今から、名を変えるがいい。シャイトではない。シャイタン。お前は、アシュラ・シャイタンだ」
「アシュラ……、シャイタン……?」
かすれた声で、アシュラは繰り返した。頭に霞がかかったようで、うまく物が考えられない。
「その名に、守護を与えよう。
ふっと、男が目を外した。
見えない鎧が解けたように、アシュラの体から束縛が消えた。あまりに急に体が解放され、思わず彼は、よろめいた。
……なんだ、今のは。
慌てて体勢を立て直し、目を上げた。
男の姿は、すでになかった。
*
流れるようなピアノの旋律が止んだ。
「暑い」
音楽家はつぶやくと、立ち上がった。
部屋の隅には、バケツがおいてあった。おもむろにそれを持ち上げると、中の水を、頭から被った。
ドアが開く気配がした。
「先生!」
入り口に佇んだまま、下働きの少年が叫んだ。彼の唇の動きから、音楽家は、読み取った。
この子の名は……確か、アシュラ。年若い、まだ、ほんの少年だ。黒い髪に、黒い目をしている。どこかで、東洋の血が混じっているらしい。
雑多な人種が暮らすこのウィーンでは、珍しくもないことだ……。
「先生、だめじゃないですか! 家の中で水を浴びたら! 大家と、下の階の住人に、また、怒られますよ?」
雑記帳に駆け寄り、少年は、強い筆圧で書いた。
「暑かったんだよ」
ベートーヴェンの声は、少し調子が外れている。
耳が聞こえないからだ。自分で自分の声を聞くことができない。だから、つい、大きめの声になってしまう。
らしい。
じっとベートーヴェンの口元を見つめていた少年が、再び雑記帳に向かった。
「だったら、窓を開けるとか、水を浴びるんだったら、せめて服を脱いでから、浴びて下さいよ!!!」
「今度からそうする」
ふと、アシュラの目が、ピアノの上に止まった。
「あっ、カビ!」
そう、叫んだようだ。彼は、皿を取り上げた。筆記帳の上に屈み、猛然と書き込む。
「先生、まさかこのパン、食べてないでしょうね?」
「端の方だけだ」
「食べたんですか!」
絶望の色が、黒い瞳に浮かんだ。
「なんてことを! 偉大な音楽家にもし万が一のことがあったら、僕は世界に対して、どう詫びたらいいんだろう……」
「カビの生えたパンを食べたくらいで、大げさな」
「もっと、御身を大事にして下さい! 先生のお体は、先生お一人のものじゃないんですよ!」
まるで妊婦になったようだと、ベートーヴェンは思った。
しかし、大切にされるというのは、悪い気分ではない。
音楽家は、アシュラが捧げ持った盆に目を止めた。
「それ、コーヒーか?」
「そうです。ちゃんと豆60粒を数えて、挽きました」
「ご苦労」
コーヒー豆60粒で淹れるというのが、ベートーヴェンのこだわりだった。彼は、濃いコーヒーが好きだった。好みのちょうどよい濃さが、豆60粒なのだ。
アシュラが、ソーサーに載せたカップを差し出した。ベートーヴェンが受け取ると、彼は再び、雑記帳に向かった。
「先生、9番目の交響曲のご成功、おめでとうございます」
「うむ。成功したか」
「もう、大成功ですよ。リハーサルでさえ、僕は、鳥肌が立ちました」
「そうか」
アシュラは、部屋の隅からモップを出してきた。床の水を拭き始める。慣れた手付きだ。
だが、水は床に染み込み、いささか手遅れな感が否めない。
諦めたように、ため息を付いた。すぐにモップを片付け、コーヒーを楽しんでいるベートーヴェンのところへ戻ってきた。
「先生、メイドが辞めました」
ベートーヴェンが何か言おうすると、慌てたように雑記帳に書き殴った。
「でも、ご安心下さい。すぐに次を見つけますから! 今度はもっと、気立ての良い、優しい女の人を……」
「頼んだ」
家政能力ゼロの作曲家は頷いた。
「それよりお前、さっき、誰かと話していなかったか?」
「え? 先生のところに見えたお客さんでしょ? 黒ずくめの服装をした、気味のわる……、いえ、その、」
「ありゃ、メフィストフェレスだ」
「めふぃすと? ふぇれす?」
怪訝そうな黒い瞳を、アシュラは上げた。
「誰です、それは?」
「君、ゲーテを読まんのかね。テプリッツで会ったことがあるが、あれは、素晴らしい男だ。皇族に頭を下げるのだけが、難点だが」
12年前の1812年、ベートーヴェンは、温泉地テプリッツに出かけた。そこには、文豪のゲーテも来ていた。二人の出会いは、ゲーテがベートーヴェンの宿を訪ねることで、実現した。20歳以上も年の違う二人は(ゲーテのほうが年上)、意気投合し、一週間以上もの間、行動を共にしたという。
温泉地には、ハプスブルクの皇族も来ていた。
ある日、二人が腕を組んで公園を歩いていると、向こうから、皇族一行がやってきた。ゲーテは帽子を取り、道の端に寄って、頭を下げた。だがベートヴェンは、帽子の縁に手をかけただけで、そのまままっすぐに、皇族一行の真ん中を突っ切って歩いていった……。
ベートーヴェンは頷いた。
「確かに、彼は、あの連中に恭しくなりすぎたと、メフィストフェレスも、言っとった」
「そんな昔のことを言いに、メフィストなんとかは、先生のところへやってきたんですか?」
「いや、要件は別にあってな。自分で言うのもなんだが、昨日の第九な、アレに感動して出てきたんだと」
……
そうだ、地球上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい
「この一節に、感動しました。特に後半にね」
ピアノを叩く音楽家の後ろに回り、黒づくめの服を着た来客は言った。
人の声が聞こえるとは珍しい、と、ベートーヴェンは思った。
普段、来客とは、筆談で会話をしている。このピアノの音だって、口に咥えたへらを筐体に差し込み、その振動を感じ取るようにして聞いていたのだ。
ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
自身の歓喜の声を合わせよ
小さく歌い、メフィストフェレスは、にやりと笑った。
「貴方には、妻がいませんね」
「だが、儂には、友がいる。少なくとも、儂はそう思っている相手が、ね」
相変わらずピアノに向かって身を傾けながら、ベートーヴェンは答えた。
メフィストフェレスは半眼になった。
何かを探るように思いを巡らすそぶりをしている。少しして、彼は言った。
「なるほど。貴方には、友がいる」
「そう言ったじゃないか」
「友情とは、双方向なものですからね。私は今、それを確かめました」
「確かめる? おかしなことを言う」
意味がわからず、ベートヴェンはつぶやいた。彼は、友に対して真の友情を抱いていた。そして、友の友情を疑ったことはなかった。
メフィストフェレスはおどけた顔をし、両手の掌を上にして、軽く上げてみせた。すぐに真顔に戻る。
「いずれにしろ私は、あなたの音楽に、大層、感動しました。この気持を表すために、貴方を、魔王にして差し上げましょう」
「魔王?」
相変わらずピアノに向かったまま、ベートーヴェンは繰り返した。
黒い響板には、後ろに立っているはずの男の姿は映っていなかった。この響板は磨く必要があると、ベートーヴェンは思った。
背後から声が聞こえた。
「貴方に、力を授けます」
「力?」
ひときわ強く、ベートーヴェンは鍵盤を叩いた。
「はい。貴方に、全ての人間を屈服させる力を差し上げます」
不協和音が響いた。
「要らんよ」
ベートーヴェンは答えた。
「魔力ではなく、音楽の力で、人の心を虜にしたいからな、儂は」
ふい、と、メフィストフェレスの立ち上がる気配がした。
「よいものですよ。自分が一切、傷つくことなく、人を踏みつけるというのは」
「要らん」
メフィストフェレスは、ベートーヴェンに近づいてきた。その耳元に口を寄せる。
「いったい、魔王の、何が不満なのですか? 魔王になれば、永遠の命を得ることができるというのに」
「永遠の命だと?」
ベートーヴェンはため息をついた。オブリガートに移行しつつ、答える。
「とんでもないことだ。今までの54年の生涯だけでも、明日の予定やら家事やら、本当に大変なことだ。こんなのが永遠に続くかと思うと、考えただけでも死にそうになる……」
「魔王になったら、そんなのは全部、人間にやらせればいいんです」
「その人間とのつきあいに、儂はもう、うんざりなんだよ」
「人の上に立つのも?」
「特にいやだね」
「なるほど」
メフィストフェレスは頷いた。
「ですが、貴方には、責任があります」
「責任?」
……そうだ、地球上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい……
メフィストフェレスは歌った。
「貴方が人の輪から追い出した者たちへの、責任ですよ」
「儂が追い出したわけでもあるまい」
「貴方が追い出したのです」
きっぱりとメフィストフェレスは言った。
「峻厳な音楽によって。素晴らしい、完成された、天上の調べによって。あなたの糾弾で、彼らは、この地上に留まることができなくなったのです。ただ、その生涯において、誰にも愛されなかったというだけで!」
「知ったことか」
「気の毒な彼らを救済するために、貴方には、魔王になる必然があります」
「めんどくさい。儂には無理だ。思索の時間がなくなる」
「それは困りましたね」
「それに、一度手を離れたら、その曲はもう、儂のものではない。どう解釈をするかは、指揮者や演奏者や、聴いた者の、勝手だ」
「そんなものですか」
「そんなものだ」
「さて、どうしましょうかねえ」
メフィストフェレスはため息をついた。
「私も魔族の端くれです。人間に対して一度出した申し出は、引っ込めることなどできない」
「要らんよ」
スタカートで指を弾ませながら、ベートーヴェンは答えた。
「地上を追われた者の救済ということなら、同じように、地上を追われた者が、魔王になればいいじゃないか」
メフィストフェレスは首を傾げた。
「ですが、滅多な人間には、魔王の資格を与えることはできません」
「それなら、いい考えがある」
……
※【作者注】ゾロアスター教では、悪魔(サタン)を、シャイタンといいます
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます